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朱子学の『性即理』の意味:性善説【人の本性は、天理に通じる善】

儒学は、孟子以来『性善説』を取ると言われる。
しかし、儒学の『性善説』が確立したのは、宋代の程顥・程頤以後。
程頤の『理』の概念の確立によって、定着した。

朱子学はそれを引き継ぎ、『性即理』の概念を確立する。

目次

性即理と心即理

 1  「理」のもともとの意味

教科書や概説書に

朱子学の特色を「性即理」
陽明学の特色を「心即理

と、対比的に説明している。
(これは厳密に言うと正しくないのだが、今回はこの点には触れない。)

「性即理」→『性』は、そのまま『理』である。

理」という字のもともとの意味は、
玉のすじめ」のこと。

玉とは、宝石のこと。

玉の表面に模様として現れるすじめがある。
そのすじめは、もともと玉の表面にそのようにあるもの
そこから転じて、ものごと一般の「そうあるべき物事のすじめ」を、〈理〉と呼ぶようになった。

古代・孔子や孟子の時代【「理」の説明は無い】

しかし、古代の孔子や孟子が表した「論語」や「孟子」の記述には、「そうあるべき物事のすじめ」という意味で「理」の字を用いた記述は無い。

これは、どういうことだろうか。
つまり、『論語』や『孟子』が編まれた時点では、まだ「理」の字に、「物事のすじめ」という意味が無かったことを意味する。

伊藤仁斎の朱子学批判のタネ

伊藤仁斎は、『孔子や孟子の説いた本来の儒教に「理」の思想は無いから、
「理」の思想は、朱子学のねつ造だ』
と、批判した。

伊藤仁斎は、「論語」や「孟子」の中に「理」の考え方が無いから、
これは、「後世の朱子学の祖、朱熹がねつ造したのだ」と、朱子学批判のネタにしたわけだね。

「理」という字は、朱子学(朱熹)のねつ造なのか

「理」の字に、「物事のすじめ」という哲学的な意味をもたせるようにしたのは、朱子学の祖の朱熹がはじめでは無い。
三国時代西暦三世紀)には、「理」の用法として、「物事のすじめ」という意味が見られるようになっている。

つまり、「理」(物事のすじめ)という用法は、朱子学(朱熹)のねつ造というわけでは無い。

さらに、儒学の一つの流れの「玄学」では、
現象の奥にあるもの』という意味で、「理」を用いているね。

仏教(華厳教学)でも、西暦7~8世紀ごろから、
すでに「理」は、「事」の対概念として、用いられていた。

これらから考えると、「理」の字を「物事のすじめ」とする理解は、宋代の朱子学成立時には一般化していたと思われる。

日本において「理」は、新鮮だった

宋代の中国人にとって「理」という字の意味は、一般的な語法として使われていた。
だが、日本人にとって「理」とは「物事のすじめ」を指すという語法は、新鮮だった。

江戸期の日本人は「理」の字の新概念を知ったとき、明治期に西洋文明を取り入れて新しい言葉を創造していった時と同じような感覚を味わっていただろう。

目の前がパッと開けたような、知的なアハ体験だったはずだ。

「理」=「原理」「真理」

「理」とは「物事のすじめ」という意味をさらに、
「理」に、「原理」「真理」という意味を持たせたのは、朱子学(朱熹)の尊敬する儒学者であり、道学の祖と言われる程顥(ていこう)程頤(ていい)の兄弟。

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朱子学は、
この「理」とは「原理」「真理」
を、基本概念として哲学的体系
を構築している。

朱子学と言えば『性即理』
と、一般的にとらえられるが、この概念は程頤によって生み出された。

「性即理」
性は理、つまり『理性

ここでいう〈理性〉は、現在普通に用いられている「りせい」の意味ではないので注意。
仏教用語としての、『理性・りしょう』であり、『事相』の対概念。

朱子学でいう「理(理性)」は、「ものの本性」を意味する。

この世の中のは、由来をたずねてみれば善でないものはない
喜怒哀楽(といった感情)も、〈未発〉の段階では、すべて善である。
それらが外にあらわれても節度にかなっておれば、ことごとくでないものはない。

程頤は中国思想史上、古くから課題となってきた〈性〉の説明に、上記の様に〈理〉という語を使って説明した。

儒教の『性善説』は、程頤・朱熹の朱子学から

〈性〉をどう捉えるかについては、秦の始皇帝の時代紀(元前221年ごろ)のころから大変にたくさんの解釈・説明が成されてきた。

文献的に最も古いものが、孟子告子(こくし)の論争。
孟子は、人の性は、『善である』、「人はみな善なる性を持つ」として『性善説』を主張する。

対して、告子は、「性には善も悪も決まった性質はない」と主張した。

その孟子や告子の説の他にも、
「君主の政治がよろしきを得るかどうかで、人々の性は善になったり悪になったりする」という説、
性は人によって異なり、善なる人もいれば悪なる人もいる」という説なども提示された。

これらの諸説に対抗して『性善説』を唱えた人物として、現代人の私たちは孟子の名を記憶している。

現在、私たちが目にする儒者・孟子の正統的な教えは、『性善説』であり、孔子以来二千五百年間儒教の『性善説』は、ずっと変わらなかったかのように思っている。

だが、それは歴史的事実ではない
孟子の性善説が儒教の正統的な考え方だとされたのは、程頤・朱熹らがこれを「性即理」として定式化した後から。

程頤や朱熹以前は、「儒学者」でも、「性善説」でない人も居たわけだね。

孟子の『性善説』を「理」で説明した儒者・程頤(ていい)

孟子本人は自分の性善説〈理〉という語を用いて説明したことは一度もない
〈理〉という語を初めて用いて説明したのは、程頤(ていい)だ。
程頤と、兄の程顥(ていこう)は、〈理〉とは、『物事のすじめ』→(物事の原理・真理)という概念を生み出した。

そして、〈天理〉と〈〉と〈〉の関係性についても概念化に成功した。

『天界において】
〈天理〉→『万物の原理・真理』→〈
【人間界において】
〈天理〉は人の中に〈理〉(『物事の原理・真理』)として備わっている→〈

『中庸』冒頭の一句に「天の命ずるをこれ性と謂う」という、程頤の言葉がある。

すべての人は、天から〈命〉として〈性〉を賦与されている、
という。

人は、生まれながらにして〈天理〉に従った〈天命〉をもっている。
それを〈性〉と言うんだね。

天には〈理〉(天の原・真)があって、これが世界全体を統一し秩序づけている。
個々の人間がもって生まれた〈性〉は、すべて〈天理〉の一部である。
従って人の〈性〉の本質は『万物の原理・真理』と同質である。

かつて、孟子は「人はみな善なる性を持つ」と言った。
この孟子の言葉は、程頤と程顥の兄弟が生み出した〈理〉という概念を用いると、スッキリ理解することができる。

だが、ここでまた問題が生じた。
それは、〈性〉と人間の感情である〈情〉との関係

人間の心にある〈性〉が『善』だというが、人間の心には感情が存在する。
人を憎んだり怒ったりという感情は、『善』と言えないのではないか…。

この難問を、朱熹はどう解決したのだろうか。
(以下、つづく)

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性善説

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