日本の呼称は、「ニッポン」か、「ニホン」か
「日本」は、「ニッポン」なのか「ニホン」なのか。
実は、読み方について国家的統一はなく、どちらも間違いではない。
こういうときは「ニッポン」、この場合は「ニホン」など、厳密に使いわけられているわけではない。ただし、対外的には「ニッポン」を多く用いている。
江戸初期に編纂(1603・04年頃)された『日葡(にっぽ) 辞書』には、ニッポン(Nippon)と、ニホン(Nifon)が併記されている。
つまり、室町時代にはすでにニッポン(Nippon)と、ニホン(Nifon)が今と同じように両方が使われていた。
1690年代に書かれたケムペルの『日本史』には、
「もっとも普通に、また、もっともしばしば書く時や会話には、Nipponが用いられるが、時にはやや高尚な仕方で、また、特殊な人々には、Nifonが用いられる」
ケムペルの『日本史』より意訳
と書かれている。
つまり、一般の人たちは、「にっぽん」を使っていた。「にほん」は、ちょっと気取った使い方だった。
「にっぽん」、「にほん」どっちが、より古くから使われていた?
室町時代には、すでに「にっぽん」という読み方も「にほん」という読み方もあったことは分かった。
では、より古くからあった読み方はどちらか。
「日本」の呉音読みと、漢音読み
実は、「にっぽん」「にほん」とも、呉音(こおん) 読みである。
では、漢音だと「日本」を何と読むのか。
漢音では「ジッポ(ホ)ン」。
先の『日葡辞書』にも「ジッポン」という漢音読みの記述も載っている。だが、「にっぽん」「にほん」の呉音読みが一般的であったと説明される。一般的に読まれていた「日本」の呉音読み「にっぽん」と「にほん」は、どちらの方がより古いのか。
「日」は呉音で「ニチ」。正確な呉音読みなら日本は「ニチホン」。だが、「日」は入声音だから、つまって「ニッ」になる。
しかし「ッ」という促音や「ン」という撥音の音符表記は中世までない。また中世以後も、その使用が厳密ではなかった。
さらに、「本」も、今のように「ホン」と喉から出すのではない。両唇を結んで出す音だったのだ。だから、呉音読みの「ホン」も「ボン」「ポン」と聞こえる。従って、日本と書いても、発音は「にほん」ではなく「にっぽん」となる。
では、どうして「日本」を、「ニッポン」とか、「ニッボン」と表記しなかったのか、という疑問もあろう。
この疑問については、
明治以前は、「ポ」「ボ」などの表記法がなかった。
ということなのだ。
「ホ」「ボ」「ポ」など、濁点をつけることによって発音のちがいを表示したのは、明治以降の義務教育から。
濁点は平安時代の末から音符として使われ、近世になって多く用いられたが、明治以降のように正確に使い分けて表記することを義務づけられていたわけではない。
つまり、「ニッポン」も「ニッボン」も、「日ほん」という表記となる。読みはどうあれ、すべて「日本」と書かれる。
岩橋小彌太は、
「中世では、日本一という言葉がひどく流行した。謡曲ではこの日本一というのをにッぽんいちと唱うのである。口言葉は時代によって移り変わりがあるけれども、謡い物の言葉は比較的に古い姿がのこるのである。当時の起請文(きしょうもん) にも必らず日本国中の大小の神祇と書かれてあるが、これは口ではにッぽんこくぢゅうと読むのである。こういういいならわされた言葉にも古い面影が窺われる」
と書かかれている。
つまり、歴史的にも語源的にも、「にほん」より「にっぽん」が古い。
和音を呉音というようになった
ところで、呉音というと、中国の「呉の国の時代の漢字の読み方」を意識する。しかし、必ずしもそうではない。
「天皇」の「皇」の呉音は「ワウ(オウ)」。
漢音は「クワウ(コウ)」で、「ワウ」の連声が「ノウ」。
つまり、天皇を「テンノウ」と発音するのは、呉音の連声による。
しかし、「皇后」の「皇」は漢音を用いている。
「コウゴウ」と発音する。
なぜ「天皇」と「皇后」では、同じ「皇」が、呉音と漢音の別々の読み方なのか
わが国へ、古い時代に漢字と共に入ってきた音は呉音。
「呉音」と言ったのは平安中期以降で、平安中期までは「和音」と言っていた。
「和音」とは「やまとの音」の意味。
和音を呉音というようになったのはなぜか
中国では隋・唐以後、長安(今の西安地方) で用いられた音を正しい音(漢音)とした。南方音を漢音に対して正しくない音と同義で「呉音」といった。
日本でも、その影響を受けている。
それによって、わが国でも正音は「漢音」。それに対し、古来から伝わる音、つまり和音と言われていた「音」を「呉音」と言い換えた。
さらに、わが国でいう「呉音(和音)」は、単純に、中国の呉・越地方で用いられた音とするわけにはいかない。
呉音(和音)といっても、朝鮮半島から渡来の音もある。更にその源流は、中国の古音に求められるものもあり、呉の国の音そのものではない。
呉音(和音)は古い時代、日本に文字と共に伝わった音とされる。日常会話(方言)としてしゃべっていた音でなく、「読書音(漢字をよむ音)」であった。
伝来のルートも、朝鮮半島から渡来した人たちが漢字とともに伝えたようだ。この呉音(和音)に対して、唐や隋に派遣された使者や留学生・留学僧が伝えた読書音が漢音である。
この漢音を奈良時代から平安時代に、正式な音(正音)であると国が定めたので、和音(呉音) は正音(漢音) に対して俗音と呼ばれることとなった。
「天皇」「皇后」は、漢音では「天皇(テンクワウ) 」「皇后(クワウコウ) 」である。
ところが「皇后」とちがって「天皇」表記は一般に和音(呉音)で、すでに普及していたのだと思われる。だから新しく入ってきた「漢音」の「テンクワウ」は普及せず、一般の日本人が昔から使っていた「テンノウ」が使われ続けた。
「テンノウ」は、「和音(呉音)」の「テンワゥ」が、「テンワゥ」の連声の法則により「テンノウ」となることによる。
「家(か) は漢音だ。呉音では家(け) とよむてな。都(すべ) て儒学は漢音、国学は呉音でよむが、又仏氏(ぼうず) の方なども呉音でよむ」
式亭三馬『浮世床』
とある。
江戸時代後期でも、中国の文献にくわしい儒者は漢音。国学者や僧は和音(呉音)で読んだ。
儒学者は、「天皇(テンクワウ) 」「日本(ジツボン) 」と読み、国学者や僧は「天皇(てんのう)」「日本(にっぽん)(にほん)」と読んでいただろう。
ケンペルは、「にっぽん」に対して「にほん」は、「高尚な特別な人たち」が用いる言葉と書いている。
日本を「ジッポン」と読むのは、ケンペル流に言えば、「にほん」と呉音で読むよりさらに「高尚な読み方」だ。
つまり、漢音が正しい音読みだという知識をもっている儒学者など「高尚で特別な知識人」のみが用いていた音読みだ。
だから、儒者などの知識人は、『日本紀(日本書紀)』『続日本紀』の「日本」は、正式には「ジッポ(ホ)ン」と正音で読んでいただろう。そして一般人は、「天皇」を一般に「テンノウ」と言い、『日本紀(日本書紀)』を「にほんしょき」と、俗音(和音・呉音) で言っていただろう。
しかし、この俗音は中国では通用しない。
中国ではあくまで、漢音の「日本(ジッポン) 」と読んだから、マルコ・ポーロの『東方見聞録』も、中国人の「日本」の発音「ジッポン」から「zipangu」となった。
日本は、訓読みでは「やまと」
読みには、音(おん) だけでなく、訓(くん) 読みがある。『日本書紀』は「日本」の読み方について、「日本、此(これ) をば耶麻騰(やまと) と云ふ。下皆此(しもみなこれ) に効(なら) へ」と注している。
つまり、『日本書紀』は「やまとのふみ」が正しい読み方なのだ。
『日本紀(日本書紀)』は、鎌倉時代に入っても正式には「やまとのふみ」と呼ばれている。このことは、卜部兼方(うらべかねかた) の『釈日本紀』にも書かれている。
国号「日本」も、正しくは和訓の「やまと」であった。
養老四年(720)成立の『日本書紀』の「日本」についての註からも明らかだが、養老律令の時代の和訓は「日本(やまと) 」である。
この「やまと」は漢字表記の「倭」による。
「やまと」という読みをそのままにして、漢字表記を「倭」から「日本」に改めた。
やがて日本人は「倭」の字には「ちんちくりんなちび」の意味があることを知り、「倭」の字から「日本」に国号を改めた。だが、読みについては、変わらずに「やまと」である。
また、和訓では「やまと」以外に「ひのもと」とも読める。
日本思想大系『律令』では、「日本(ひのもと) 」と呼んでいる。
この読みは、日本人とは、「太陽の民」であり、「太陽にお陰様を感じる民族」であることを示している。
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