江戸幕府を一言で言うと
江戸幕府を一言で言えば、これぞ「THE SHOGUNATE」
日本史における完成型の将軍統治機構だ。
家康は、将軍統治機構を安定させるためにはどうすればよいか、鎌倉幕府や室町幕府を見て『幕府には、「権威と権力」の両方が必要』だということを痛感していただろう。
そして権力の充実のためには、「軍事力と経済力の両方の充実」が必要であることもつかんでいた。
家康の 権威充実策
家康は、まず征夷大将軍となることで、権威を確立させた。
「何当たり前のことを言って。」
と、思われる方もいるかもしれないが、実はこれが当たり前ではない。
家康は、本来は征夷大将軍になれない人だったのだ。それを、無理やり征夷大将軍の地位を獲得したのだった。
なぜ信長や秀吉は征夷大将軍になって幕府を開かなかったのか
実は、信長も秀吉も実力はあったが、征夷大将軍にはなれない人たちなのだ。
征夷大将軍になるには、身分的な縛りがあった。
一言で言えば、征夷大将軍になれるのは、「源氏の血筋の者」だけという決まりだ。
頼朝も、尊氏も源氏だった。
だが、信長や秀吉は源氏の血筋ではない。だから二人は、そもそも征夷大将軍にはなれない人物だった。
信長の先祖は地方の土豪だし、秀吉に至っては単なる農民の子。
権威を嫌う信長ですら一時期、自分の「先祖は平氏だ」と言っていたことがある。だが、平氏ではダメなのだ。「自分は平氏だ」と自分で言ったことで、征夷大将軍の道は閉ざされた。
秀吉が農民の子であることは、ほぼ知れ渡っている。「わしゃ、源氏の出だでよ」と、言っても誰も信じない。
だから二人がもし、生き残って天下を掌握し続けたとしても、おそらく幕府態勢とは違ったシステムを構築しなければならなかったろう。
徳川家は平氏から、源氏に系図を変えた
では、家康の松平(徳川)家はどうだろうか。
家康の祖先は、各地を流れ歩く僧侶だったと言われている。つまり、源氏も平氏も怪しい。
松平が力を付ける過程で「自分たちは平氏の流れを汲む」と言っていたこともあるようだが、まだ天下に名が通る前なのでうやむやにしてしまった。
家康が天下を掌握した後か、その前か、何時しか「徳川は源氏の流れを汲む」ことになっていた。
だから、徳川将軍の本姓は、全員『源(みなもと)』を名乗っている。
こうして徳川が源姓を名乗ることで、征夷大将軍の権威を手に入れることが出来た。
こうして、徳川は、征夷大将軍という権威を手に入れた。
徳川発祥の地と言われる群馬県太田市
群馬県太田市あたりは、新田氏の治める地だった。新田氏は足利氏と先祖を同じくする源氏の血脈。
その新田氏の一族で、現在の群馬県太田市尾島町を納めていたの一族が徳川を称していた。
家康の祖先の親氏(ちかうじ)と言う人が、徳阿弥(とくあみ)と称して時宗の流れ僧となって三河に流れてきた。そして、松平家の入婿になる。
この人の生まれが群馬県の太田市と言われる。
つまり、「自分は新田氏の末裔であり、源氏だ」と言うわけだ。
家康の権力充実策
権威は手に入れたが、問題は実力に裏付けられた権力の掌握だ。実力とは要するに、日本で一番戦争に強い大名ということ。
鎌倉幕府は、そもそも、将軍などいなくて合議制を取ったりしていた時期がある。そのうち頼朝の血筋が絶え、将軍はお飾り将軍はお飾り的になってしまった。
室町幕府は他の大名に遠慮して、ほんのわずかな直轄領しか持たなかったので、将軍は軍事的にも経済的にも実力不足だった。
直轄地を 日本の四分の一とした
そこで、家康は室町幕府の逆の戦略をとる。思いっきり広い領地を持ち、なんと日本のおよそ 4分の 1を徳川直轄地とした。
大名配置
大名の配置にも注意を払った。
徳川方の大名は、江戸の近くや主な街道沿いに配置した。
敵対しそうな大名は、江戸からできるだけ遠くに配置した。
経済管理
また、実力は軍事力だけではない。経済面も重要。お金がなければ軍備を充実させることはできない。そこで、幕府は「各大名にできるだけお金を使わそう政策」を展開する。
江戸城の工事(「天下普請」)などを計画し、各大名に命令して国の大きさに見合う金を出させ、労働力も提供させた。
3代将軍家光のころに、有名な参勤交代の制度が整った。
これにより、各大名は、自分の国元と江戸との間を往復させられることになった。その行列に対しても、国の規模によって「これこれの格式を整えよ」と、命令され莫大な出費となった。
さらに、参勤交代によって、国元と江戸の二重生活を強いられる。こちらも大きな出費となった。
各地の大名にお金を使わせて、戦争を起こすだけの経済力を奪うという政策だった。
「江戸幕府内の重要人物の禄高は低くする」政策
さらに、家康は年寄や老中といった幕府内の高官の禄高は、低く押さえた。
禄高の高い者は、低いポストに据え置き、重要ポストを得る人物は低所得(低い禄高)というシステムにした。
これが江戸幕府の人選の基本システム。
こうすることで、位重要ポストを金で買うことができないシステムができあがった。
これ以外にも、様々な工夫を凝らし、江戸幕府は、三角形の頂点に君臨する「権威と権力」を共に備えた幕府となった。
武家政権の終わり
徳川慶喜の大政奉還、そして明治維新によって、700年近く続いた武家の世は終わりを告げる。
司馬遼太郎史観によって、慶喜は、無能な将軍のようなイメージができあがってしまったように思えるが、慶喜は決して無能な将軍などではない。
水戸学を重んじ、個人の名誉以上に、将来の国の在り方を考えることができた偉大な人物だったと、水戸に住まう私には思える。
江戸時代が始まったころは、日本の軍事力は世界でもトップクラスだった。鉄砲の保有数は世界一だったと言われているので、スペインもイギリスもおいそれと日本に手を出すことが出来なかった。
だが、3代将軍家光の頃に完成した鎖国政策により、1637年の島原の乱を最後として、2世紀も戦争がな意状態だった。当然武器も戦術もアップデートされることなく平和な時代が過ぎていった。
その結果、200年後の日本に、戦争ばっかりやっていた欧米の軍事大国の脅威が訪れる。
日本でも、一部の知識人の間では、外国の脅威、近々に起こったアヘン戦争脅威が情報として伝わってはいた。
だが、日本人は言霊思想の国柄で、「よくないことを口にすると現実化する」という今般的な考え方が身に付いてしまっているので、間近に迫った脅威が、実際に見えない間は、「無いもの」としてやる過ごす癖があった。
やがて、日本に現実の脅威が訪れる。黒船来航だ。
目の当たりに軍事力の差を見説蹴られた日本人は、驚愕する。
日本は、討幕派と佐幕派に別れ、血で血を洗う殺戮を繰り返す。
やがて戊辰戦争が起き、15代将軍の徳川慶喜の英断により慶応3年10月14日(1867年)大政が奉還される。 1185年から682年続いた武家政権は終わりを告げた。
もし、慶喜が大政奉還を行わなかったら、日本人同士の殺し合いがさらに続き、結果として国力が衰え列強の植民地になるという危険性が高まっていただろう。
日本は昔から、優れた文化をもつ国
もったいない精神
平和を謳歌した江戸時代、肥料や生産技術の向上により経済力がアップし、1600年代に人口が急増している。その後は、だいたい 3000万人くらいの人口で推移した。
3000万人というのは、現在のオーストラリアの人口より多い。
資源力不足の江戸時代の人々が、なぜ、鎖国下で人口の急増に耐え、生活水準を維持・向上できたのだろうか。
それを可能にしたのは、徹底したリサイクルが浸透だろう。
当時の日本人はほぼゴミというものをほとんど出さない。生活の中のあらゆるものをリサイクルしていた。
特に江戸の町はすごい。
江戸の人口は、 19世紀初頭には 110万人くらいになっていた。110万人というのは、同時代のロンドンやパリよりも多い。
狭い範囲に多くの人が密集して暮らしていたのだ。
こうなると、問題なのは排泄物の処理だ。例えばロンドンやパリでは、排泄物が道路に散乱していた。
だから、疫病が蔓延する。腸チフスやコレラ、赤痢などの疫病に人々は次々と罹患していた。死が常に隣り合わせだ。
ちなみにハイヒールは、道に落ちているウ〇チを踏まないようにとの工夫から発明されたという。
また、フランス人形などに見られるあの裾の広がったスカートは、スカートをはいたまま排泄ができるように工夫された形だという。
エレガントさの概念がちょっと変わる…。
それに対して日本では、道端にウ〇チが落ちてるということはまずなかった。馬糞はよく落ちていたみたらしいが、それもすぐに回収された。
なぜなら、日本は究極のリサイクル社会だったからだ。
ウ〇チさえ、肥料とされていた。
幕末に江戸を訪れた多くの外国人が、その町の美しさに驚いている。 100万人の大都市の道に排泄物が落ちていない。まったく臭くない。
「なんだ、この国は?」「野蛮な国だと思っていたのに、恐ろしくきれいだぞ」
日本では当たり前のことが、外国人には驚きだった。
どうだい、恐れ入ったか。
と、ちょっと自慢したくなる。
まとめ
幕府という言葉は「将軍の住む館」というほどの意味。
いまのように武家政権そのものを指す言葉として使われだしたのは江戸時代も後半に入ってから。
今回、便宜上すべての武家政権を「幕府」とした。
教科書も、すべて幕府という言葉を使っているので、ついつい鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も、似たようなもの、という錯覚してしまう。
だが、 700年も続いた武家政権下の三つの幕府がすべて同じものであったはずがない。
鎌倉幕府に至っては政権を担っているという自覚すら希薄だったろうし、将軍がいない時期さえあった。それぞれの時代にそれぞれの事情があり、それぞれの形で組織を作っていたのだ。
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