アサシンクリードシャドウズ、というゲームに端を発した『日本人が黒人奴隷を流行らせた』という、見過ごすことの出来ない流言が世間を騒がせている。
この流言の出所は、信長公記(しんちょうこうき)などに登場する、黒人『弥助』の存在。
流言を一言でまとめると、
『当時、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うことが日本で流行していた』
というもの。
『黒人奴隷は、日本から始まった』
というもの。
とんでもない言いがかり…。
この流言の真偽の程は…。
信長公記に見える『黒人 弥助』(小説風に)
黒人弥助の日本の歴史への登場は、天正9年2月下旬。
西暦でいうと1581年のこと。
つまり、本能寺の変(1582年6月)の1年ちょっと前のことだった。
伴天連坊主ヴァリニヤーノが連れてきた奴婢とされている。
背丈は六尺を優に超える、つまり180㎝以上あった。
戦国時代から江戸時代にかけての日本人男性の平均身長が154㎝から158㎝(概ね157㎝)とされるこの当時としては、山ほどの大男だ。
黒光りする肌、引き締まった身体。
さらに、美丈夫。
さしもの信長も、度肝を抜かれていた。
『この黒い肌は、深夜の戦に使えるな。』
『まてよ、こんなに黒いはずは無い。もしや、肌に墨を塗っているのでは?』
信長は、あまりの黒い肌に、そのような疑いをもった。
『この者の肌を徹底的に洗ってみろ。」
そう命令する信長に対し、黒人奴隷は首を左右に振った。
そして、言葉を発した。
「これは、間違いなく私の肌の色です。」
信長の動きが一瞬止まる。
この黒い偉丈夫の発する言葉は、そばに控える生白い伴天連坊主よりも、よほど言葉が巧みだったのだ。
仰天している信長の様子を見て、
即座に人差指で自らの耳を指し、
『言葉は、聞いて覚えました。』
と言った。
『こやつ、機転も利く。頭も相当に切れる。ますます面白い。』
とは言っても、信長の命令は生きている。
小姓たちは、有無を言わせず黒い偉丈夫の着物を脱がせ、その肌を念入りに洗いはじめた。
しかし、いくら洗っても肌の色は落ちない。
それどころか水に濡れた肌は、美しい光を放っている。
『これは、間違いなく。肌は黒い。』
「よし。洗うのはそこまでだ。』
『次は、相撲を取って見せよ。」
信長は相撲好きだった。
力自慢の者たちを呼び出す。
黒い偉丈夫は、相撲は初めてだという。
だが、誰もこの黒い偉丈夫に歯が立たなかった。
『この男の剛力は並外れいる。さしずめ十人力ほどか…。』
信長のその目は、嬉しそうに輝きを増していた。
信長は、即決した。
『ヴァリニヤーノ、この者を召し上げることに決めた。よいな。』
信長は、この男に名を与える。
『弥助』
信長は、名を与えたばかりの男に問うた。
『弥助、武器を扱えるのか。』
弥助は、奴隷だったので武器の所持は認められていない。
『武器は、扱えません。』
流暢に答えた弥助に、信長は太刀を渡し、構えてみるよう命じた。
確かに弥助の構えは、いわゆるへっぴり腰。
それでも、太刀を振らせてみると、『ゴー』と今までに聞いたことの無い風切り音を発した。
思わず、周りの者は二散歩後ろに下がる。
「何だ、こ奴。このへっぴり腰で、なぜこんな太刀の振り方ができるのだ!」
『蘭丸!!!』
信長は、小姓の森蘭丸に、弥助に基本的な構え方、振り方を指導するように命じた。
『脇は、このように締めよ。』
小姓の森蘭丸が、弥助に基本的な太刀扱い委指導を始めた。
『顎は、このように引くのじゃ。』
弥助は飲み込みが早い。
さらに、指導は細部に至る。
『視線は、どこにあるのか相手にわからぬようにする。』
『遠景を見るかのような眼差しだ。』
『なるほど、遠くを見ているようで、ちゃんと近くにも目を届かせていることを悟らせないようにする…。』
「そうだ。相手に目の動きを読まれぬこと。』
『だめだ。もっと肩の力を抜け。そうそう、太刀の握りは小指と薬指で。もう少し腰を落とせ。』
弥助は短時間で驚くほどの変化を示した。
『よし、もう一度太刀を振ってみよ。』
再度の信長の命令。
弥助は再度太刀を構える。
正眼から上段へ。
一瞬の間、
太刀を振り下ろす。
『ゴーン』
しばしの沈黙の後、蘭丸が小声で呟く。
『ほんとうに太刀を扱うのは、初めてなのか。』
周りの者も、目を丸くしている。
『見ごと!!!』
信長は、さらに太刀と屋敷を与えた。
この出会いから約1年後の1582年。
本能寺の変が起こる。
(信長公記』などを元に創作)
史実の弥助
資料として残る弥助とはどのような人物だったのだろうか。
実は、詳細な資料は少ない。
- ヴァリニヤーノが連れてきたこと。
- 黒人であったこと。
- 水で洗っても、肌の色は変化しなかったこと。
- 身長が六尺を超えていたこと。
- 相撲を取らせたこと。
- 弥助という名前を信長が与えたこと。
- 同時に、太刀と屋敷を与えたこと。
(ただし、与えたのは、太刀では無く脇差しだったとする説もある。)
- 荷物運びとして、信長のそばに仕えさせたこと。
- 本能寺の変の際にも、信長に帯同していたこと。
- 本能寺の変を生き延びたこと。
(本能寺から出るに当たり、光秀から『この者は、人では無く獣』だとして扱われたことで命拾いしたこと。)
これ以上のことは、分かっていない。
弥助が、侍身分だったのか、単なる中間(ちゅうげん)身分としての荷物運びだったのかは、分からない。
しかし、信長から、名と刀と屋敷をもらい、信長のために明智光秀と戦ってはいる。
単なる「弥助」で苗字は無くとも、信長から太刀をもらい、屋敷をもらっているなら「侍身分」を約束されたとも言える…。
侍身分では無くとも、武装した者(武士)であったと言って良いかもしれない。
戦国時代、黒人奴隷の使用が日本で流行していたのか
デービット・アトキンソン氏が、『だれか、日本に黒人奴隷が流行っていなかったというエビデンスを証明してほしい』と、投稿した。
信長の時代、ヴァリニヤーノをはじめとするイエズス会のイギリス人たちや、ポルトガルやスペイン、オランダ人達が日本に来日していたことは確か。
だが、黒人が日本にいたという記録は、弥助以外にあるだろうか。
おそらく、無い。
無いものは、証拠として示すことが出来ない。
日本人は奴隷とされていた
逆の資料は存在する。
日本人が、奴隷として海外に売り飛ばされていた。
しかも、相当に大人数がだ。
天正10年(1582)2月、天正遣欧少年使節がイエズス会巡察使ヴァリニャーノとともにローマへ出発した。
主席正使伊藤マンショ、正使千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、副使原マルチノ。
彼らはすべて10代の少年で、九州のキリシタン大名・大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としての派遣だった。
このときの様子が、『天正遣欧使節記』として残されている。
ヴァリニャーノの著作とされ、その中に、『少年たちが旅路において見聞した日本人奴隷についての思い』が記されている部分がある。
「このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語とを同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」「実際わが民族のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫さらって行かれて売り捌さばかれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫れんびんの情を催さない者があろうか」
(『天正遣欧使節記』)
戦国時代、戦が起こると、女・子どもを戦のドサクサの中でさらってきて、海外に奴隷として売り飛ばす、という行為はあった。
だが、日本国内に奴隷の存在を示す記録・資料があるだろうか。
この少し後、穢多・非人などと呼ばれた人々が出現する。
だが、それらの人々も奴隷では無い。
『信長が、黒人弥助を奴隷として手元に置いたことで、日本の権力者の間に黒人奴隷が流行した』
などという流言は、まったく根も葉もない。
弥助は、信長とともに帯同し、本能寺に滞在していた。
一説によると、信長は自らの首を
『光秀に渡すな』
と弥助に命じたとも。
未だに、信長の首の行へは日本史の謎となっている。
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