- 常陸佐竹氏
失地回復を成し遂げた10代貞義の後継、11代佐竹義篤は 鎌倉府重鎮の道を歩む
14世紀中盤の大者の死 大物たちの死亡年 いつの時代でもそうですが、14世紀の中盤の大物たちの死も、時代に変化をもたらしました。 佐竹の暗黒時代である鎌倉時代を乗り切り、失った領地回復を進めた佐竹10代貞義が1352年に亡くなります。 その2年後の135... - 常陸佐竹氏
観応の擾乱と常陸守護としての佐竹氏
佐竹貞義に続き、足利尊氏の下、常陸守護大名の足場を築いた佐竹11代義篤と、観応の擾乱の関係 - 常陸佐竹氏
常陸の 武家方佐竹と公家方小田と、南北朝の動乱
常陸に遠流になった後醍醐の臣、万里小路藤房を預かった小田治久、対して佐竹の庶子月山周枢と尊氏の師夢窓疎石の人間関係を頼って武家方となった佐竹。どちらに日が当たるか。 - 常陸佐竹氏
佐竹一族が息を潜めて生きた、鎌倉時代140年の不遇
鎌倉時代の140年間、佐竹一族はひたすら息を潜めてこの不遇の時代を生き抜きます。それにしても140年は長い。 - 常陸佐竹氏
第5代佐竹秀義、西金砂山城の戦いで頼朝に敗れる
途中本当に岩が落ちてくるのではとハラハラしながら西金砂山を登ってみました。これを攻めるのは難しい。その西金砂山城の佐竹vs頼朝軍の攻防について - 常陸佐竹氏
平家と結び付いた佐竹昌義、皇嘉門院と結び付きさらに家勢を高める
昌義は常陸大掾と血縁。勢いに乗る昌義は、下総の有力者に自分の娘を嫁がせ下総国にも進出。さらに次男義宗を上洛させ、皇嘉門院に仕えさせた。 - 常陸佐竹氏
佐竹昌義は、何のために常陸佐竹に入部したのか
佐竹家譜によると、「勅詔(ちょくしょう)に因って常州に下向した」とあります。つまり昌義は、天皇の命令で常陸入りしました。 - 常陸佐竹氏
900年間生き残った佐竹家、義光と昌義の根本思想
源義光の墓はどこにあるのか 義光は、京都の武士を目指した義家とは違い、地方での勢力拡大を目指します。基盤の地域は、陸奥の南から常陸の北部でした。 そんな義光に訪れた試練に、源義国との戦いがあります。 義国は、兄義家と足利基綱の娘の間に生... - 常陸佐竹氏
「後三年の役」への参戦で、陸奥・常陸に足場を築いた佐竹家祖の新羅三郎義光
本日のポイント:源義光が佐竹家祖となれたのは、義光の生き残るプラン選択 ○義家は、都の武士に戻ることを選択し、義光は地方武士として生き残ることを選択した。 前九年の役で頼義を勝利に導いた清原氏 頼義の鎮守府将軍としての任期が切れる少し前ま... - 常陸佐竹氏
「前九年の役」で陸奥進出をねらう源頼義に対し、安倍軍の中心人物として立ちはだかる奥州藤原氏の祖 藤原経清
奥六郡は、元々は蝦夷(えみし)の居住地と言われます。その長が安倍氏でした。安倍前総理はこの安倍氏の末裔に当たります。(頼時三男の安倍宗任は降伏して一命を取り留め、平家方の水軍として活躍。平家滅亡により山口に流罪となり山口安倍氏となります。