『東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春な忘れそ』飛梅伝説で有名な天神様は祟り神だった。しかし、いつの間にか「学問の神」で、「習字の神」で「人を助ける神」で、「農業の神」となる。天神はなぜ「祟り神」となり、いつから「善神」となったのか。
天神信仰の神社は 日本で三番目に多い
日本でダントツに多い神社系統は、「八幡信仰にかかわる神社」。2番目は、「伊勢信仰系統の神社」。そして3番目が「天神信仰(天満宮・天神社・北野神社)系統の神社」だ。
(ちなみに4番目は、稲荷信仰系統の神社。)
ご祭神は 菅原道真。
菅原道真は、845年から903年に生きた人。当然、天神様も八幡様同様、「古事記や日本書紀に載っていない神」ということになる。
日本の神は、このように実在の人も神となる。よって神様はどんどん増えていく。
天神様の祭神は基本的に菅原道真だけ
日本の神は「習合」という形で、自分の中に複数の神のみならず人間の霊をも取り込む。例えば、八幡神は、元々は「辛國の神」の神だったが、日本の応神天皇の霊を取り込むことで、伊勢信仰に匹敵する皇室ゆかりの神となった。この習合も大きく影響し、八幡信仰系統の神社は日本で一番多い。
これに対し、天神は基本的に菅原道真公のみだ。(雷神と習合しているという見方も出来るが、この場合の雷神は古事記に登場する雷神ではなく、菅原道真そのものが別の雷神になったと考えるのが妥当だと私は思う。)
菅原道真とはどのような人物だったのか
道真は、承和12年(845)に生まれ、延喜3年(903)に亡くなっている。生まれた日は『丑の日』で、亡くなった日も『丑の日』だった。天神様と言えば『牛』。道真の生まれにも「牛」との関わりがうかがえる。
代々、学問で出世した菅原家
菅原氏は、もともとは古代豪族の土師氏出身だった。菅原氏が土師氏と別れるのは、8世紀の終わりごろのことだった。開祖は、菅原古人(ふるひと:道真の曾祖父)。官位は従五位の下なので余り高くない。遣唐使に従って当にわたったことで出世の糸口をつかみ、帰国後桓武天皇に儒教の経典を講義する役職に就いた。これにより「文章博士」、「大学頭(長官)」となった。
古人の四男が菅原清公(きよきみ:道真の祖父)。父親の古人と同じく「文章博士」から「大学頭」となっている。ただし官位は古人より上の従三位。清公も、古人と同じく唐にわたって学問を高めた。
お父さんを越えて、親孝行だ。清公も唐にわたっている。政治家としても現在の大臣に当たる公卿に列し、菅原氏の家勢を高めた。
清公には4人の男子があり、その四男が菅原是善(これよし:道真の父)。兄弟の中でも特に学問に優れていたという。彼も政治の面でも活躍し、大学の仕事の他、勘解由長官(地方行政を監査する官庁の長官)を兼務した。
そして、道真。道真は、是善の三男だった。
道真の大出世と 突然の左遷の悲劇
道真は、子供のころから優秀で、詩歌も10歳のころには一流の域に達していた。
15歳で元服し、すぐに仏教の法会で使う文章や、朝廷に奉る文章の代作をする仕事をしている。第3代天台座主円仁(えんにん)が書いた「顕揚大戒論(けんようだいかいろん)」の序文は、実は道真が書いた。仏教界トップの代筆を中学生程度の子が、堂々と行っていたのだから、超大天才だったと言える。
彼も程なく文章博士となっている。菅原家は、4代続けて文章博士(今の大学教授)を出す学者家系だった。
宇多天皇に認められる
仁和3年(887年:40歳を越えた壮年のころ)道真は、宇多天皇の信任が篤く天皇の近くに侍ることになった。道真の進言は重視され、政治に大きな影響を与えるまでになっていた。
そのような時期の寛平6年(894)、道真は遣唐大使に任ぜられる。曾祖父や祖父も唐にわたっているのだから、道真も喜んで唐にわたるのかと思いきや、
「既に唐の国力衰え、往復の危険を考えれば、遣唐使は中止すべき」
と進言する。
この道真の進言により、結果的に遣唐使は廃止された。
この結果、宇多天皇の近くに残った道真はその後も順調に出世街道を突き進む。
寛平7年(895)年には、従三位となり権中納言に昇任。さらに権大納言、右大将(武官の最高位)を兼任する。
さらに正三位、右大臣。従二位にまで進み、いわば頂点を極める。
突然の左遷
ところが、昌泰4年(しょうたい:901年)道真は、突然太宰府の長官の代理である太宰府権帥(ごんのそち)に左遷されてしまう。
ここまで高いところまで上り詰め、急にはしごを外されたら真っ逆さまだ。道真の精神はズタズタに破壊されたことだろう。
だが、なぜこのような左遷劇が起こったのだろうか。
道長はなぜ左遷されたのか
道長の左遷については、その理由が実ははっきりとしていない。
そこで、権威者たちが「道長左遷の原因をどのように予想しているか」を見てみる。
その中の一つ、道長左遷事件の約100年後の長保4年(1002年)に書かれた『政治要略』に、
醍醐天皇を廃して、娘婿である斉世親王(ときよ)を立てようとする陰謀に加担したから
という記事が載っている。
どうやら、醍醐天皇と宇多上皇の対立に巻き込まれた。
この説が現時点では有力説である。これは、藤原氏の力を牽制したい宇多天皇と道真 対 力を維持したい藤原時平ら藤原一族と、それにのる醍醐天皇という構図だ。
道長を左遷に追い込んだ 藤原時平とは
藤原時平は、摂政関白をつとめた藤原基経の子。時平は、藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする藤原北家出身。歌舞伎の演目『菅原伝授手習鑑』や歴史書『大鏡』には、極悪人として描かれている人物だ。
だが、実際の時平は、自らが権門勢家の一員であったにもかかわらず、「最初の荘園整理令」を出すなど、自らの損得勘定を抜きにして、当時の社会情勢分析能力し、適切な施策を打ち出すことができる政治能力に優れた人物という一面もあった。
一般的には大悪人とされる時平の一族からすると、菅原道真伝説によって、「時平流藤原氏の家勢が衰えた」という見方も当然出来る。
「時平悪人説」の成立は、道真が亡くなったわずか6年後の延喜9年(909年)に、39歳の若さで時平自身が亡くなってしまったことに原因がある。
「時平の死は、道真の祟り」という見方を人々に植え付けた。
文献上 初めて「道真怨霊逸話」が出てくるのは いつか
現在なら、おそらく人々の記憶が薄れてしまっているだろう「時平の死から14年後」の、延喜23年(923年)のことである。
『日本略記』中の延喜23年3月21日の条の中に、
皇太子の保明親王が21歳の若さで亡くなったのは、『菅帥霊魂宿忿』つまり、『道真の怨霊の恨みによる』
という記述が見られる。
「保明親王(やすあきら)」とは、時平の妹の穏子(おんし・やすこ)と醍醐天皇の間に生まれた子だった。
保明親王の死を受け、その年の4月1日に醍醐天皇は元号を延喜から延長へ改元している。
さらに昌泰4年(902年)に出した「道真左遷の詔」を破棄し、「もとの右大臣の地位に戻し、正二位を追贈」した。
醍醐天皇をはじめ朝廷内の人々は、道真の怨霊を相当に畏れた。
醍醐天皇の「道真左遷の詔 破棄」以後も続く 道真の怨霊伝説
「左遷は無かったことにする」
「ポストも右大臣に復帰させる」
「位も正二位にするから勘弁してくれ」
と、道真の祟りに震え上がった醍醐天皇はじめ、藤原時平にかかわる人々に、さらに祟りが降りかかる。
○延長3年(925年)天然痘の流行
天然痘の大流行により、人々がたくさん死んだ。
保明親王の第一子で、保明親王死後、醍醐天皇の皇太子となっていた慶頼王が亡くなる。死因は下痢とされる。わずか5歳だった。
○延長8年(930年)清涼殿への落雷
6月26日に、政務を行っていた宮中の清涼殿に落雷があった。
この落雷により大納言の藤原清貫(きよつら)、右中弁兼内蔵頭の平希世(まれよ)が亡くなった。また隣の紫宸殿でも3人が死亡している。
この事件により、道真と雷神が習合したとされる。
道真=雷神様
藤原清貫は、道真が太宰府に左遷されたときに、時平から「道真を監視』するよう命じられていた人物だった。
(平希世に関しては、道真との関係は不明。)
○醍醐天皇の死
清涼殿落雷事件の3か月後、醍醐天皇が死んでいる。
落雷事件で道真の怨霊妄想におびえきる醍醐天皇は、自らの命を自ら縮めた。「道真への後ろめたさ」も自らの死の一因となっただろう。
○承平・天慶の乱
藤原住友や平将門が起こした反乱(938年~941年)
これらの乱も道真の怨霊によると、道真の怨霊伝説と結び付けられたとされる説もある。(資料的なはっきりとした裏付けはない。)
道真に並ぶ祟り神、平将門の乱が道真の怨霊によって起こったとする見方は、ちょっと面白いと思う。不敬だろうか。
道真はなぜ、天神として祀られることになったのか
次々と現れる、道真の荒ぶる魂をしずめるために神として祀ることになるのは必然だろう。
では、道真の御霊を祀ることになったきっかけについて、どのような史料が残っているだろうか。
🔶道賢上人冥途記
北野に天神様を祀るようになったきっかけとして、道賢上人冥途記(どうせんしょうにんめいどき)という史料がある。
道賢は日蔵ともいう。道賢は山岳修験者で、霊的な逸話の多い人物。生きていた期間は、905年から985年。つまり、道真の死後に生きた人物である。この道賢が、天慶4年(941)に金峯山(きんぷせん)で修行を行っている最中に倒れてしまう。そのとき蔵王権現が現れ、その導きで太政威徳天(天満大自在天)と呼ばれる魔王のところに連れて行かれる。
威徳天は、「自分は道長の霊である」と言う。
そして,「今世の中で起こっている疫病や災厄は、すべて自分が引き起こしているのだ」
と語る。
道賢は、その後地獄にも案内される。
そこで道賢は、道真を死に追いやった醍醐天皇や、藤原時平ら廷臣たちが地獄の業火に焼かれ、苦しんでいる姿を見る。
🔶日蔵夢記
また道賢(日蔵)の体験を記した別史料として「日蔵夢記」というものもある。これは、時代はずっと下り室町時代の天台宗の僧、宗淵が編纂した「北野文叢(きたのぶんそう)」の中に納められている。さらに、現在は江戸時代に書かれた写本しか残っていない。(嘉永4年:1851年版)
ただし、「日蔵夢記」部分の原文は、平安後期に完成したとみられている。内容については道賢上人冥途記の内容をなぞり、さらに字数が多く、詳しく書かれている。
🔶菅家御伝記
菅家御伝記は、奥書には嘉承元年(1106)12月18日の日付があることから、平安時代末に編纂された菅原道真の伝記である。作者は菅原陳経(道真の五世の孫だが、賀茂家からの養子)。
これには、次のような話が載っている。
道賢が魔王となった道真に会った翌年の天慶5年(942年)の7月のこと、京都右京七条二坊に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ:別記奇子)に、道真の霊(つまり天神)から託宣(神のお告げ)があった。
私が生きているときに、しばしば遊んだ北野の右近の馬場に自分を祀れ
と、いう託宣だった。
だが、文子は貧しく道真を北野に祀ることが出来なかった。仕方なく、自分の家に祠を建てて祀った。
多治比文子に託宣があってから5年後の天暦元年(947年)、今度は近江国比良宮の禰宜神良種(みわのよしたね)の子の7歳の息子、太郎丸に託宣が下る。
私は菅原道真という。私が祀られたいと思う場所に松を生じさせる。
と告げた。すると、一夜のうちに千本の松林が右近の馬場に出現した。
そこで、多治比文子と良種は、北野の朝日寺の僧、最珍を仲間に引き入れ、その年の6月に北野に神殿を造立して、道真(天神)を祀った。
この本では、これが北野天満宮の始まりとされる。
🔶実際は 道真が生まれる前から存在した天神社
劇的な北野天満宮の縁起だが、実際は、道真が生まれる前から北野の地には天神社が祀られていた。
続日本紀に、承和3年(836年)2月の遣唐使派遣に当たり、北野に天神地祇(てんじんちぎ:天つ神と国つ神の両方)を祀ったと記されている。
さらに、元慶年間(877年~885年)には、藤原時平の父の藤原基経が、五穀豊穣を願って『雷公』に祈願したと伝えられている。
さらに、醍醐天皇の子源高明が、書いた書の中にも、延喜4年(904年)に豊作を祈願して『雷公を北野に祀らせた』という記録がある。
延喜4年は、道真没後1年だが、まだこの頃は『道真の祟り』は、人々に認識されていない。あくまで豊作祈願のために「雷公」を祀っているという記述だった。
ただし、ここで言う天神社とは、現在の北野天満宮の社殿の東北に位置する地主社を指すとされる。
この事実から、
北野天満宮は、道真の霊を祀るために創建されたのではなく、土地神を祀る社が既にあり、次にその社は、雷公を祀る社として強く意識されるようになっていた。
その後に、「道真が雷を操る祟り神」だという認識ができあがり、天神社が道真の霊を鎮めるための神社「北野天満宮」とし人々に定着した、とみることもできる。
祟り神 は どうやって 善神に変わったのか
北野天満宮の基礎が固まったのは、道真の死後から約50年後だった。
天徳3年(959年)に、時の右大臣藤原師輔(もろすけ)が、北野天満宮に社殿を作り増し、神宝を献上したことで北野天満宮の基礎が固まったといえる。
🔶藤原師輔の家系は、道真によって 繁栄がもたらされた
道真の政敵、藤原時平の家系は「道真の祟り」で途絶えてしまう。
時平の家系が滅んだことで、時平の兄弟である忠平が政界に躍り出た。
時平にとっての道真は「祟り神」だが、忠平にとっては「福の神」だ。
そして、師輔は忠平の子である。
このようにして、北野天満宮(道真)=善神信仰に結び付いていった。
◇永延元年(987年)、北野天満宮天神の称が贈られる。
◇正曆4年(993年)、道真に正一位左大臣の位が追贈される。
🔶道真の霊の誓い
また、比良宮の太郎丸少年に下った託宣で、道真の霊は、
もし、私をきちっと祀ってくれたら、人に祟るのを止める。さらに、人から思わぬ禍を被っている人間がいたら、その人を救う。
と約束したとされる。
北野天満宮に祀られることによって、「祟り神」だった道真の霊は、「善神」となった。
天神は、「天満大自在天神」として祀られる。「大自在天」というのは、元々はヒンドゥー教のシヴァ神のことだ。そして、自在天は三ツ目と八本の腕をもつ、三目八臂の白牛に乗っている。
丑の日に生まれ、丑の日に死んだ道真は、自在天という牛にまつわる神となった。
そして、中世世界では、天神は「至誠の神」「正義の神」、そして「国を守る神」、「学問の神」・「書道の神」・「寺子屋の神」、近年では「受験の神」、さらには「雷神」その関わりで「農業の神」という位置づけとなった。
北野天満宮に太宰府の道真の霊(天神)が勧請されたのか
京都の北野天満宮は、祟り神を鎮めるために祀られた。
では、九州の太宰府天満宮と北野天満宮の関係はどのようになっているのだろうか。
太宰府天満宮は、道真の墓がそのまま神社へと発展した。
道真の遺骸は、太宰府の安楽寺に葬られた。その安楽寺に、延喜5年(905年)に祀廟が創建され、その祀廟が太宰府天満宮の起源となった。
太宰府天満宮に祀られた道長の霊を分霊して、北野天満宮としたというわけではない。
太宰府天満宮と北野天満宮は、別々に起こり分霊も勧請もされていないが、祭神は道真の霊(天神)である。こうして、天神系の神社は全国に広がり、日本で第3の数を誇る神社系統となった。
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