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水戸は、なぜ彦根の井伊直弼を討ったのか:建造時の姿を残す彦根城

彦根城

 私が長年勤務した水戸と関わりの深い、彦根を巡る旅をした。
 彦根城は、想像以上に堅固な城だとの印象をもった。難攻不落の城と言っていい。

 だが、実際にこの城で戦うことはなかった。
 そこで、城があらかた当時のまま残った。天守が当時のまま残る城は日本全国で12城。彦根は、そのうちの一つ。

 この旅を終え、

① 彦根城 並びに、天守が現存する城について
② 彦根と水戸の因縁について

 の2点について、まとめておくことにした。

目次

水戸は尊皇攘夷派、彦根は開国派 (概要)

・水戸藩は、斉昭を中心とした尊皇攘夷派。対して、彦根藩の井伊直弼は開国派。
・水戸藩は一橋慶喜を次期将軍に推す一橋派。彦根の井伊直弼は、紀州の慶福を推す紀州派。
・天皇より勅書をもらい幕政を正そうとする水戸藩。力で尊皇攘夷派・一橋派を押さえつけようとする井伊直弼の彦根藩。

万延元年の桜田門外ノ変はこのような状況下で起こる。

日本で一番古い天守閣を持つ城は、どの城か

 日本の城の天守閣は、ほとんどが明治時代以降に再建されたもの。建てられた当時のままの天守閣が現存する城は12基のみ。
 弘前城(青森県)、松本城(長野県)、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、姫路城(兵庫県)、備中松山城(岡山県)、松江城(島根県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)。

 では、この12基の城のうち、最古の天守をもつ城はどこか。通説では愛媛の犬山城とされる。犬山の城は、信長の叔父、小田信康が1537年(天文6年)に築いた。

犬山城の天守

 しかし,最近の研究により犬山城の天守は1601年(慶長6年)に築城されたという説も出てきた。
 もし、この説が正しいとなると、日本最古の天守を持つ城は1576年(天正4年)築城の丸岡城(福井県坂井市)ということになる。

 丸岡城は、当時の越前の領主、柴田勝家の甥、柴田勝豊(かつとよ)の築城と伝わる。
 関ヶ原合戦の後は、家康の次男の結城秀康の家老、今村盛次が城主となり、江戸時代には、本多家が引き継ぎ、以後城主がめまぐるしく変わる。

 丸岡の城は、1948年(昭和23年)福井地震で倒壊し、ほぼ元の材料を使い再建されているので、厳密に言うと「現存する天守」とは言えないかもしれない。

丸岡城の天守

 犬山城も、丸岡城も当てはまらないとすると、松本城ということになる。
 松本城は、家康の家臣、石川数正・康長親子によって1593年から1594年(文禄2~3年)に築かれた。

松本城の天守:日本の城より

彦根城の築城

 彦根城に天守が築かれたのは、1606年(慶長11年)と言われる。着手は1604年(慶長9年)ごろなので、2~3年で城の形ができあがった。

外堀
九十度に曲がる道 狭間から迎撃され攻めるのが難しい

石田三成の佐和山城

 彦根の地は、東山道、北国街道が交わる地にある。また琵琶湖の湖上交通の要衝でもある。

 織田信長は、近くの佐和山に城を築いた。さらに、豊臣秀吉のころ、佐和山に石田三成が入城する。家康が松本城を築いた1590年代のことだと言われる。

 ただし、築城のすべてが完了したのは、1642年(寛永19年)といわれる。

関ヶ原の合戦後の佐和山城と彦根城

彦根城の天守

 関ヶ原で家康が勝利したとはいえ、まだまだ天下が治まったとは言えない。西の抑えとして、急いで彦根の地に築城しなくてはならない状況だった。

 そのような状況下で、井伊直政が18万石で入封してきた。直政の死後、後を継いだのは直継。
 このとき直継13歳。そこで、家老たちが活躍する。家老の一人、木俣守勝が佐和山ではなく、現在の彦根城の地に築城を計画し家康から許しを得た。

 関ヶ原合戦の後、佐和山城は壊される。そして佐和山城の石材や用材は、彦根城築城に転用された。
 さらに、用材として大津城、長浜城、安土城の旧材を徹底的に利用した。

 三重三階の彦根城の天守は、大津城の五重四階の天守を改修して移築したものだった。

徳川家譜代最高の禄高 実質35万石の彦根藩にふさわしい城

 彦根城は、大坂夏の陣(1615年)が終わり天下が定まった後も、彦根藩単独で追加工事が行われた。それは彦根藩30万石(幕府からの預かり米5万石を加えると35万石)の格式にふさわしい城にするための追加工事だった。

幕末の彦根藩主、大老井伊直弼

 彦根は、私の勤め先であった水戸と、幕末期は対立関係にあった。
 井伊直弼は、彦根藩の第15代藩主であり、幕府の大老となった人物だった。

安政五年の出来事

 安政五年(1858年)、明治維新の10年前、幕府は権力を失墜させつつあった。そのような時、老中堀田正睦(まさよし)は、幕府が難局を乗り切りために、知恵袋である橋本左内を擁する越前の松平春嶽を大老に据えようと画策していた。

 松平春嶽は一橋派である。ところが、将軍家定は春嶽の大老就任を「良し」と言わなかった。誰かに、そのように言わされたのかもしれない。

 一転、大老は紀伊派の井伊直弼が就任することとなる。急展開の逆転劇であった。

大老とは、独裁できる立場

 大老とは、どのような立場かというと、幕府の政策を将軍に代わり独自に立案・決定することが出来る立場。
 つまり、独裁が可能な立場である。

 大老となった井伊直弼は、すぐさま将軍継嗣問題を進める。家定の後は、井伊直弼らの紀伊派と、堀田正睦や松平春嶽らが推す一橋派で争っていたが、井伊直弼が大老となったことで、大きく紀伊派が有利となる。

井伊大老の継嗣問題についての考え方

 井伊直弼は、次のように述べたと言われる。

 徳川家が二百数十年の長きにわたって存続できたのは 名君が常にあってのことでは無い。むしろ幕臣や諸侯が徳川家の治を尊崇していることによる。この尊崇をこそ重んずるべきであり、名君を選ぶ必要はもうとうござらん。
 英明を選ぶは外国の風習でござる。我が国には血脈の近いお方を迎える美風がある。

 このような考えの直弼は、一橋派の人々の大々的な左遷を始める。
 そして、将軍家定に単独で謁見し、家定から

紀州好き、一橋好かん

 という言葉を聞いたとされる。
 これにより直弼は、御三家などを招集し、家定の次の将軍は「紀伊慶福(よしとみ)」にすることを告げた。

井伊直弼に対する一橋派の対応

 井伊直弼が、将軍家定の意向だとして、次期将軍を紀州慶福と発表したことに対し、一橋派の重鎮たちは烈火の如く怒る。

 まずは、松平春嶽が呼ばれもしないのに勝手に登城する。そして、井伊直弼に面会し、井伊の独断的な行動をなじる。しかし、井伊は、

お説ごもっとも。

 と、のらりくらり聞き流し、

では、これにて。

 と席を立ち、退出しようとする。
 春嶽は、直弼の袴を引っ張り

待たれよ!

とさらに詰め寄る。そのとき袴の裾が破れたという。

 次に、水戸斉昭・義篤親子が同じように無断登城し。だが直弼に同じようにあしらわれた。
 このとき、直弼は破れた袴のままで斉昭父子と対面したという。

 さらに、一橋慶喜が同じように訪れ、同じようにあしらわれた。

井伊直弼による日米修好通商条約締結

 このような一橋派の怒り心頭の時期に、井伊直弼は、米国と日米修好通商条約ポーハタン号上で締結した。
 外国との条約締結という、重大事について直弼は、朝廷に何の相談もしなかった。

井伊直弼の言い分

 江戸幕府が立ち上がって間もない1615年(慶長20年・元和元年)、幕府は朝廷と公武法制応勅十八箇条の第2条で、「朝廷も幕府が支配し、政治のことを朝廷に諮る必要はない」と、取り決めてあると主張した。

 井伊直弼にすれば、一橋派などが言う『朝廷をないがしろにしている』という意見は、まったくナンセンスという感覚だったろう。
 しかし、直弼のやり方について諸侯の反発、とりわけ一橋派の反対は激しさをました。

尊王攘夷派の総決起

 日米修好通商条約の締結によって、反井伊直弼の機運が高まると、直弼はその動きを阻止しようと、幕府内の一橋派の左遷を始める。

 一橋派老中 堀田正睦や、松平忠固(まつだいら ただかた)を首にし、新たに紀伊派の老中を据える。

「井伊を切れ」との声の高まり

 このような中、安政5年7月6日(1858年8月14日)、第13代将軍 徳川家定死去。

 第14代将軍として、紀州慶福が第14代将軍家茂として就任する。このとき家茂は13歳。

 井伊直弼は、将軍家定の死を隠し、呼ばれもせずに登城してきた一橋派の、松平春嶽や水戸斉昭を隠居謹慎、慶喜らは登城禁止の上謹慎を命じた。

 このような井伊のやり方を見て、

「井伊を切れ」

 との声が高まる。

水戸藩への密勅

 朝廷に断り無く日米修好通商条約を結んだ後、孝明天皇が水戸藩に向け、「幕政を改革せよ」という内容の勅書が下された、とされる。
 戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と言われるものがそれだ。1858年(安政5年)8月8日(太陽暦9月14日)のことである。
 水戸藩は、この勅書の写しを諸藩に配り、幕政の誤りを正すことを説いた。

 ただし、水戸藩にある本物の勅書にも、孝明天皇の御璽が捺されていない。それを根拠に「勅書はニセモノである」とも言われる。

 直弼は、当然この勅書と言われるものを「差し出せ」と水戸藩に迫った。

井伊直弼による 安政の大獄

 直弼の勅書に対する対応を見て、薩摩の島津斉彬や越前の松平春嶽らが、「朝廷を守るため」という名目で派兵計画を立てていた。
 だがこの出兵は実現しない。派兵を目前とした1858年(安政5年)8月24日、島津斉彬が急死してしまったからだ。

 この諸藩の動きを察知した井伊直弼は、攘夷派の大弾圧を開始する。安政の大獄である。
 弾圧された尊王攘夷派や一橋派大名公卿志士(活動家)は、総勢で100人以上。 

 家定死去の直前である7月5日、尾張藩主・徳川慶勝福井藩主・松平慶永水戸藩徳川斉昭慶篤父子と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)については、家定が命じたのかもしれない。
 しかし、それ以後は井伊直弼が全ての命令を発した。

 水戸藩のみならず、尊皇攘夷派の人々の怒りは頂点に達し、井伊直弼に向けられた。

桜田門外の変

 万延元年( まんえんがんねん・1860年)3月3日(3月24日)『折しも江戸はひな祭り』、江戸に雪が降る。

 直弼を護衛する彦根藩の武士は26人。対して水戸の浪士たちは18名。蔓延元年、井伊は討たれた。
 享年46歳。

 ここから徳川の世は、さらに激動を深めていく。しかし、水戸もこの年の8月15日、後の時代の終戦記念の日に水戸斉昭が心臓破裂で死去する。
 一足先に、水戸と彦根の一つの時代が終わった。

余談 斉昭の攘夷論は方便

  開国派の井伊直弼に対し、水戸は攘夷派であると見られる。しかし、斉昭は、本来は「開国」のメリットをよく理解していた。
 ただし、『今は開国すべきではない。今開国したら列強の餌食だ。』という意見であり、「斉昭の攘夷は方便」、と表現することもできる。

 彦根にしても、水戸にしても「我が国の未来を見据えた意見」であり、対立であった。
 そして日本(ひのもと)は、この後、革命では無く、維新の道を進んでいく。

 

彦根城

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