MENU

ブギウギ:笠置シズ子の出生の秘密と、後援会会長となった東大総長南原繁

笠置シズ子が、「自分はもらい子だ」と気付いたのは17歳のころだった。それまでは、養父母こそ実の父・母だと何の疑いもなく信じていた。実の母と再会したときシズ子はどんな様子だっただろうか。また当時著名な政治学者であり、戦後初の東大総長となった南原繁は、実父の友だった。シズ子はその南原から、自分の出生の秘密を聞く。

実家の苦労自慢をする同期三人組、でも一番苦労しているのは(NHK)
目次

笠置シズ子(亀井静子)の出生の秘密

笠置シズ子(亀井静子)は、1914年(大正3年)8月25日に生まれている。
国は、香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)

実父は、三谷陳平(1890~1915)。
郵便局に勤めていた。
静子が生まれた年の翌年、若干25歳の若さで病死している。

実母は、谷口鳴尾
父・陳平より5歳年下だった。

母の鳴尾は、三谷家で和裁を習いながら家事見習いとして三谷家に同居していた。
だが、二人の結婚に三谷家が反対したため、鳴尾は実家に戻されてしまった。

若き日の笠置シズ子(OSSK時代・22歳)『ブギの女王笠置シズ子』より

鳴尾は、乳飲み子の静子を一人で育てることになる。
だが、乳の出がわるかった。
赤ん坊に満足に乳を与えることが出来ない。
このとき助け船になったのが、鳴尾の実家の近くでメリヤスや手袋をつくる工場を経営していた中島家当主の妹だった。

大阪に嫁いでいたが、お産のために実家の香川に里帰りしていた亀井うめ、その人だった。(ブギウギの熱血お母ちゃん、水川あさみ演じる花田ツヤ

うめは、次男の正雄を生んだばかりで乳の出が良かった。静子は、うめから乳をもらうことになった。
鳴尾はこのとき、17、18歳。少女の域を出ない年頃で、途方に暮れていたことだろう。
うめは、子ども好きであり、良い意味で侠気(おとこぎ)をもつ女性。
困っている人を見過ごせない性格だった。

『あんじょう育てるさかい、あんたは心配せんとあんたの身を立てることに精出しなはれ』

と、鳴尾を励まし、うめは実の息子と静子を連れて大阪に戻ったのだろう。

後年、笠置シズ子は『うめが、なぜ自分を養女にしたのか本当のところは分からない。』と、語っているが、おそらく上記の様だったのだろう。

実の息子と静子をうめが大阪に連れ帰ると、出迎えた夫の音吉は、

「どないしてん、双子かいな。こらあ、えらいこっちゃ。」
と驚き、さらに鈴子を見ながら
「なんや、女のくせにどえらい口さらしてけつかる。」
と、言ったという。まことにおおらか。
ブギウギで、柳葉敏郎が演じる梅吉を彷彿とさせる。

静子は、こうして亀井梅吉とうめの養女となった。
ちょっと面白いのは、最初役所には、静子ではなく「ミツエ」として入籍されている。
さらに、小学校へ上がるときには、「志津子」、のちに「静子」と改名した。

当時は、役所に届ける名前もこのようにおおらかな扱いだったようだ。

「仲良しごっこをやっているわけではない」と、仲違いをする同期。同期の対立で悩む鈴子。NHKより

静子が、自らの出生の秘密を知ったのは17歳

笠置シヅ子の自伝によると、自らの出生の秘密を知ったのは、『18歳の秋だった』とある。
18歳というのは、数え年で、満でいうと17歳のことだった。

出生の秘密を知るきっかけは、実の父である三谷陳平の17回忌の時。
三谷陳平が亡くなったのは1915年。
17回忌は、1931年(昭和6年)に行われた。

静子は、親戚の法事に行くように言われ、大阪から香川の三谷家を訪れた。
17回忌の席で、静子は少女歌劇団で踊っている「春の踊り」や「醍醐の花見」の舞を披露している。静子は、自分が誰の17回忌で舞を披露しているのかを知らない。
だが舞終わった後、数人の親戚が小声で話しているのを、偶然に耳にして自分が誰のために舞を披露したのかを知った。

親戚たちの話の内容は、『仏は、三谷家の長男で跡取り息子の三谷陳平という人であること。』そして、この『陳平こそ、自分の実の父親であること。』だった。
17歳という、人生で最も多感な年齢だった静子は、大きな衝撃を受けたはずだ。

実母への思い

実父が、三谷家の陳平であることを知った静子は、当然のように『では、自分の実母は誰なのか。』『どうして自分を捨てたのか。』と、思った。
そして、この法事にも来ていた谷口鳴尾が自分の実の母であることを突き止める。

鈴子の実母・西野キヌ(モデル谷口鳴尾)NHK

亀井静子(笠置シズ子)、実母である谷口鳴尾と対面する

実父、三谷陳平の17回忌の翌日、静子は一人で谷口鳴尾に会いに行った。

実母の家には、母と6歳ぐらいの男の子がいた。
笠置シズ子の自伝には、

あの人は涙一つ見せず、私の前にきちんと座っていました。それが逆に私の心を切なくして~」

笠置シズ子自伝より

笠置は、実の母を「あの人」と呼んでいる。
この言葉には、どのような思いが込められているのだろうか。

このとき、二人は『親子の名乗り』をしなかった。
静子は、実の母に会ったことは養父母をはじめ、誰にも語っていない。自伝に記すまで自分の胸の中だけに留めたという。

父、陳平の親友・東大総長『南原繁』からの電話

東大総長・南原繁(ウィキペディア)

時は流れ、1950年(昭和25年)、笠置シズ子は思いがけない人物から電話をもらった。
電話の主は、実父である三谷陳平の友人だと名乗る。
そして、「静子の生い立ちのことで、直接会って話したい。」と言うのだった。

父の友人だと名乗ったこの男性は、南原繁(なんばらしげる)と言った。
戦後初の東大総長を務めた政治学者だった。

多忙を極める二人の面会が実現したのは、電話から1年後の1951年(昭和26年)のことだった。
後日、南原との面会について静子は、次のように語っている。

「周囲がうるさいので大学に来て欲しいと、差し向けてくださった車で東大へ行き、総長室でお目にかかった。先生は娘に語りかけるような優しいまなざしで話された。」

南原先生は、旧制大川中学校(現在の香川県立三本松高校)を卒業するまで郷里香川にいた。
戦後になって、ブギの女王としてスターになっていた笠置シズ子が、自分の亡き友の娘であることを知ったという。
だが、マスコミが伝える静子の生い立ちが間違っていることを知り、気がかりに思っていたのだった。

南原は、自分の知る静子の生い立ちについて語ってくれた。

・『静子の実父三谷陳平(南原の亡き友人)は、南原の家からさほど遠くない長屋門のある地主の一人息子であったこと。』
・『年は、南原の一つ下で小学校が同じだったこと。』
・『夏休みなどは、一緒に海水浴に行き遊んだこと。』
・『中学校も一緒だったこと。』
・『中学校を卒業後、陳平は電信学校に入ったこと。』
・『電信学校を卒業後は、地元(引田)の郵便局に勤めたこと。』
・『静子が生まれて間もない、24、25歳で死去したこと。』
・『三谷家は、近郷で良く知られた豪農で、代々砂糖業を営んでいること。』
・『陳平の父(静子の祖父)は、漢学者だったこと。』
・『南原は、陳平の父から漢学を習っていたこと。』
・『静子の生母の谷口鳴尾は、裁縫が上手で近所の娘たちに教えるほどだったこと。』
・『谷口鳴尾は、三谷家の女中ではなく、由緒ある家の出身だったこと。』
・『谷口鳴尾は、陳平の母(静子の祖母)から和裁を習う生徒だったこと。』

南原は、亡き友陳平も鳴尾も共に真面目な性格であり、いい加減な気持ちで静子を妊娠出産したのでは無いことを静子に伝えた。

歌人でもあった南原は、亡き友の子が芸能界で活躍していたことを知り、次のような歌を詠んでいる。

若くして 死にたる友の女郎花(おみなえし) かく世に出でて 大いに歌う

ブギの女王と、東大総長

二人の出会いをきっかけとして、南原はその年(1951年)から『笠置シズ子の後援会長』となった。

当時、最高学府東大の総長と芸能界のトップスター笠置シズ子が、「どういう関係にあるのか」と話題になり、いくつもの新聞や雑誌が、この話題を取り上げた。

東大総長・南原繁と、ブギの女王・笠置シズ子は、戦後の復興期に、政治・思想的な側面と、芸能界という社会風俗を担う側面という硬軟両側面から、共に時代をリードした。

一方は、戦後復興に心を砕く、政治哲学者のリーダー。
一方は、敗戦で傷ついた民衆の心を癒やす、国民的大スター。

二人の出会いは、まさに亡くなった亡父の強い思いに導かれたかのようだった。
これ以後、笠置は南原を慕い、
南原は長く笠置親子を、子や孫のごとくに見守った。

まとめ:亀井鈴子(笠置シズ子)の出生の秘密と、東大総長南原繁

笠置シズ子が自らの出生の秘密を知ったのは、実父の17回忌が香川で行われたときだった。
静子17歳。
実父は三谷陳平といい、名家として近郷に名を知られた家の跡取り息子。

母もまた由緒ある家の出身で、名を谷口鳴尾といった。
三谷家で裁縫を習っていて、陳平と知り合い静子を身ごもった。
だが、三谷家は陳平と鳴尾との結婚を認めず鳴尾は実家に戻されてしまった。

実家に戻った鳴尾は、一人静子を出産する。このとき鳴尾は17、18歳だった。
それから1年後、実父陳平は、若くしてこの世を去る。

乳飲み子を抱え、途方に暮れていた鳴尾に救いの手を差し伸べたのが、静子の養母亀井うめだった。
面倒見のいいうめは、静子をそのまま養子として夫の待つ大阪に連れ帰る。

養父となった音吉も、気のいい優しい人物で静子を養子として受け入れた。
これが、笠置シズ子の出生の秘密。

実父の17回忌の時、静子は実の母鳴尾と合っている。
だが、互いに親子であることを口にはしなかった。

それから20年ほど後の1950年、東大総長南原繁から、静子に突然電話がかかってきた。
南原は、静子の実父陳平と幼なじみの友で、静子がそれまで知らなかった出生の秘密を細かく教えてくれたのだった。
そして、それ以後二人の関係は続き、南原は静子の後援会会長となった。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次