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「らんまん」田邊彰久教授のモデル、矢田部良吉教授はどんな人

「らんまん」の要潤さん演じる田邊彰久は、近頃ダークサイドに落ちてしまったようです。救いは、教授の後妻となった幼妻の聡子さんに見せる姿。聡子さんの姿には、教授への純粋な尊敬の念、やさしさを感じることができます。では、田邊教授のモデルである矢田部良吉教授とは、実際にはどのような人物だったのでしょうか。

目次

「らんまん」田邊彰久教授のモデル、矢田部良吉教授はどんな人

矢田部良吉教授

「らんまん」で要潤さんが演じる田邊彰久教授のモデルは、矢田部良吉教授です。

矢田部教授は、明治時代の植物学者にして詩人でした。
「らんまん」で描かれる田邊彰久教授の経歴は、ほぼ史実に沿っています。

青年期にアメリカに留学し、帰国後は、東京帝国大学理学部の初代教授の一人に就任しました。

東京帝国大学の教授時代に、牧野万太郎博士の東京大学への出入りを許し、富太郎博士の「日本植物志図譜」などの発行を許しました。

しかし、明治24年(1891年)に、帝国大学を非職(停職)となり、やがて教授の地位を奪われ、免官となって東京大学を追い出されてしまいます。

その後、東京高等師範学校の英語の教授となり、やがてそこの校長となりましたが、鎌倉で遊泳中に溺れ死亡しています。
享年48歳でした。

矢田部良吉教授の生い立ち

「らんまん」田邊教授

矢田部良吉は、嘉永4年(1851年)、現在の静岡県に生まれました。
父は、郷雲。蘭学者でした。

良吉は、蘭学者の父の元で西洋の影響を受けながら育ちます。
明治2年(1869年)、東京大学の前身である開成学校の教授を務めることになりました。

その2年後、明治4年(1871年)、良吉はアメリカに渡り、明治5年(1872年)からは、コーネル大学で学ぶことになります。
大学では、植物学などを学びました。

良吉、東京帝国大学理学部教授となる

明治9年(1876年)に、良吉は帰国し開成学校の教授に復帰します。
そして、その翌年の明治10年(1877年)東京帝国大学が開設されます。

開成学校で教授を務めていた良吉は、そのまま東京帝国大学理学部の初代教授の一人に就任しました。
このときの理学部教授は、15名いましたが、そのうち日本人はたったの3名でした。

純正及応用数学菊池大麓氏、冶金学日耳曼語(ゲルマン語)今井巌氏、そして植物学の矢田部良吉氏です。

良吉が、東京帝国大学の教授に就任したのは、コーネル大学で植物学を修めて帰国していたからでした。

良吉は、大学で「植物学実験及び講義」という課目を解説しました。
しかし、教室開設当時は、ほとんど設備もなく、実験と言っても植物の構造を安物の顕微鏡で観察する程度でした。

観察する植物も、附属の小石川植物園から採取された身近な植物のみでした。

良吉の教室では、まず『植物の分類』について生徒たちに教えています。
良吉は英語が堪能だったので、「らんまん」にあるように英語で講義を行っていました。

良吉の、つまり日本で最初の植物学は、コーネル大学仕込みの『分類学』や『形態学』を重視する教育だったと言うことです。

良吉の研究の目的

良吉の研究の目的は、『日本の植物が、どのような種で構成されているかを分析・解析する』という点にありました。

彼は、多くの新種を発表します。
中でも特に有名なのは、新属キレンゲシュウマ属の発表です。

新種を発見した場合、多くは古ラテン語の単語をつかって命名します。
しかし、キゲンゲシュウマは、和名をそのままつかうという、希な命名の仕方でした。

良吉が、日本植物学に最も貢献した実績とは

矢田部良吉が、日本の植物学にとって最も貢献した実績とは何でしょうか。

何と言っても、良吉が『植物標本室を創設』したことでしょう。
さらに良吉は、標本室を充実させるために心血を注ぎました。

彼は、数十回二及ぶ長期の国内採集旅行を行っています。
ただし、明治初期の日本なので、良吉が訪れた県は16県でした。

東京大学植物標本室に現在でも残る矢田部良吉教授の最初の標本は、東京帝国大学開設年の明治10年(1877年)のものです。

ただし、現在は大学独自に採集した資料だけでなく、他機関との交流で大学に収蔵されることになった標本もあります。
よって、良吉の作成した標本が大学の最古の標本ということではありません。

良吉の採集旅行について行った人物たち

良吉の採集旅行には、後に良吉の後任となる松村任三、大久保三郎、三好學、内山富次郎らが同行者として名を連ねています。

松村任三は、「らんまん」の田中哲司さん演じる徳永助教授のモデル。
大久保三郎は、今野浩喜さん演じる大窪昭三郎のモデルです。

日本語表記を、ローマ字に使用とした良吉

良吉が、大学で植物学以外に意欲的に取り組んだことがありました。

それは、日本語の表記をローマ字に変更しようとする活動でした。
いわゆる『国語・国字改良運動』の一貫です。

良吉は羅馬字会(ローマ字会)の幹事を務め、『Roumaji zasshi』(羅馬字雑誌)の編集にも携わりました。

また、ハムレットの一説を日本語に訳すなど、『新しい文体で詩を書く』運動に尽力し、今までの漢詩や和歌とは異なる韻文の確立を目指しました。
この運動の一環としては、『新体詩抄』という雑誌を発刊しています。

「このローマ字を国字とする」という運動だけは、頓挫してくれて本当に良かったと思います。
日本人の心は、日本語、日本語の表記法があってこそですので。

植物学研究者としての良吉

良吉は、明治23年(1890年)に発行された「植物学雑誌」に「泰西植物家諸氏に告グ」という表題の文章を掲載しました。

この文章は、全文英語で書かれています。
良吉は、この論文で、「これまで東京大学に集めた標本と文献を元に、欧米の研究者に頼ることなく、植物の記載を始めること」、つまり日本植物学の事始めを宣言したのでした。

牧野富太郎先生の息のかかる「植物学雑誌」に対し、大学独自に「日本植物図解」や「日本植物編」といった書籍の出版をしています。

突然の大学からの非職【休職のこと】)命令、そして免官【クビのこと】

明治24年(1891年)、矢田部良吉は大学から突然非職命令を受けてしまいます。
なぜ、大学が良吉を非職にしたのか、確かな記録は残っていないのですが、「牧野富太郎の自伝」によると、「東京大学理科大学の学長の菊池大麓氏との権力闘争に敗れた結果」だったのかもしれません。

「らんまん」で描かれる田邊彰久教授のように、実際の矢田部良吉教授も他者への接し方が激しい人物だったようです。

彼の持つ「他者を所構わずに批判するなどの激烈な人間性」がわざわいして、大学から非職命令を受けたとか、「授業が生徒たちから受け入れられなかった」のも免官の一因である、とかいう話もありますが詳しいところはなぞです。

明治27年(1894年)、良吉は大学を免官になってしまいました。

東京帝国大学をクビになった良吉は、明治28年(1895年)に英語担当の教員として東京高等師範学校に迎えられました。

その3年後の明治31年(1898年)には、東京高等師範学校の校長に就任します。

良吉の研究者としての業績とほぼ同じ程度に、教育活動への貢献を見逃してはいけないと思います。
我が国の初期の学校運営設立、教育制度の整備改善は、良吉の業績として忘れてはならないでしょう。

良吉の著作に「教育と学問」があります。この中で『教員がよりよい教育を行うためには、その地位を保証し、専門分野を探究する時間を確保してやることが必要である』と述べられています。

現在の教員の「身分保障」も、矢田部良吉教授の貢献あってのことです。

こういう面から見ると、矢田部良吉教授は、「らんまん」の田邊彰久教授のような完全悪の存在ではなかったと思います。

女子教育への取り組み

良吉が若いときに留学をするきっかけをつくってくれた恩人に、初代文部大臣の森有礼(もりありのり)がいます。森が、文部大臣に就任すると、良吉はその右腕として活躍しました。

森有礼の下では、とりわけ女子の高等教育の推進に力を入れています。

良吉は、それまでの受講的な思想にとらわれた「女子は三歩下がって夫の影を踏まない」式の夫婦関係ではなく、夫婦対等の関係を説きました。

ただし、女性は「良妻賢母」である必要があるとも説いています。
良吉は、明治21年(1888年)より、東京帝国大学の教頭、東京盲唖学校の学校長に加え、森有礼の意向に沿って東京高等女学校の校長を兼任することになります。

良吉の西洋式の考え方は、この時代はまだ受け入れられがたく、東京高等女学校はやがて廃校となります。

矢田部良吉の転換点は、森有礼の暗殺

順調に躍進し続けてきた良吉の人生でしたが、転換点を迎えます。
それは、明治22年(1889年)2月11日の、良吉の支援者であった森有礼の暗殺でした。

欧化開明的」と評された森の文政改革でしたが、急進的であった改革にたいし、批判も相当にありました。

森の暗殺により、「欧化開明」とりわけ「女性教育推進」などで一挙に揺り戻しが起こります。

良吉は、東京高等女学校の校長だったので、まさに矢面に立たされることになりました。

そして、明治23年(1890年)3月25日、東京高等女学校は突然廃校が決定します。同年3月29日、東京高等女学校の最後の卒業式が行われました。

東京高等女学校の廃校により、良吉は植物学に集中しようと考えます。

ところが、明治24年(1891年)に東京帝国大学を非職、その3年後の明治27年(1894年)に免官となるのでした。
森有礼という後ろ盾を失った矢田部良吉教授は、こうして研究者としての道を閉ざされてしまいました。

矢田部良吉の死

東京帝国大学を免官となった良吉は、明治28年(1895年)に高等師範学校へ活動の場を移しました。
高等師範学校に移ると、今まで熱心に取り組んできた植物学の執筆をやめてしまいました。

大学に出入り出来なくなると言うことは、牧野富太郎の苦悩と同様、東大の収蔵する文献や標本が見られなくなると言うことです。

必然、執筆をあきらめざるを得なかったのです。

師範学校では、英語の教師として勤め始めたのですが、3年ほどで校長に就任しています。
師範学校での仕事は順調に見えました。

らんまん田邊教授の妻聡子役の中田青渚

また、明治32(1899年)、良吉48歳つまり、亡くなる年の2月11日に、六男の敏夫が生まれています。
良吉には、最初の妻「録」さんとの間に2男2女、後妻の「順(らんまんの聡子さんのモデル)」さんとの間には、4人の男子、合計6男2女の8人の子をもうけました。

このうち、4男の達郎は心理学者、5男の勁吉(けいきち)は声楽家として名を残しています。

そして、運命の明治32年(1899年)8月7日を迎えます。
この日は、夏期休暇中でした。良吉たちは、鎌倉の海岸に泳ぎに来ていました。
楽しい一時が、一変します。

良吉は溺れてしまいます。
享年48歳でした。

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