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家康は「三方原で脱糞しなかった」し、「『しかみ像』の絵も描かせなかった」

「三方原の戦い」は、家康最大の危機。武田信玄に手痛い敗北を喫し、逃げ帰るときに馬上で脱糞をした。そして、この屈辱を忘れないために、いわゆる「しかみ像」の絵を描いて、常に身近に置いたという話が伝わる。だが、「どうする家康」の中では「脱糞逸話」は、扱われていない。(5月21日放送では、民の噂話として扱われていた。)
脱糞した?、しない? さてこの話、どっちが本当なのか?

目次

家康は三方原で脱糞しなかったし、『しかみ像』の絵も描かせなかった

三方原で喫した大敗北は、家康最大の危機であった。命を落とさなかった方が不思議なくらい。
だからこそ、この戦いの逸話は、事欠かない。

脱糞逸話

家康の身代わりとなった 夏目広次(NHKより)

その中でも特に有名なのが、脱糞逸話だろう。
武田信玄に手ひどい大敗を喫し、家康は命からがら逃げることになる。
その最中、あまりの恐怖に馬上でクソを漏らしてしまう。
やっとの思いで逃げ帰り、馬から下りると、馬の鞍にクソが付いている。それを見た家来が、

「殿、鞍にクソが付いてござる。」

と、家康をからかう。
それに対し、家康は

「それは、クソでは無い。焼き味噌だ」

と応じた、という逸話だ。

脱糞逸話の根拠は不明

だが、この逸話は全くの事実無根、与太話の類いだ。
「どうする家康」でこの逸話を取り上げなかったのは懸命だ。いくらトレンディードラマ仕立て、面白ければ良い式のドラマだとしても、与太話まで扱う必要はない。

5月21日の放送で、「民たちの噂話し」として取り上げていた。
『なるほど、この手があったか。』と、ちょっと感心してしまった。

これなら、「単なる噂話」、「本当か嘘かわからない話」として逃げられる。

根拠として考えられる話

この脱糞逸話は、どのようにしてできあがったのか。
それを考えてみると、天保8年(1837年)につくられた改正三河後風土記という本が火元としてあやしい。

「改正三河後風土記」というのは、11代将軍徳川家斉が編纂を命じた書物であり、徳川家初期の歴史をまとめている。編纂責任者は、成島司直(もとなお)。

忠、この本に収められている家康脱糞話しは、「三方原の戦い」ではなく「一言坂の戦い」の時の話。そこに、次のような逸話が載せられている。

家康が、「一言坂の戦い」から、浜松城に逃げ帰ったとき、大久保忠佐(ただすけ)という家来が、家康の鞍にクソが乗っていることに気付いた。そして、「殿は、クソをもらして逃げ帰ってきたのか」と、家康をののしった。

とある。

一言坂の戦いは、三方ヶ原の戦いの前哨戦。三方原の戦いの約3か月前の戦い。

「なんだ、ではやはり家康は脱糞していたのではないか」
と、考えるのは早計。

そもそも、三方原の戦いは、元亀3年(1572年)の出来事。
「改正三河後風土記」が書かれたのは、天保8年(1837年)。つまり、三方ヶ原の戦いの265年も後のこと。多分に創作が入る。

さらに、別の一次資料をあたると、「一言坂の戦い」に家康は出陣していなかったことが分かっている。
参戦していない、つまり馬に乗っていない家康が、「恐怖で馬上に脱糞する」ことはあり得ない。だから、第11代将軍家斉の書かせた「改正三河後風土記」は、史料として正確性が疑わしい。

だが、仮にも将軍様の書かせた本だ。「改正三河後風土記」に載る「家康の脱糞話」は、後世におもしろおかしく伝わることになったのだろう。

味方ヶ原戦争の絵(歌川芳虎)

「しかみ像」は、家康が描かせたものではない

三方原の戦い関連で有名な話として、「しかみ像」の話もある。
家康は、三方原の戦いでの敗北を忘れず自分を戒めるため、「信玄に敗れたときの自画像」を描かせた、という逸話だ。

口をへの字に曲げ、歯をむき出しにして、左手を頬にあてている。
歯でも痛いのか?
一見、40代か50代の痩せて骨ばった男が、左足を組んで床机に座っている。
家康は、1543年生まれだから、この時29歳。
とても30前の青年には見えない絵だ。
                       (尚爺感想)

しかみ像 (徳川美術館蔵)

「しかみ像」の正式名称

現在「しかみ像」の正式な名前は、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」となっている。
この絵は、愛知県名古屋市にある徳川美術館に所蔵されている。

今は尾張徳川家の所蔵物だが、もともとは紀州徳川家のもので、紀州家から尾張家に伝わったものだった。このやり取りは18世紀の末のころのことだった。そして、このころのその絵の名称が驚きだ。

何と、「長篠戦役図」と名付けられていたのだ。当然、『長篠の戦いのときの家康の像』ということになっていた。
驚きである。

その後に、「改正三河後風土記」などいろいろな情報が付け加わって、現在の「徳川家康三方ヶ原戦役画像」となり、『しかみ像』ということになって定着した。

尾張徳川家主催 明治43年開催の展覧会での「しかみ像」の紹介記事

明治43年(1910年)、尾張徳川家が展覧会を催し「しかみ像」を公開した。
そのときの、「しかみ像」の解説には、

この絵は、「長篠の戦いのときの家康」であり、尾張藩祖の徳川義直(よしなお)が描かせたもの

とあった。
つまり、すくなくとも、明治43年になるまでは、この絵は「長篠の戦いのときの家康」とされていた。
そして、描かせたのは、家康ではなく尾張徳川の藩祖で家康の子の『義直』だという。

「しかみ像」が「三方原の戦いのときの家康」とされたのは「いつ」

昭和11年(1936年)、徳川美術館で展覧会が開かれた。
この時は、「しかみ像」について、

尾張藩祖、徳川義直(よしなお)が、父・家康の苦難を忘れないため狩野探幽に描かせた。

と紹介し、ここでいう『苦難』とは「三方原の戦い」のことかなと、思わせるようになっていた。
そして、「三方原の戦い」が匂ってきたことから、描かせたのは、義直ではなく「家康」という誤解が増幅される…。そうして、

「しかみ像」は、「三方原の敗戦」を忘れないように家康が描かせた

という、逸話の原型が出来上がっていく。

昭和47年の徳川美術館発行の『徳川美術館名品図録』

昭和47年(1972年)に徳川美術館から、『徳川美術館名品図録』が刊行された。(徳川美術館 名品図録
この本には、『「徳川家康三方ヶ原戦役画像」』として、

家康が三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った際、慢心への自戒として、この絵を自らの座右に生涯置いた。

という意味の解説文が載った。

これ以後、この解説が世間に流布し定着していく。

家康は、どういうことで『慢心』していると思われたのか

では、この家康の『慢心』とは、何を指すのだろうか。
『三河物語』を見ると、家康は、三方原の戦いに臨むに当たり、

己の慢心から、家来の言葉に耳を貸さず、出陣してしまった。
その結果、信玄に大敗を喫することになった

と、書かれている。つまり、

『家来の言葉に、耳を貸さないとだめだ。』

という、自分への戒め。
独りよがりは『慢心』、ということだ。

そして、この教訓は、江戸時代でも、明治でも、大正でもなく、昭和の時代にできた逸話的教訓だということ。逸話の成立がつい最近のことなので、ちょっとびっくりだ。

いろいろ不明な点があり、今後さらに詳しく史実が明らかにされていくのだろうが、「しかみ像」は、どうやら家康が描かせたものでは無い、と言う点は動かしがたい。

三方原古戦場碑

まとめに代えて

今回の情報は、『オーディブル』ならびに、『キンドル』の書籍『誤解だらけの徳川家康』を参考にしている。
この本の著者は、渡邊大門氏。株式会社歴史と文化の研究所代表取締役を務める歴史学者。

近頃見つかった史料を元に、今までの常識と違っている事実を解説している。
話題が、ややあっちこっちに飛ぶのが難点だが、読み手が意図をもち、例えば、「家康の脱糞はあったのか」とか「しかみ像は本当に家康が自らの戒めとして描かせたのか」という問いをもって読めば、目的に合ったところだけをつなげて読むことができる。

知的好奇心を十分に刺激してくれる一冊として、お勧めできる。

キンドルストア audibleストア

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