「江戸時代の三大改革が、人々にどのような変化を与えたか」という質問がヤフー知恵袋にあった。「それぞれの改革は、時代のどのような矛盾や危機に対応しようとしていたか」を考えることで、この質問の解答に迫る。
三大改革に「田沼時代」を含め、江戸時代の4つの改革は、当時の社会にどのような影響を及ぼしたか。ごく荒く言えば、『徳川吉宗の享保の改革は、元禄時代以降の世の中に生じた矛盾を、ある程度緩和した。』『松平定信の寛政の改革は、天明期の危機的状況を和らげ、その後の江戸幕府に安定を生み出した。』そして、『水野忠邦の天保の改革は、打ち出した政策のほとんどを後に撤回せざるを得なくなり、有効な対応が出来なかった。その結果、内憂外患を抱える幕藩体制に本格的な危機が訪れた。』
江戸時代年表
中学校では、何時間でこの期間を学習するか
現役教師だったころの平成の教科書を見ると、項立ては「節 江戸時代の成立と鎖国」とあり、その中に「1.江戸幕府の成立と支配のしくみ」「2.さまざまな身分とくらし」「3.貿易振興から鎖国へ」「4.鎖国下の対外関係」
「節 産業の発達と幕府政治の動き」があり、その中に「1.農業や諸産業の発達」「2.都市の繁栄と元禄文化」「3.享保の改革と社会の変化」「4.田沼政治と寛政の改革」「5.新しい学問と化政文化」「6.外国船の出現と天保の改革」
2節10小項目があり、概ね10時間で江戸期の三大改革にかかわる期間を扱うことになっていた。
この後の、開国・明治維新の学習は別節としてつながる。
一張一弛史観
江戸期の政治は、「一時代悪政の期間が続くと、次に善政の期間がやってくる」という、一張一弛的な歴史観が通説だ。
例えば、元禄時代の5代将軍徳川綱吉が、生類憐れみの令のような悪法を出したが、8代将軍徳川吉宗の時代は、享保の改革で善政が行われた。
など「善政と悪政が交互に訪れる」という史観だ。
まず、江戸時代の大まかな流れを振り返ってみる。
元禄時代(1688年から1704年頃)
徳川綱吉と側用人の時代
・17世紀末から18世紀初頭
・生類憐れみの令が有名
・華やかな世の中、賄賂の横行
正徳の治(1709年から1716年)
新井白石・間部詮房(まなべあきふさ)らの政治(6代家宣・7代家継のころ)
・私たちが中学生の時には、教科書にあった気がするが、平成の東書・帝国の教科書にはない。
・ただし、日文の教科書の年表内には、新井白石の名があった。
・幕府の信頼回復を図るが、新井白石の失脚で挫折
【享保の改革】(1716年から1735年説・1745年説など)
8代将軍 徳川吉宗
・家康のひ孫
・「諸事権現様の掟通り」が基本姿勢
・18世紀初頭の1716年(享保元年)から
・倹約
・吉宗は幕府中興の祖と呼ばれた
田沼時代(1767年から1786年・有力説)
田沼意次の時代(9代将軍・家治・・・政治に興味がなく意次まかせ)
・18世紀末(1769年意次老中格・1772年老中)
・賄賂・汚職
【寛政の改革】(1787年から1793年)
松平定信(吉宗の孫)(11代将軍・家斉・・・政治に余り意欲なし)
・厳しい倹約
・綱紀粛正
大御所時代(1793年から1841年)
水野忠成(ただあきら)(田沼意次派)(11代・家斉・・・政治に意欲なし)
・田沼時代の再来(賄賂・汚職)
【天保の改革】( 1841年 – 1843年 )
水野忠邦(12代家慶・・・「凡庸の人」とも言われるが、それは大御所家斉の影響下にあったことによる。本来は人を見る目をもつ将軍とも)
・叔父水野忠成(ただあきら)の死後頭角を現し、大御所政治批判
江戸時代から「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」という呼び名はあったか
呼び名はなかった。しかし、「享保期」や「寛政期」に優れた政治が行われたという意識はあった。
このことは、水野忠邦が老中となり政治を行うことになったときに、将軍からの伝達として諸侯に通達した文章に表れている。
御政事之儀 、御代々之 思召者勿論之儀、取分享保、寛政之 御趣意に不違様 思召候付、何も厚心 得可相勤旨
「天保の改革を断行する」という決意表明文である。文中に『「享保」「寛政」の御趣意に違わないように』とあり、同じような改革を行うことを宣言している。
この文から、「享保の改革」「寛政の改革」という言葉はなくとも、認識はあったことが分かる。
江戸の三大改革は、徳川吉宗の血筋の者が関係する
享保の改革を行ったのは、8代将軍 徳川吉宗。そして、寛政の改革を行った松平定信は、吉宗の孫。
天保の改革の水野忠邦は、徳川の血筋ではない。そこで忠邦は、吉宗の実の子で、信州松代藩に養子に出た真田幸貫(ゆきつら)を老中に抜擢した。吉宗の血筋を傘下に置くことで、自らの改革に権威をもたそうとしたのだろう。
ちなみに、真田幸貫の家臣に佐久間象山がいた。
そして、象山の弟子に、長岡藩の河井継之助らがいた。
この時期、他藩の者であっても優秀な者の弟子となり、実学を求める時代となっていた。
「江戸時代の三大改革」という言葉は いつから使われ始めたか
本庄栄二郎氏の「近世日本の三代改革」
本庄栄治郎氏に『近世日本の三大改革』(編著、龍吟社「日本経済史研究所経済史話叢書」という著書がある。この本は1944年発刊。ここで、『三大改革』という言葉が使われている。
ちなみにこの本は、「江戸時代崩壊の要因」について次のように論じている。
「貨幣経済の発展と商人資本の台頭」により、それまでの「封建経済」が変化した。この【経済的変化】が、江戸幕府崩壊の要因である。
とした。そして、その「経済的変化」への対応が江戸期の三代改革の目的だったと述べた。
本庄氏の説では、「江戸期の三代改革」を一括に論じている。
本庄氏の論に対して『はたして、三代改革の三つともを、同じレベルで語ってよいのか」、という疑問が示された。
津田秀夫氏の「江戸時代の三大改革」
津田秀夫氏には、『江戸時代の三大改革』弘文堂 アテネ文庫がある。1956年発刊。津田氏の著書により、近世史研究の中に「三大改革」論が定着した。
津田氏も、「江戸時代の三大改革」の中で、
貨幣経済の発展【商品経済が発展し、結果『幕府・各藩の財政が窮乏』】した。その結果、幕藩体制社会に危機が訪れた。その危機を乗り切るために三大改革が断行された
と述べている。
津田説も、三大改革を一括に論じていた。
近世史の時代区分・『幕藩体制の終わりの始まり』はいつか?
三大改革は、「幕藩体制崩壊の始まりはいつか」という問題との関連で捉える必要がある。だが、中学校教科書にその問題に関して直接的な記述はない。
平成の高校教科書には「幕藩体制の動揺」、という節が設けられていた。そして、最初の動揺への対応策が「享保の改革」である、とある。
つまり、当時の教科書では、「幕藩体制の終わりの始まりは、享保の改革期」前後、と教えていたことになる。
「幕藩体制の終わりの始まり」を「天保の改革」期とすることへの反論
「幕藩体制の終わりの始まり」は「天保の改革」期、とする節に対し、東京大学大学院教授だった藤田学氏は、1963年に刊行された辻達也氏が「享保改革の研究」での主張、並びに1964年刊行の北島正元氏の「江戸幕府の権力構造」の主張を引いて、
吉宗の享保の改革期は、『まだ幕藩体制の危機ではない』
享保期は、幕藩体制の確立期だった。
と主張している。
辻氏、北島氏、藤田氏の説に従えば、『幕藩体制の終わりの始まりは、【寛政の改革期】前後』ということになる。
享保の改革が「幕藩体制の崩壊を防ぐ」ことが目的でなかったとしたら、何を目的として行われたと考えるべきか
「享保の改革」期は、まだまだ「幕藩体制の確立期」であった。しかし、経済が発展し、封建社会経済下で矛盾が生じてきた。その矛盾解消を目的として改革は進められた。
この点で、「封建社会経済の崩壊」を防ぐことを目的として行われた「享保の改革」と「寛政の改革」並びに「天保の改革」とは、決定的な違いがあった、と藤田氏は著書『近世の三代改革(日本史リフレット)で指摘している。
「幕藩体制の終わりの始まりはいつか」について、通説はどうなっているか
「幕藩体制の終わりの始まり」について、現在の通説はどうなっているだろうか。
1976年の高尾一彦氏の「経済構造の変化と享保改革」により、
幕藩体制の危機を
① 初発的危機
② 本格的危機
の2段階に分け、「享保の改革」は、①の初発的危機の段階であり、「享保の改革の目的」は①の初発的危機に対する対応、つまり「初期対応」の時期だったとした。
そして、享保の改革も、「幕藩体制の終わりの始まり」の初期対応だったとすることが通説となっている。前述した高校教科書の記述は間違っていないということだ。
享保の改革
享保の改革を考えるときの3つの視点
享保の改革を考えるためには、三つの視点を意識すべきだ。
① 元禄期(1688~1704年)、幕府は初めて財政赤字を体験した。
② 元禄期の商品経済の発展が、物価問題を引き起こした。
③ 幕府は、幕府への信頼回復を図る必要があった。
元禄期、幕府領は400万石。さらに、「佐渡・伊豆・石見の鉱山」など圧倒的な財力があった。
しかし、「鉱脈の枯渇」「明暦の大火」「綱吉の無駄遣い」などにより、財政に陰りが見られた。
実際に石高は、どう変化したか
財政難に陥ったのなら、幕府の年貢石高が減ったのかと思うだろうが、実は増えている。
1650年~60年代
・実収入280万石~290万石
1680年
・380万石~390万石
享保年間の直前(~1716年)
・400万石
享保の改革の最中(1730年代)
・450万石に達し、その後減少していく
だが、年貢率は下がっていた。つまり、年貢石高は増加したが、収入は増加に比例していない。さらに問題は、各鉱山の鉱脈が枯渇し、鉱山収入が減少したことだ。
そして、追い打ちは明暦の大火だ。
享保の改革期に 幕府が直面していた問題は何か
享保の改革期に幕府が直面していた問題は、「年貢は増えているのに、財政収入が増加していないという問題」だった。この問題は、「米の収穫が伸び、米価が下がっているのに、他の価格が下がらない」という減少による。
『米価安の諸色高(しょしきだか)』
と、いわれる状況に陥っていた。
この状況が発生したのは、「米の生産量が増えて、価格が安くなったこと。」さらに17世紀後半に、米だけでなく「商品生産」が発達したことが影響している。
享保の改革の具体的施策
○株仲間の公認・堂島米市場の公認
・諸色価格の引き下げ・安定を目指した。
○諸色価格引き下げ令
・1724年【享保9年)物価引き下げを命じた。
○元文金銀の鋳造
・財政収入の増加と物価調整。経済が安定した。
○上げ米令
・大名の領地100石につき、1石の献上をさせた。
○新田開発奨励
・新田開発の考察を江戸日本橋に掲げた。
○定免制
・過去数年の年貢の平均を基準に、年貢を決めることで、数年間年貢を固定する税法を採用した。
○有毛検見法(ありげけみ法)
・上田、家電などの田畑の等級に関係なく、実際の収穫量を基準に年貢を決める方法を採用した。
○甘藷栽培の奨励
・年貢負担能力を高める目的があった。
○漢訳洋書輸入緩和
・殖産興業の一環。
○足高の制
・家禄が低く、本来はその役職に就けない身分だが、優秀な人材を登用するために、在職中に限り家禄不足の文を在職中は支給するという制度。
・大岡忠相・神尾春央(はるひで)らが有名。
○公事方御定書
・1742年・刑事事件判例を精査し、裁判の公正を図る。
○吉宗の目安箱
・江戸の防火策
・小石川養生所など
○荻生徂徠の古学
・「政談」の提出を受ける。
○室鳩巣の朱子学
・侍講(学問を講義する役割)とした。
享保の改革の評価
享保の改革の全期間で、石高・収入とも増加が見られる。このことから 享保の改革はある程度成功したと評価される。
改革の目的
享保の改革のころは、まだ幕藩体制の確立期であり、他の二つの改革(寛政の改革・天保の改革)と改革の目的が若干違った。「享保の改革」は、「幕藩体制のほころびを修正し、体制確立を目指した」のに対し、「寛政及び天保の改革は、幕藩体制の崩壊」を、止めることに目的があったとする説である。
だが、通説は津田秀夫氏らの説で、「享保の改革」は、「幕藩体制崩壊の初期段階への対応」であった、とする見方が一般的であろう。
田沼意次の時代
寛政の改革の前に、田沼意次の時代がある。平成の教科書には、次のように記述されている。
18世紀後半、低い身分の武士から老中になった田沼意次は、商工業者の力を利用して幕府の財政を立て直そうとしました。商工業者が株仲間をつくることを奨励し、これに特権をあたえるかわりに営業税を取りました。
東京書籍歴史教科書
また、長崎での貿易を活発にするため、銅の専売制を実施するとともに、俵物の輸出の拡大のため,蝦夷地の調査を行いました。
印播沼(千葉県)の干拓(干拓ではなく、堀割工事が適当・尚爺責)も始めました。この時代は,商工業が活発になり、自由な風潮の中で学問や芸術が発展しましたが、地位や特権を求めてわいろが横行しました。
1783(天明3)年の浅間山の大噴火などにより凶作が続き、天明のききんが起こりました。各地で百姓ー撲や打ちこわしが起こり、意次は老中をやめさせられました。
社会人同士で、話をすると田沼意次は、賄賂をとる悪い政治家という印象で話される。しかし、教科書を読んで分かるとおり、意次は、賄賂をとるだけの悪人として記述されているわけではない。
『清濁両方をもつ人物』
これが学校で習う田沼意次像だ。
では、どうして田沼意次=大悪にというイメージが未だに定着しているのだろうか。
確かに、田沼時代も賄賂が横行していた。戦前は、この点に視点が当たっていたのは確かだ。例えば明治期(1891年出版)、三上参次氏が『白河楽翁公と徳川時代』の中で、松平定信を模範的な人物として描き、対比的に田沼意次を、金権腐敗・賄賂・汚職の政治家として描いた。このような見方が今でも残っている。
だが、戦後は、(例えば辻善之助著『田沼時代』)田沼意次を、確かに賄賂はあったが、『積極的な経済政策を行った革新的な政治家』と評するようになった。
そして、現在これが通説であり、上記の教科書のような記述となっている。
一張一弛史観に縛られすぎると、『次の時代の政治家は、前の時代の政治家を悪く言いがち。』という大前提に目が行かなくなる。
田沼意次は、必ずしも金権腐敗・賄賂・汚職の政治家だけではない。意次は、幕府が封建経済を基盤とする態勢のままでは、近い将来たちいかなくなることを予見していたのかもしれない。将来をみこし、貨幣経済に対応出来るよう幕府機構の変革を試みていたことが、上記の教科書の表記に表れている。
寛政の改革
寛政の改革は、「近世の終焉(幕藩体制の終わりの始まり)」への対応だった。幕藩体制下の社会の基本構造が大きく変わったのは、「天明期(1781年~89年)」ごろで、この社会矛盾への対策のために行われたとされる。
この時期は、「飢饉・餓死者が多い時代」であり、「一揆・打ち壊し」が多発した時代であった。
明治維新の出発点
貨幣経済の発達に加え、深刻な対外危機が訪れた寛政の改革期に、朝廷が政治的権威を強めつつあった。象徴的なのは、「尊号事件」だ。
尊号事件
光格天皇が、実父である閑院宮典仁(すけひと)親王に、太上天皇号を贈ろうとして、朝廷と幕府(定信)が争った事件。
この事件によって、幕府は朝廷問題を政治の正面に据えざるを得なくなった。
各藩が独自に藩政改革に取り組みだした時期
幕藩体制の構造的な問題により、慢性的な財政不足に陥っていたのは幕府だけではない。各藩とも、ほぼ財政難に悩んでいた。そこで、「領内の自給率を高め、藩内の専売制」を目指す改革が各藩ごとに進んだ。
肥後熊本の細川 重賢(ほそかわ しげかた)公の改革
出羽米沢の、上杉鷹山公の改革
出羽秋田の、佐竹義和(よしまさ)公の改革
など、多くの藩で藩政改革に取り組んだ。
寛政の改革の具体的施策
経済政策
○囲米
・諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に社倉・義倉を築かせ、・穀物の備蓄を命じた。
○旧里帰農令
・地方出身の農民達を帰農させた。
○農村復興
・小農経営を中核とする村の維持と再建に力を注いだ。
○棄捐令
・旗本・御家人などの救済
・札差に対して6年以上前の債権破棄、及び5年以内になされた借金の利子引き下げ○猿屋町会所
・棄捐令によって損害を受けた札差救済
○人足寄場
・職業訓練
・治安対策
・火付盗賊改の長谷川平蔵が立案設置実現
○商人政策・豪商・富農との連携
・田沼時代の重商主義の継承
・株仲間や二朱銀などの保証
○七分積金
・町々が積み立てた救荒基金
・町入用の経費を節約した4万両の7割
・幕府からの1万両を加えて基金
※明治維新の際に、総額で170万両の余剰
※東京市に接収され、学校や道路整備などのインフラ整備に充てられた。
学問・思想
○寛政異学の禁
・朱子学を幕府公認の学問と定める
・聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改める
・学問所においての陽明学・古学の講義の禁止
○処士横議の禁
・政治批判を禁止
・海防学者の林子平の処罰
○学問吟味
・漢学の筆答試験
○文教振興
・幕政初期の精神に立ち戻る
・『寛政重修諸家譜』など史書・地誌の編纂や資料の整理・保存
対外政策
○北国郡代
・北国郡代の新設北(北方の防備)
・江戸湾防備体制の構築
:奉行所を伊豆4ヶ所、相模2ヶ所に設置
・洋式軍艦配備案(定信の老中辞職で立ち消え)
寛政の改革の評価
三上参次氏は、著書『白河楽翁とその時代』の中で、寛政の改革は『江戸幕府の崩壊を50年引き延ばした』と評価している。
直前の田沼時代を悪政と断罪し、賄賂を禁止して、幕政の公正化を図るが、この政策だと社会が進み出した商品生産社会へ待ったをかけることになった。
当然庶民たちから反発が起き、有名な
『白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき』
という狂歌が詠まれる自体に陥る。
幕藩体制の維持としての成果はあったが、庶民が望む活性化社会・商品経済社会の方向には、ブレーキをかけた。
つまり、明治維新の種子が育ち始める画期、近世の終焉、「幕藩体制の終わりの始まり」が明確化した、と言う点が、「寛政の改革の歴史的位置づけ」であろう。
ということで、「寛政の改革」は、わずか6年で幕を閉じる。
天保の改革
天保の改革の時期は、『内憂外患』の中幕藩体制の態勢的危機が鮮明になった時期である。
本格的に訪れた危機にどう対応するかが迫られた。
幕府財政の破綻と物価高騰
天保の改革期は、幕府の抱える『内憂外患』が本格化し、幕藩体制を根底から揺るがす段階となっていた。幕府財政はほぼ破綻している。享保や寛政期は、『米価と他の商品(諸色)の交換比率の不均衡』という物価上昇だった。しかし、天保期は、『貨幣価値そのものが下落』したことによる社会不安に陥っていた。
積極財政への転換
天保の改革の少し前、幕府は1818年(文政元年)に、享保の改革や寛政の改革の倹約政策から、積極財政へ切り替え、「文政金銀」と呼ばれる質の悪い貨幣を鋳造し、財政難に対応しようとした。
さらに幕府は、「商品生産と流通の活性化」を試みた。その結果、財政的には多少なり効果があったとはいえ、別の見方をすれば、自らで自らの首を絞め、自らの幕藩体制崩壊の方向に舵を切ったことになった。
これにより、農村は自給自足型の構造から、商品作物耕作型の農村構造に変質の流れを加速し、幕府が直轄して運営してきた市場や、流通機構の解体を促す結果となった。
一揆・打ち壊しが多発
天保の改革期の1830年代は、社会矛盾が本格化し、「一揆」や「打ち壊し」が多発した。
・1836年(天保7年) 甲州郡内騒動(山梨県都留郡)
・1836年(〃) 三河加茂一揆
・1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱
・1837年(〃) 生田萬の乱(新潟県)
・1837年(〃) 能勢一揆(山田屋 大助(やまだや だいすけ)の乱)(大阪)
・1838年(天保9年) 佐渡一国一揆
幕府と各藩の間の亀裂が深まり、各藩の「自立化」進む
11代将軍家斉は、天明6年(1786年)に10代家治(50歳で病死)の後、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。
天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲ったが、幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用し、天保12年(1841年)閏1月7日に死去するまで、実に50年以上実権を握り続けた。
家斉には55人もの子女があり、その子らが縁組みした大名を優遇した。当然縁組みをしなかった各藩からの反感を招き、このことが各藩の「自立化」傾向を強める一因となった。
天保期の物価高騰
社会情勢の根本的な変化により、世の中は物価高に見舞われていた。この物価高は、幕府のみならず、各藩の財政悪化も当然ながら起こした。
この物価高に対し各藩は、「殖産興業」「藩独自の専売体制構築」によって危機を乗り切ろうとした。幕府が管理した流通システムに乗ることなく、反独自の専売網を構築することに努力し、幕藩体制を崩す動きが加速していった。
幕府の物価対策
それに対して、幕府はどう対処したか。
厳しい倹約令
天保の改革は、水野忠邦を老中として、「享保」「寛政」の改革を模倣しようとした。つまり二つの前例にも増した「厳しい倹約政策」を実行しようとしたのだ。
・手の込んだ料理は禁止
・菓子類を食べてはダメ
・おもちゃもダメ
・高価な衣類はダメ
・装飾品もダメ
・錦絵もダメ(出版物・文化統制)
すでに、崩壊しかけた幕藩体制に庶民を戻そうとしてもそれは無理がある。
株仲間の解散
また、忠邦は、株仲間が不当に物の値段をつり上げているとして、享保の改革から100年続いた株仲間の解散を命じた。
結果どうなったかというと、社会構造の変革が原因なのだから、物価を下げることが出来なかったのはもちろん、それまでの流通機構を混乱させるという失策となってしまった。
株仲間を通さない専売制に移行することで。幕府には失策だが、諸藩の専売制確立には有利に働いた。幕藩体制下の海上輸送機構が崩れた(内海船などの登場)ことで、「藩の自立化」に拍車がかかった。
人返しの法
封建制に固執する忠邦は、年貢を増やすことをもくろみ、江戸に出てきている人々を村に返そうと試みた。
・出稼ぎの許可制
・人月改め
・単身者の強制返村
などの政策で、江戸の住民を村に帰そうとしたが、うまくいかなかった。
この政策は、もう一つねらいがあった。江戸の下層民人口を減らすことで、天保の大飢饉の影響を受けて大阪で起きた大塩平八郎の乱のようなものが、江戸で起こらないようにしようという意図である。
江戸では、「囲い米」を放出したことで、大きな騒動は起こらなかったが、「人返し法」が機能したとは言いがたい。
御料所改革
1843年に、全耕地の面世紀と収穫量を再調査し直し、年貢増税を図ろうとした。
だが、農民の激しい抵抗にあう。また、幕府側の一部の代官も時代の流れを把握していないこの政策に、非協力的であった。
結果、天保の改革の中止とともに取りやめとなった。
印旛沼堀割工事
よく、印旛沼干拓工事と言われるが、実態は干拓ではない。
「もし、江戸湾を外国艦船に封鎖されたらどうなるか」当時このような問題が浮上した。
予想できる結果は、「江戸湾に物資を運ぶ廻船が入港できなくなり、一週間で物資不足になる。」
ということだった。
この課題に対する幕府の方策が「印旛沼堀割設置」だ。
『浦賀水道から、江戸に物資を運び込む水上ルートをつくる』。そのために、印旛沼に堀割をつくり、そこから廻船の荷を江戸に運び込む計画だった。
この計画も、水野忠邦の失脚とともに中止となった。
その他の政策
○上知令(上地令)
・江戸・大坂の大名などの領地を幕府の直轄地とする。
・反対が多く、実施されず。
【金利政策】
○相対済令
・一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げる。
・札差に対して、旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とする。
○無利子年賦返済令
・元金の返済を20年賦とする。
・武士、民衆の救済
※貸し渋りが発生、逆に借り手を苦しめた。
○貨幣の改鋳
・貨幣発行益
・猛烈な勢いで改鋳
※高インフレを招いてしまう。
対外政策
○外国船打払令の撤回・天保の薪水供与令
・1842年(天保13年)には異国船打払令を廃止
・遭難した船に限り補給を認めるという「薪水給与令」を出す
軍事力が脆弱であることは認識していた。しかし、手も足も出なかった。
天保の改革の評価
社会がどういう状況にあるのか、という根本的な問題分析がなされておらず、回帰できない幕藩体制維持を目的とした改革政策を断行したため、当然ながら失敗した。
天保の改革の失敗は、幕府の権威を著しく落とした。
天保の改革下で、長州藩や薩摩藩など、雄藩の自立化が進んだ。それらの藩は殖産興業などの施策により、年貢米のみに依らない社会の在り方に道を開いた。その意味では、「天保の改革」は時代を先に進めたといえる。
社会構造の変化に対応出来ない幕府の露呈と、雄藩の「商品経済」を取り入れた藩財政の改善、各藩の「自立化」は、天保の改革の時代的な意義として無視できない。
江戸期の三代改革が取り組んだ社会情勢の変化、「封建(年貢米)経済社会から商品経済社会」への対応の成功と失敗は、後の明治維新を生み出すエネルギーとなっていった。
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