桜田門外の変で、井伊直弼の首を挙げた有村次左衛門は、変後に自刃して果てた。数えで23歳の短い生涯だった。だがこの次左衛門には、変の前日に仮祝言をあげた妻がいた。桜田門外の裏話。
「桜田門外の変」の裏話【有村次左衛門哀話】
桜田門外の変とは
日本人なら、ほぼ誰でも一度は聞いたことがある「桜田門外の変」。
この変の概要は、
安政7年(万延元年)西暦では1860年の旧暦3月3日(現在の歴なら3月24日)、朝五つ半(午前9時過ぎ)に起こった。
この日は、江戸に大雪が降った。今の3月の24日にことだから、季節外れの大雪と言っていいのだろう。
このような天候の中、井伊直弼は、総勢約60名の伴を従えて登城中だった。
そこへ、水戸浪士17名と薩摩藩士1名の計18名からなる一団が襲いかかる。
水戸浪士の一人が、合図代わりに放った弾丸一発が、直弼の太ももから腰を貫通し、動くことを出来なくしていた。
直弼は、あっけなく薩摩藩士、有村次左衛門(じざえもん)に討ち取られる。
有村は、刀の切っ先に討ち取った直弼の首を貫き、何やら薩摩言葉を叫ぶ。
『しめたり!』
直弼の首を挙げた 有村次左衛門にまつわる 哀しい裏話
有村の雄叫びを聞いた浪士たちは、刀を納め、思い思いに引いていった。
有村自身は、その足で、幕府高官の館に直弼の首をもって自首するつもりだった。まずは東に向かって歩き出す。
後ろを向いた有村に対し倒れていた彦根藩士、小河原秀之丞が起き上がり有村を背後から切りつけた。
「しめたり!」
小河原の剣が、有村の背を切り裂く。
有村の背が朱に染まる。だが、彦根藩士の動きに気付いた水戸浪士が助太刀に入り、小河原を返り討ちにした。
重傷を負った有村は、それでもなお北へ向かって1キロほど進んだ。だがそこで力尽き、覚悟を決めて自刃して果てる。
有村は、数え年23歳の若者だった。
有村には、兄がいた。
雄助という。
有村雄助は、「桜田門外の変」の総帥格だった。
実行犯とは別に、総帥格の有村雄助と水戸の金子孫次郎が朝廷に働きかける計画になっていた。
朝廷の皇室復興と、
さらに、政治改革を図る勅命を下してもらい、京にいる薩摩藩兵3千が呼びかけに呼応する。
このような、壮大な計画だった。
島津藩主は動かない
だが、島津藩主島津茂久(後の忠義)並びに『国父』久光は動かなかった。
時期尚早である。
しかも、有村雄助並びに金子孫次郎は、今の三重県四日市市で薩摩藩士に捕縛されてしまう。
二人はそのまま、薩摩へ護送され、何と藩命により『自刃』に処せられてしまう。
弟の命を犠牲にして成し遂げた桜田門外の変だったが、徒労に終わるむなしさ…。
有村兄弟の同志だった大久保利通も、
『一同の愁傷憤激、言葉にできない。』
と述べている。
有村次左衛門には、襲撃前夜に仮祝言を挙げた 妻がいる(次左衛門哀話)
井伊直弼の首をとった有村次左衛門(ありむら じざえもん)には、決行の前日に仮祝言を挙げた妻がいた。
死ぬことを前提に祝言を挙げている。
有村の妻となったのは、井伊直弼が主導した政治弾圧『安政の大獄』で殺された日下部伊三次(くさかべいそうじ・『「次」は「治」とも』)の娘だった。
つまり、有村の娘にとって井伊直弼は父の敵にあたった。
有村次左衛門にとっては、「国にを思う大和魂」が桜田門外の変を実行した直接的な要因だったろうが、「妻の仇を討ってあげたい」という、私的感情も少なからずあっただろう。
数えで若干23歳の青年らしい思いは、あったはずだ。
共に殺された吉田松陰の 日下部伊三次評
安政の大獄で、共に殺された吉田松陰が、日下部伊三次について評した記録が残っている。
(日下部伊三次は)「幕府による取り調べの際、今の政治の過失を列挙して非難し、『こんな様では幕府は、今後3年~5年のうちに滅びる』と言った。これを聞いて激しく怒った奉行に対し、日下部は『このように言った以上、死罪となっても悔いはない』と言ったという。この決死の言行は、とても僕の及ぶところではない。」
吉田松陰も、日下部と同じように安政の大獄で命を落とす。もしかすると、日下部の行いを見ていて、自分の言動を決定したのかもしれない。
松陰は、処刑の前日に書き残した「留魂録」の中に、日下部について上記のように記述して彼をたたえた。
日下部伊三次の最後
日下部伊三次は、安政の大獄で謹慎・幽居となった水戸藩の前藩主、徳川斉昭や水戸藩の尊皇攘夷派とつながりが深かった。
彼は、安政5年に捕まり、獄中で拷問を受けている。
極寒の中で、むち打たれ、全身の皮が裂け、傷口が無残にただれたという。
だが、いくら拷問されても、志を屈することなく自らの論を曲げなかった。
やがて体力が衰え、病没したという。ただし一説には毒殺されたのだとする説もある。
「春風にさそはれてちるさくらばな」、「津日の雲の上まで匂ひゆくらん」
「安政の大獄」で日下部伊三次とともに、伊三次の長男、祐之進も獄死している。
伊三次の未亡人となった静は、人を介して有村次左衛門に娘との結婚を申し出た。
しかし、次左衛門は申し出を受けなかった。
当然だ。
「自分は既に死ぬことが決まっている。その自分が他家の婿に入ることは出来ない。」
そう言って、その縁談を断った。
しかし、娘の夢枕に伊三次が立ち、「次左衛門を養子とし、お前はその妻となれ」と告げる。静とその娘は、死んだ父の願いを無視できない。
静は、改めて別人を通して次左衛門に養子縁組を申し入れる。
だが、今回も次左衛門の意思は変わらない。今回も丁重に断りを入れてきた。
井伊大老襲撃計画は、静もその娘も知っていた。
母子は、次左衛門が本懐を遂げられるよう協力する。
そうするうちに、再び伊三次が娘の夢枕に立った。そして、「必ず次左衛門を、養子とし婚姻しなさい」と促した。
いよいよ、井伊大老襲撃決行の前日となる。
すると、次左衛門は静から涙ながらに懇願される。
「次左衛門様、どうか、どうか日下部の養子となり、娘を娶っていただけないでしょうか。」
次左衛門は、「そこまで思ってくださるのなら」と、結婚を承諾し、そのまま仮祝言の杯を交わした。
二人は、歌を交わし合う。
春風にさそはれてちるさくらばな とめてとまらぬわが思ひかな
君がためつくす真心 天津日の雲の上まで匂ひゆくらん
「門外」を歩く姿が 一人ある
桜田門外の変のあと、鮮血に染まる雪の中にまだ息のある者たちがうずくまる現場を、人目に付かないように人を探す女性の姿があった。
日下部家のその後
婿となった有村次左衛門が自刃したことにより、日下部家には跡取りが亡くなってしまった。
その日下部家を継いだのは、次左衛門と雄助の兄だった。
「弟の義理をはたすため」に日下部家に婿入りし日下部俊斎と名乗る。
後の海江田信義であった。
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