都の有力氏族、藤原・源氏・平氏らの東北での勢力争い
陸奥の蝦夷と呼ばれた人たちは、8・9世紀以前中央政府に従っていませんでした。しかし大和朝廷は豊かな土地である板東や東北をほおっておくはずがありません。大和朝廷勢力は多賀城を築いた神亀元年(724年)から桓武天皇の死の頃まで延暦25年(806)のころまで、東北に対し激しい東征を実行しています。
いち早く奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)に進出していた安倍氏に加え、10・11世紀に入ると藤原氏・源氏・平氏など都の有力氏族がこの地でも勢力争いを始めます。
源氏に先駆けて奥州進出を果たしていた平氏一門
永承5年(1050)、安倍頼良(頼時)が衣川(奥六郡の南の堺)を超えて磐井郡(西磐井郡 平泉町および奥州市の一部にあたる。)に進出してきました。国衙勢力は、これを防ぐために争いとなります。このときの国衙勢力としては、陸奥守藤原登任(なりとう)、出羽秋田城介平繁成(重成)らがいました。
平繁成は、平繁盛の孫です。
対して、安倍頼良の側にも、平氏がいました。頼良の娘婿として、安倍軍団の中心的人物だった平永衡です。永衡はどのような人物だったのかよく分かっていませんが、一説には下総の平氏一族だったとか、海道平氏だったとかいう説があります。
海道平氏とは
海道平氏も、陸奥や出羽に進出してきた平氏一族です。常陸平氏の分流だと思われます。海道平氏は、早くから出羽の清原一族と婚姻や養子縁組によって深く結び付き、陸奥の最南端である磐城周辺から東北をねらっていました。その政策の一環として、海道平氏は、奥羽の安倍氏をにらみ陸奥の清原氏と結び付きを深めていったのです。
二つの平氏系図を示しましたが、微妙に記述内容が違います。1000年近く前の出来事なので、記憶・記録が曖昧になるのはしょうがないことなのでしょう。
どちらにしても、早い時期から平氏の一族が坂東や坂東以北に勢力を着々と伸ばしていたことが伺えます。
源頼信の子、頼義と前九年の役
頼信の子、頼義は正暦5年(994)に、三河の国(愛知県)の壺井で生まれたとされます。平忠常の乱(1028~)からさらに約20年後に、頼義は奥州に赴任しました。(1051年)
頼義の陸奥入りは、朝廷に従わない安倍氏の存在がありました。前九年の役と呼ばれる諍いです。この争いで陸奥の国の俘囚の長、安倍氏が滅亡したのが1062年ですので、「奥州十二年合戦」とも呼ばれました。
実は、どこから数えて9年間なのか疑問なところもありますが、一般的には源頼義がこの乱に正式介入してから9年間ということで「前九年の役」と呼ばれます。
奥六郡の長、安倍氏は異民族なのか
奥六郡は、元々は蝦夷(えみし)の居住地と言われます。その長が安倍氏でした。安倍前総理はこの安倍氏の末裔に当たります。(頼時三男の安倍宗任は降伏して一命を取り留め、子孫は平家方の水軍として活躍。平家滅亡により山口に流罪となり山口安倍氏となる。)
陸奥の長であった安倍氏も、おそらく早い時代に陸奥に下ってきた京都の貴族でした。俘囚の長とか蝦夷とか言うと、何か異民族のような印象を持ちますがDNA的には、大和朝廷の人も陸奥や出羽の人も同じDNAを持つ日本人でした。
源頼義、板東武者の期待を背負って陸奥鎮守府将軍となる
都の武士の末流が、覇権争いをしていたこの東北の地で、前九年の役の戦いの初期の段階で、安倍頼良に大敗した秀郷流藤原氏の登任が鎮守府将軍職を解任されます。
その後の将軍職を任されたのが源頼義でした。1051年、頼義は付き従う一族や郎党(板東平氏)の期待を背負って東北に入ってきました。
源頼義は 源氏と平家の両方の血を引くサラブレッド
陸奥の鎮守府将軍となった源頼義ですが、彼自身も源氏と平氏の両方の血筋をもっています。
母はあの平直方の娘だったのです。忠常の乱の討伐に失敗した直方が、ライバルであった頼信の武勇を見込み、自分が拠点としていた鎌倉の地と共に自分の娘を頼信に嫁がせました。源氏と平氏の武勇のトップの祖父を持つサラブレッドとして頼義は誕生した訳です。
安倍軍の中の藤原氏
安倍氏の側に藤原経清という人物がいました。経清は、秀郷の6代後の末裔だとされています。元々は源頼義の前の陸奥守、藤原安任に従っていた源頼義の弟の頼清の郎党でした。藤原安任の従者の従者です。
しかし、出自が良いからか、安倍頼良に見込まれ、頼良の娘を嫁にもらいました。そして生まれたのが後に奥州藤原氏初代となる清衡です。
安倍氏にとって転機が訪れます。1052年、都では藤原彰子の病気が治るようにということで、大赦が行われたのです。これによって、安倍氏も朝廷に逆らったという罪を許されました。
罪を許された安倍頼良と一緒に娘婿の藤原経清も罪を許されました。
安倍頼良は、このとき自分の名前が頼義と同じ読みなので「恐れ多い」として、名を頼時と改め頼義に恭順の意を示しました。
しばらくの間、安倍氏と源氏は良い関係が続いたのですが、阿久利川で野営をしていた藤原光貞・元貞から自分たちの野営地に、安倍頼時の息子、安倍貞任(さだとう)が、襲撃をしてきたと頼義に訴えてきました。
「なぜ安倍貞任が襲撃してきたのか」と問われると、貞任は『藤原光貞の娘(妹とする説もある)が欲しいと申し出ていて、「安倍のような卑しい一族に娘をやれるか」と答えた。襲撃はその仕返しだろう』と頼義に説明したと言います。それを聞いて、頼義は安倍貞任に自分の所に説明に来るように命じましたが、父の安倍頼時はそれを拒んだのでした。
またこの娘は、藤原説貞(ときさだ)の娘との説もある。
安倍貞任の藤和田光貞・元貞襲撃事件がきっかけとなり、頼時の娘婿になっていた平永衡は殺されてしまいます。同じように娘婿となっていた藤原経清も殺されるのではないかと恐れ、源氏軍からまた安倍軍に戻ります。元々藤原秀郷の流れを汲む武勇の人ですから、安倍軍に戻った後は、安倍の中心勢力として源氏軍をかき回します。
1057年になろと、安倍頼時が討ち取られます。頼時を失って戦意を喪失するかと思われた安倍軍は、安倍貞任を中心に団結を一層強めました。
頼義と貞任の戦いは、藤原経清の活躍などにより安倍軍に軍配が上がりました。頼義は逃げるのが精一杯の大敗北だったと言います。この敗北の結果、頼義は力を回復するまでに数年を要します。
このままだと、父頼信が平忠常の乱で築いた武勇の一門としての源氏の地位が地に落ちます。そこで、頼義はある一計によって再度安倍一族に戦いを挑みます。
さて、この後、前九年の役はどのように展開していくのでしょうか。
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