「どうする家康」の劇中で有村架純さん演じる築山殿の息子、家康嫡男の松平信康を演じるのは細田佳央太(かなた)さん。今までの通説では、信長の命令により信康は切腹することになっていた。理由は、武田との内通。信康の妻で信長の娘の徳姫のざん言によって母、築山殿と共に命を奪われた。
家康は泣く泣く信長の命に従ったが、この出来事が禍根となり、やがて訪れる信長の死、本能寺の変の遠因になったとする人もいる。
さて、この通説についてだが近頃見つかった史料から『信長が命じた説』は、ほぼ否定されている。では、信康の死を命じたのは誰なのか。それは、どういう理由だったのか。
徳川家康の嫡男 【松平信康を切腹させたのは 誰か】
「どうする家康」で信康を演じるのは、細田佳央太さん。細田さんは、「信康とはどのような人物か」ということについて、以下のようにコメントしている。
信康という人物を調べていくと、粗暴でやんちゃだったという話がいっぱい出てきますが、今回の信康は優しい描き方をされています。もちろん史実で起きた事件は出てきますが、父親である家康公に対しても敬意を払っていて、家族思いで優しいがゆえの崩れ方をしてしまう部分があります。だから、もしかしたら歴史好きの方は「これは信康じゃない」と思うかもしれません。でも史実として伝わっているものは、歴史を残していく人が偏見の目を持っていたら、悪く伝わる可能性もある。今この世に生きている人は信康に会ったことがないですから。僕自身も、やっていくうちに信康が優しい男の子であったらいいなと感じるようになりました。「どうする家康」チームが描きたい信康は僕の中でしっくり来ていて、信康を生き抜きたいなと思っています。
NHK名古屋 「どうする家康」より
ということで、「どうする家康」中では、心優しいが別の面から言えば、「気弱な男」として信康は描かれているようだ。
細田さんが言うとおり、実際の信康を誰も見たことがないのだから、「心優しく善良な男」という描き方も許されるだろう。
実際に、別腹の弟、於万の方が生んだ於義丸(おぎまる・後の秀康)が、三歳まで父の家康にあってもらえない状況をみて、親子が対面できるように計らったのは信康だとされる。
将来自分の地位を脅かしかねない次男の於義丸は、家康から「認知されない方が良い」と考えてもおかしくない。それをあえて、家康と於義丸が会えるように画策したのだから、優しい一面もあったのだろう。
徳川信康の評価
だが、一般的に伝わる信康像は、細田さんも指摘するように、『粗暴』な行いが随所に見られたという。
信康は、些細な理由で家臣を斬り殺すことがあり、人格に問題がある人物として伝わる。ただし、武芸には励んでいた。
伝わる信康の人物像は「武芸を好み、気に入らないと些細な理由で家臣を斬り殺すこともある粗暴な人物」というもの。
信康像?
信康役の細田さんも言うように、後世に伝わる人物像は、『偏見』というフィルターを通して語られる。
この、「武闘派・短慮・粗暴」としての信康「悪人」説も、おそらく「偏見」がかかっているだろう。
はたして、信康は「心優しく、優柔不断な、(ダメ)男」だったのか、それとも「武闘派」で多少粗暴なところはあったとしても『将としても才能をもった人物』、『家康も一目置かざるを得なかった男』だったのか、現時点ではなぞだ。
信康の切腹 これまでの通説
この信康は、「信長の命による切腹させられた」と言うのが、これまでの通説だった。
元亀元年(1570年)家康の所領は、それまで今川が治めていた遠江にまで拡大した。そこで家康は、信康に家臣を付けた上で岡崎城主として三河国の支配を任せ、自分は遠江の浜松城へ移った。
信康は、1559年生まれなので、この時11歳。
有能な家臣を付けたとは言え、家康は『この息子は見所あり』と思ったから、自ら三河を治めるのではなく、息子に領地運営を任せたのだろう。
この時、築山殿は家康と不仲になっていたので、息子の城となった岡崎城に留まった、とされる。
信長の娘 徳姫と 築山殿の不仲
息子の城に留まってしまった小姑の築山殿、お父ちゃんは単身赴任していて、義理の母だけ家に残っているのだがら、息子の嫁と、小姑の築山殿の仲が悪くなったとしてもふしぎではない。
おまけに、嫁の徳姫は、跡継ぎにならない女の子しか生まない。
小姑の築山殿にすれば、ついつい文句もでる。
妻は女児ばかりを出産する。おまけに母と仲が悪い。
そんな、こんなで信康と徳姫の間も冷え切った関係になっていった。
徳姫(信康妻・信長娘)は、岡崎城内で孤立していた。
徳姫 信康と築山殿を 信長にチクる
このような状況下で、徳姫は12カ条にわたるチクリの手紙を信長に送った。
その中には、「徳姫は、信康と不仲であること」「築山殿が武田と内通していること」などが描かれていた。
当然信長は、信康とその母築山殿に強い不振感を抱く。
「こいつら、本当に武田に内通するとも限らない」
信長がそう思ったとしても不思議では無い。
そこで、家康に対し「信康と築山殿を殺せ」と命じてきた、というシナリオが今までの通説。
だがこのような通説は、『松平記』や『三河物語』などの、二次資料に基づいている。
最近の研究結果に基づく 信康切腹の真相
ところが、最近の研究に基づく見解は、今までの通説とは違っている。
どのような説だろうか。
家康は、信長に命じられたのではなく、『自主的に信康と築山殿を殺した』
最近の信康の切腹に関する説は、『家康と信康の間で、考えが違っていたために起きた、徳川家内の政治路線闘争』だった、とするものだ。
では、徳川の親子間にどのような考えの違いがあったのか。
『我々徳川は、織田の尖兵として武田に対してきた。三方原をはじめ、これまでの苦心惨憺を忘れまじ!。必ず、信長と共に武田を滅ぼす。これが徳川の生きる道じゃ。』
『信玄の死で勢力に陰りが見えるとは言え、武田は強敵。いたずらに戦うより武田とは和を結び、協調することこそ良策』
武田の思わく
1572年の三方原の戦いで徳川に痛手を負わせたものの、信玄の突然の死により、武田の力は弱まった。戦いも長期化していたので経済的にも負担が大きかった。
外部で戦うだけでなく、内部の戦いもある。御館の乱という跡継ぎを決める戦いが起きた。その影響で北条とも敵対することとなり、周りを敵で囲まれる状況に陥った。
その状況を打破するため、武田は信長と和睦できないものかと画策していた。
そんな状況下で、武田は信康や築山殿に接近してきたのだった。
この間、信康の周りでは、大賀弥四郎の武田寝返り事件が起きていた。弥四郎事件は何とか乗り切るが、武田は、さらに築山殿と信康に接近を試みる。
他方、武田と敵対する北条氏は、家康の方に急接近してきた。
こうして、信康と家康間で進むべき路線に差が生まれた。
家康と信康の政治路線上の対立
家康は、あくまで武田との戦の継続を主張した。
対して信康は、これまでの政策を見直し、武田と接近を図る路線を提唱する。
対武田を巡り家中が二つに分断された状態となった。
このまま、放置すれば家は崩壊する危機さえあった。
このような時、徳姫の書状が一つの契機となってしまった。
天正7年(1579年)7月。家康は、酒井忠次を信長に遣わし、『これまでどおり、信長に従い武田との戦いを継続する』旨を伝えた。
そして家康は、信康に最後の働きかけを行い、信康の考えを確認した。
だが信康は、最後まで自説を曲げなかった。そこで、家康は自らの意思で信康に『自害』を命じた。
当然、築山殿も同じように、信長に命じられたから、ではなく家康本人の意思で処分された。
まとめ 信康への切腹命令は、家康の決意表明
信康と築山殿の処分は、家康の家中全体への決意表明だった。
父と子の意見が合わず、どちらかがどちらかを処分する、ということは徳川家だけに限らず戦国時代には他家にも見られたこと。そこまで珍しい事態では無い。
戦国時代において家中で政策的な意見が割れた時は、中途半場にするわけにはいかない。先導が二人いては船は沈む。
信康の切腹命令は、今までの通説のような信長の命令で行われたことではなかった。
家康は、家内問題解決のため「信康の切腹」を自らの判断で決意した。これが近頃の研究成果を踏まえた新たな通説。
戦国時代、二つの道があるときには、二派に分かれどちらかが生き残ることで家を残す。悲しい安全策だが、家康もそれを行った。
何だコレ!?ミステリー2時間スペシャルでの【本郷和人氏の解説】
ただし、渡邊大門氏が主張する『信康の切腹は、信長に命じられたからではなく、家康自らが決断した』という説に対し、本郷和人氏(東大史料編纂所教授)は、5月31日(水)放送の『何だコレ!?ミステリー2時間スペシャル』で、旧説どおり、『命じたのは信長』であると主張した。
本郷氏は、『何コレ』で解説するに当たっては、『現時点で、異説もある』ことを述べていなかった。
家康が信長を悪者にした説
本郷氏が根拠としてあげる「三河物語」は、二次資料でありそこまで信用すべきものではない。
創作である「物語」で、信長を悪者に仕立てるために『家康は泣く泣く、信長の言いつけに従った』として、家康自身の子殺しの不名誉を隠した、とする学者もいる。
ただし、こちらの説も、それを確実に証明する一次史料は無い。
どちらの説も裏付けとなる決定的な証拠が出てきていないので、後に起こる本能寺の変(1582年)とかかわって、歴史のミステリーとなっている。
信康の首を切れなかった服部半蔵
信康の介錯をしたのは、服部半蔵だとされる。
だが、異説もある。
本当は、『服部半蔵は、関係の深かった信康の介錯を、ついにすることができなかった』、とするものである。
半蔵が泣いてしまい介錯できないので、実際に介錯したのは天方山城守だとする話だ。
また、半蔵が介錯したのだが、主殺しの汚名を一身に受けたのは天方山城守だったとする説だ。
どちらにしても天方山城守は、この後、家も禄も返上し出家したという。
信康の墓はどこにあるのか
信康の墓は、静岡県浜松市の青龍寺にある。
青龍寺は、家康が息子のために建立した。本尊は阿弥陀如来。山号は信康山。
服部半蔵が建立した信康を供養するための西念寺
西念寺は、東京新宿の西念寺にある。
この寺は、服部半蔵正成が信康を供養するために建立した。
信康は、信康の考え方に従って切腹をする。そのとき、「これだけは、父上に申し上げてくれ」と、言い残したことがある。
「この信康、天地神明に従って言ってんのやましさもなし。」
半蔵は、信康のこの言葉の意味をどう聞いただろうか。
『信康の信じる正義は、信長の配下として生きるのではなく、武田に組みして名誉を保って生きることでした。決して父に反抗する気持ちは、ありません。これだけは、天地神明に誓って嘘偽りはございません。すべてお家のための行動でした。ですが、父と考えが違ったのですから、父の命を受け入れ、潔く切腹いたします。』
信康の切腹を止められず、自らが介錯を命じられた服部半蔵。
半蔵の手による西念寺に、信康は眠っている。
情報元は『誤解だらけの徳川家康』
今回の情報は、『オーディブル』ならびに、『キンドル』の書籍『誤解だらけの徳川家康』を参考にしている。
この本の著者は、渡邊大門氏。株式会社歴史と文化の研究所代表取締役を務める歴史学者。
近頃見つかった史料を元に、今までの常識と違っている事実を解説している。
知的好奇心を刺激してくれる一冊として、お勧めする。
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