勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし
人生に困難はつきもの。
受験、仕事、結婚、困難に直面したことのない人などいない。
しかし、どういう訳か「困難に打ち勝つ人」と「連敗する人」がいる。
負けたとき、どう思うか。2種類の人間がいる。
一方は、『負けの原因を自分以外に求める者。』
体調が悪かった。社会のせい。競争相手のせい。
物事を自分に都合のいいように正当化するタイプの人間だ。
もう一方の人間それは例えば戦国の雄、武田信玄のような人物。
武田信玄は、1521年から1573年に生きた人物。
信玄は、次のように言っている。
「負けるはずのない戦に負け、滅ぶはずのない家の滅ぶるを、人は皆天命なりと言う。それがしにおいては天命とは思わず。皆、自らの仕様の悪しきが故と思うなり。」
戦に負け家が滅亡するのを、人はよく運命のせいにする。だが信玄は頭から否定する。
決して運の良し悪しではなく自分の仕様、やり方が悪かったせいだと言うのだ。失敗には必ず原因がある。その原因に気付かず放置しておいた自分に責任があると信玄は指摘する。
信玄はこうも言う。
「戦い勝つこと、これ誉なりと雖も、国の仕置きこれ悪しければ、国たちまち乱れる」
いくら戦に勝って新しい領地を得たといえども、人と人とのつながりや福祉経済政策などに目が行き届かなければ、国は安定しない。それは成り行きではなく、上に立つ者の努力が足りないせいだ。
孫子の兵法
孫子の言葉に
まず敵に負けない体制を作れ。次に敵に勝てるチャンスを待て。
負けない態勢を作るのは自分の問題。こちらが勝てる隙を作るのは敵の問題。
と述べ、負ける原因は常に自分の中にあることを説いている。
かつて野球の野村監督は、江戸時代の大名そして文人でもあった松浦静山の言葉を愛し、座右の銘としていた。
『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』
『負けたときこそ、負けの原因が自分の中にあったことを悟ることができる人間。』
このような人間が、もう一方の人間だ。
人は少し鈍なる者がよい
武田信玄は人使いの名手としても知られている。
戦国の世で、武田家に仕えたいという浪人が毎日のように信玄のもとにやって来た。信玄は人物を採用する時に、どのような観点で人物を見ていたのだろうか。
一般的に言えば、体格がいいとか、力が強いとか、教養があるとか、先を見通す眼先の鋭さがあるとか、武士・武将として即戦力となる優れた人物を採用しようとするだろう。
しかし信玄は違っていた。
人は、少し鈍なる者を仕入れるを良しとせよ。
そう言っている。 100%完璧な人間を避け、少し抜けてはいても好人物であるとか、努力家である、という者を採用すべきだと常々口にしていた。
一見して利口そうに見えるとか、誰からでも褒められるような人間は、絶えず人の顔色をうかがうお調子者や、小才の効く者ではあっても、心のねじ曲がった者が多いと言うのだ。
あるとき一人の浪人が武田家に仕官をしたいと願い出てきた。重臣たちが会ってみると、武芸に優れているだけでなく、どんな質問にもよどみなく答え、見識あるひとかどの人物であることが一目瞭然であった。
重臣たちはその者にすっかり気を奪われ採用を内定し、信玄に本採用の許可を求めに行った。
信玄はその報告を聞きながら、しばしの間考えていた。
それでは、その男に飯を馳走してやれ。
と命じた。そして物陰から、その浪人が食事をする有様をじっと見つめていた。
惑わされるでない。あれは浪人の飯の食い方ではない。由緒ある大名の家来に違いない。
と言い、その浪人を詰問するよう命じた。
結果、その男は近在の大名が放った密偵だということがわかった。
100%完璧だと思う人間は自信過剰になりがち。さらに驕りも生じ破綻をきたしやすい。それに対して何かしら欠点のある人間の方が、自信もないだけに努力もするということである。
信玄は、人物評価の真っ先の観点として、
努力のできる人物
を挙げた。
完全勝利は良くない
武田信玄は、その傑出した戦闘力で信濃一円、中部地方一帯を領国とした。
全国制覇の野望に燃えた信玄は、元亀3年(1572年)大軍を率いて徳川家康の軍勢を攻め、これを撃破する。しかし戦い半ばで病魔に侵され、翌年の天正元年(1573年)、53歳でこの世を去る。
息子の勝頼はまだ若年だったので、他国からの侵略を防ぐために、 3年間は絶対に自分の死を口外してはならないと遺言した。
数々の合戦を体験し『甲斐の虎』と恐れられた信玄だったが、戦闘について次のような言葉を残している。
軍勝五分を以て上となし、七分を中とし、十分をもって下となす
つまり戦いは引き分けが最高であって七割の価値だと評価は中くらい、完全勝利はかえってよくないというのだ。
この信玄の言葉を聞いた家臣たちは、
殿もおかしなことをおっしゃるものだ。そもそも戦というものは相手に勝つことではないか。
と、不満げに首を傾げた。しかし信玄は、
五分を上、七分を中、十分を下と言うことは、もし互角に戦ったのなら、今度こそ勝ってやろうという励みの心が生じる。しかし、七分だと自分が優位に立ったという安心感が出てくる。十分の完全勝利だったら、自分は強いのだという慢心、おごりの心でいい気になり、緊張感を失ってしまう。儂は、これを畏れる。
と、諭した。常に覇気と緊張感を持ち続ける事を信玄は部下に求めた。
つまりは、五分五分には戦えるだけの備えを常にしておけ、ということだ。
信玄を目標とし、十割を目指してしまった子の勝頼は、結局武田家を滅ぼしてしまう。
五分五分は行き過ぎだとしても、
(次の戦いに備え)、勝ちすぎは、よくない。
これは、真理だ。
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