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知っておきたい!ラクチョウのオミネのモデルは『お米』か、『お時』か

ブギウギのスズ子の元に、ラクチョウのオミネがやって来た。オミネはパンパン、いわゆる娼婦を束ねるお姐さん。このオミネは、笠置のインタビューの載った雑誌をかざしながら偉い剣幕でスズ子にせまる。「あんたは、アタイらパンパンを馬鹿にしているのか!」

ラクチョウのオミネ田中麗奈)のモデル「ラクチョウのお時」または「ラクチョウのお米」とは、どのような人物だったのだろうか。また、史実でも「ラクチョウの姐さんの殴り込み」は、あったのだろうか。

目次

ラクチョウのオミネのモデルの一人『お時』とは

戦後日本の夜の町には、パンパンと呼ばれる街娼の女たちが多くいた。
「ラクチョウ」とは東京・有楽町のことなので、ブギウギに登場した「ラクチョウのオミネ」は、有楽町を縄張りとしていた街娼の「オミネ」さん、という意味。

「お時」さんは、有楽町駅付近のガード下を縄張りとするパンパンだったという。
だが一説には、自らは街娼ではなく「姐さん」として街娼の世話を焼く立場だった、という話もある。

「ラクチョウのオミネ」のモデル「お時」の、生まれについて

本名は西田 時子と言われている。
ただし、自称であって本名ではないという話もある。
彼女には謎が多いのだ。

生まれは1928年頃。
昭和3年生まれ。
令和6年の現在、もし存命なら今年96歳になるはずだが、生死不明である。

東京市本郷区(のちの東京都文京区本郷)で生まれ、そこで育ったという。
父・母・妹の4人家族。

だが、幼少期(7歳ごろ)の1935年(昭和10年)に母親を病気で亡くしている。
さらに、母を亡くした3年後の1938年(昭和13年)に、父の会社が倒産し、一家は貧乏に苦しむことになる。

10歳になったか、ならないかの幼い「お時」は、豆腐売りをして家計を助けたという。
貧しい暮らしだったが、「お時」は、「飯田橋にあったある女子商業」に進学している。
だが戦時下の学生なので、勉強はそっちのけで女子挺身隊員として工場に勤務することになった。

そして、1945年の東京大空襲
「お時」の暮らす本郷一帯も空襲を受けた。
生家は全焼。
親も、妹も、この戦禍の犠牲になったという。

「ラクチョウのオミネ」のモデル「お時」の戦後の生活

戦後、何も無くなってしまった「お時」に、ミカンを暮れた少年がいた。
「お時」は、そのミカンを売っていくらかの小銭を得た。

これをきっかけとして、ミカンやたばこなどのヤミ屋をやってみた。
この当時、「お時」と同じようにすべてのモノを無くしてしまった女性や子どもが町の至る所で見られた。

売るモノがあればよいが、売るモノが何も無い女性は、娼婦になるしかない。
そうやって街娼となった女性があふれった。

行く当ての無い女や子どもたちが寝ぐらとしたのは、ほぼ廃墟となっていた上野駅の地下道や、有楽町の日劇の地下だった。
「お時」も、有楽町の日劇あたりを寝泊まりの拠点としている。

「夜嵐あけみ(夜桜あけみ)」との出会い

お時ではないかと言われる写真

1946年頃に、有楽町界隈のパンパンたちを仕切っていた女親分がいた。
通称「夜嵐あけみ」または「夜桜のあけみ」とも言われる女性だった。

「お時」は、この「夜嵐あけみ」に見込まれ、妹分となった。

そして、警察に勾留された仲間へ差し入れを行ったり、体調を崩した仲間の入院を世話したりするうちに「姉さん」と慕われるようになる。

「夜嵐あけみ」の下でラクチョウの集団を率いる管理者は、「お時」の他にも2~3人ほどいたようだ。(①夜嵐のあけみ②お時③まゆみ④松代など)

それぞれが、100人から200人の街娼を束ねていた。ちなみに「お時」は、約150人ほどの街娼を束ねていたと言われている。
このとき「お時」は、20歳ぐらい。
若干20歳で、150人という街娼を率いる「姐御」だった。

ラクチョウの「お米」について

もう一人、「オミネ」のモデルとされているのは、「ラクチョウの『お米』」だ。

「お米」については、笠置シズ子自身が、自分と親交があったのは、「ラクチョウのお米」さんだと言っている。

ノンフィクションライター砂古口 早苗(さこぐち さなえ)が書いた『ブギの女王・笠置シヅ子』に、

“フクチョウのお米“姐さんをリーダーとする”夜の女,たちが笠置の熱狂的なファンになり~

『ブギの女王・笠置シヅ子』より

とある。
砂古口さんの勘違いでないのなら、ラクチョウの姐御の名前は「お米」と言うことになる。

だが、「お米」に関する信頼できる情報は、ネット上に無い。

「ラクチョウのオミネ」のもう一人のモデル「お米」の、生まれについて

お米さんの生まれは、1914年以前だったと思われる。
そうなると、ラクチョウの姐御と呼ばれた頃の年齢は、32歳ぐらい。

「お時」さんが、20歳前後なので、「姐御」とか「姐さん」と呼ばれるなら、このくらいの年齢の方がふさわしい。

出身は、不確実だが大阪とわれる。

結核を患い、お米さんは令和6年現在、確実に亡くなっている。

ラクチョウの姐御は、笠置の楽屋に殴り込みをかけたのか

お時さんが

ブギウギでは、ラクチョウのオミネが、スズ子のインタビューがのる雑誌をかざして殴り込みをかけている。

では、実際にこのようなことがあったのだろうか。
結論として、このようなことは無かった。

笠置のファンになったラクチョウのお米は、笠置に会いたがった

真相は、こうだ。

「私が未亡人で子どもを抱えながら歌っていることに共感するものがあるのでしょう。それに自分のように声を出し切って歌うことに、あの人たちは自分に代わって叫んでくれているのだと思うのではないでしょうか」(『婦人公論j 1966年8月号「ブギウギから20年」)

「東京ブギウギ」が大ヒットした直後、”ラクチョウのお米“姐さんをリーダーとする”夜の女,たちが笠置の熱狂的なファンになり、やがて笠置に会いたがっていると知った笠置は多忙な中から時間を作って彼女たちに会った

『ブギの女王・笠置シヅ子』より

つまり、「お米」たち、街娼の女たちがまず笠置のファンになった。
街娼立ちが、笠置に会いたがった。

そこで、笠置が、時間をつくってお米たち街娼に会った、という流れが史実。
「お米」の殴り込みなど無かった。

さらに、「お米」さんは、このときのリーダーではあったが、ラクチョウの街娼を取り仕切る「姐さん」とは、書かれていない。

ブギウギは、このときの史実の「お米」さんと有楽町の街娼の姐御の「お時」さんの二人を混ぜ合わせて「ラクチョウのオヨネ」のモデルにしている。

笠置は、ラクチョウのお米さんたち街娼の面倒を見た

笠置は、多忙な中、ラクチョウのお米さんたち街娼が自立できるように、その後も相談に乗り続けている。
やがて、白鳥会館という更生施設を彼女たちのためにつくっている。
この施設では、タイプライターの技術や、洋裁などを習うことができた。

笠置シヅ子のすごいところは、大スターであるにもかかわらず自分の体を動かして外相たちの自立支援を行ったことだ。

笠置シヅ子は、自身が大きな不幸を経験しているので、人の痛みが分かる本当に人情深い人だった。

まとめ:ラクチョウのオミネのモデルは『お米』か、『お時』か

ラクチョウのオミネのモデルは、二人だと考えられる。

ラクチョウの姐御の「お時」と笠置シヅ子の大ファンで仲間の街娼のリーダーだった「お米」。
この二人が、「ラクチョウのオミネ」のモデルだと思われる。

ただし、ラクチョウのお時の身の上は、すべて未確定。
お時の語る身の上から、姐御と呼ばれた頃、若干20歳前後だとされたが、実際にあった人は、20代後半に見えたと言っている。
このことから考えると、「お時」と「お米」は同一人物で、「お時」が語った身の上は、すべて創作だった、ということがあるかも知れない。

姐御の笠置の楽屋への殴り込み?

ブギウギ、では「オミネ」がスズ子の楽屋に殴り込みをかけていたが、史実ではそのようなことは無かった。

逆に、笠置シヅ子のファンだった街娼の女性たちの「笠置シヅ子に会いたい」という願いを、笠置が聞き入れて面会している。

そして、この笠置と街娼たちとのつながりはその後も続き、笠置はお米とも友達になっている。

笠置がアメリカ公演のため渡米するときに日劇で開かれた歓送特別公演には、夜の女たちの姐御、ラクチョウのお米は、仲間たちに大号令をかけている。

それによって、日劇の1階席の半分に当たる800席をラクチョウの女性たちが買い占めた。
そして、「ラクチョウ夜咲く花一同より」という、高価な花束をステージの笠置に贈った。

笠置は「おおきに、おおきに」と答え、ステージを降りて女性たちと握手を交わしている。

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