『陽明学の祖』とされるのは中江藤樹。年老いた母のために、死をも恐れず脱藩して武士の身分を捨てた話は有名。この逸話からも分かるように、藤樹陽明学の中心思想は『孝』。ただし、藤樹の『孝』は、親孝行の『孝』に留まらず、『天地自然』『人間世界』を一貫する原理と『敬愛』。形骸化する傾向にあった朱子学に対する疑問から生まれた藤樹の陽明学は、熊沢蕃山に引き継がれ、やがて後期水戸学にも大きな影響を与えた。そして、明治維新を推進する思想的支柱となった。
陽明学派の祖、中江藤樹と、熊沢蕃山の概要
中江藤樹 概要
中江藤樹が生きた時代は、1608年(慶長13年)から1648年
江戸時代の初期に、帰農農家の父と母のもとに長男として、近江(滋賀県)に生まれた。
しかし、9歳のときに、武士身分の祖父の養子となる。そして、15歳のときに、伊予(愛媛県)に移住する。
18歳のときに、実の父が亡くなり、母親が遠い近江で一人きりとなる。
25歳のときに、年老いた母の面倒を見るため、辞職を願い出る。
しかし、許されず27歳のときに死を覚悟の上脱藩して近江へ帰る。
近江では、私塾を開き、清貧の生活を送る。
40歳という若さで亡くなるが、わずかな期間に、藤樹の名は近江聖人として全国に知れ渡り、藤樹に教えを請おうという人物が各地からやって来た。
熊沢蕃山 概要
『借学』を説く。(ただし、『借学』という用語は、鷲田氏の「日本を創った思想家たち」以外からは見つけられなかった。)
熊沢蕃山先生没後330年記念誌中に、
「蕃山の学問・思想」として、
~中江藤樹から学んだ「知行合一」「致良知」等の陽明儒學また、「孝経」等を基盤に、「民本主義」「経世済民」「実践主義」等、蕃山は独自の「蕃山学」とも言える学問・思想体系を打ち立てていった。
熊沢蕃山先生没後330年記念誌より
蕃山は『京都に生まれ、水戸に育ち、近江で学び、岡山で功を為し、古賀に没する人生を歩んだ。』(熊沢蕃山先生没後330年記念誌より)
京で生まれたが、8歳の時に、水戸藩に籍を置く母方の祖父熊沢守久の養子となった。16歳で、岡山藩池田光政に仕える。しかし、藩命に背き、20歳の時に一度岡山藩を去らなければならなくなった。
その後、近江へ移り24歳で、中江藤樹の弟子になる。
27歳の時に、再び岡山藩に出仕し、大きな成果を上げ、藩主池田光政ともども、熊沢蕃山の名が全国に知られた。
蕃山が書いた「大学或問(だいがくわくもん)などが幕政を批判しているということで、下総古河(現茨城県)に禁固となり、古河で没している。
陽明学派 中江藤樹の思想
田舎道で、「無人野菜販売所」を見かけたことがあるだろうか。
店の人は誰もいない。ただ、品物と、値札がある。
買う人は、自らの良心に従って、代金分のお金を納めて商品を持って帰る。
「これ、よく盗まれないよな」
と、思うこともあるが、ほぼ盗まれたり、金額が合わなかったりしない。
現在では、町中に、餃子の無人販売機なども見られるようになった。
近頃、この無人販売機から、無断で品物を持っていく日本人のニュースが聞かれる。
まったく日本人らしくない。
本来、「日本民族は、誰も見ていなくても、人の物を黙って持っていくことなどしない。」
同様のニュースが流れるたびに、「これ、本当に日本人がしたことか?」
と、疑ってしまう。
ところでこの、「無人販売」を始めたのは、中江藤樹先生だった。
心の鏡を磨け
中江藤樹は、独学で朱子学を学んだ。しかし、学ぶうちに朱子学の形骸化、また学問としての学問、支配者の学問であることに、疑問を感じるようになる。
そして、王陽明の『致良知』の考え方を推奨するようになる。
『良知』とは、何か
「良知」とは、心に内在する善悪の判断力だ、と藤樹先生は言う。
人は、だれでも生まれながらに『善悪』についての判断力を持っている。赤子が、ひたすらに両親を愛敬する一心を根本とする、善悪の判断を知る徳性のことである。
「日本を創った思想家たち」より
赤子のような清らかな心になれば善悪理非の判断に迷いも、間違いもない。
藤樹先生、赤ん坊に善悪なんて判断できますか?
赤ん坊の心、ちゅうけんどよ、
こりゃあ、親と子という意味ではなかんべか。
親は子を、愛するべ、
赤子は難しいことは分かんねえべけど
親を「信じてる」べよ。
言葉ではねえけど、赤子でも心がそう思ってるべよ。
朱子学では、『敬』は「つつしむ」ということ。
だが、藤樹先生の「両親を『愛敬』」は、文字通り。
『愛し、敬う』ということか。
なるほど、朱子学は、『敬(つつしみ)』を重んじ、
藤樹先生の陽明学の根本は『孝』を重んじる。
そして『孝』とは、親と子の『愛情」と「敬う心」、
すべての人に、同じように「愛敬」をもて、『孝』の気持ちをもって接しなさい、
という教えか。
愛敬は、まず親子の間の孝にはじまり、人家が主君に対するに忠、主君が臣下に対するに仁、兄弟の恵と悌、夫婦の和と順、朋友の信へ、と進んでゆく。『全孝心法』である。良知の根本である『孝』の心をもってことに対処すれば安寧が得られる。
「日本を創った思想家たち」より
中江藤樹の逸話
母のために、脱藩する
中江藤樹と言えば、父が氏に病弱の母の世話をするために脱藩する話が有名だ。
祖父の養子となり、愛媛県の大洲で侍として働いていた。しかし、父の死で一人になってしまった母親の面倒をみて親孝行をしたいと思い、脱藩した。
脱藩すれば、命を奪われても文句が言えない所だったが、同僚藩士の口添えもあり、藩士から命を許され母の元へ帰ることが出来た。
「孝」を大切にし、実践を尊ぶ藤樹らしい逸話だ。
近江に帰った実践の人藤樹は、母親のみならず、近隣の人々すべてに「孝」を実行する。具体的には、次の『五事』をもって、母や人々に接した。
貌(ぼう)・和やかな顔つき
言 ・優しい言葉遣い
視 ・温かく澄んだまなざし
聴 ・話をよく聞く(聞く力)
思 ・思いやり
熊沢蕃山との出会い 正直馬子 又左衛門の話
加賀の飛脚が忘れてしまった大金(200両)を、藤樹先生に教えを受けていた馬子さんが、正直にその200両を届けたという話。
雇って乗った馬の鞍に、200両の大金を忘れてしまった加賀の飛脚が、お金をなくして「もう、これは死ぬしかない」と、思っていたときに、当の馬子さんが、約30キロという長い距離を走り、落とし主に200両(現在の約3千万円と言われる)を届けてくれた。
落とし主の飛脚は、大変に喜び礼金を渡そうとする。しかし、馬子は受け取らない。「私は、藤樹先生の教えを実行したに過ぎない。お礼などいらない」と言う。
これを見ていた熊沢蕃山は、正直な馬子と、その師である中江藤樹に感動し、自らも藤樹の弟子になった。
門前で二日間座り込んで、やっと弟子にしてもらった熊沢蕃山の話
蕃山は、藤樹先生に入門を申し込む。
しかし、「私の学問は、出世のための学問ではない。修身のための学問なので、出世のために学問を修めようという人の入門は認められない。」
と、すんなりとは入門を認めてくれなかった。
そこで蕃山は、藤樹の家の門前に二日間座り込む。そうしてやっと入門が認められたという。
儒教は、主に禅宗の僧の教養とされてきた。
まさに、道元の永平寺のような入門逸話。
実践の人 熊沢蕃山
熊沢蕃山は、幼年時代水戸藩士の祖父の養子になっている。さらに、終焉の地も、茨城県古河市。
茨城には縁の深い人物。
この蕃山、藤樹に実際に教わったのは、わずか8か月。しかし、その後も、書簡などでやりとりをしながら親交を深めた。蕃山の陽明学は、「実践・実行」にある。
TPOを踏まえて、礼を行う
蕃山は、藤樹の陽明学を政治・経済に活用しながら、自らの解釈を加え、「借学」とも、「蕃山学」とも呼べるような実践の学問としていった。
学は一流に拘泥し、いたずらに異説を立つべからず。要は 大道の実践を心得たらばよろしく時・処・位に応じて之を国家経論の上に施さざるべからず
蕃山は、藤樹の教えである「朱子学の礼法にとらわれず、『心の自由なはたらきによって 、時・処・位(地位のこと)の状況に応じて行動」していくことを根本原理とした。
時と場と相手に応じて行動する。
蕃山の論は、中庸で、立論の中核には朱子学も陽明学もあり、どちらかに従属していたわけではない。また、中国の優れた処を取り入れるが、風土の異なる日本の中で生かすことが重要だと説く。
神学を重視するところは、老荘思想の影響も見られる。つまり、王陽明の説のみ取り入れ、朱子学を排したというのは、違っている。「いずれかの説を採るんではない。古の成人の説を用いているに過ぎない。それぞれの説は、「時」に応じて表現が異なっているに過ぎない」
と述べている。
敵対せず、
蕃山は、廃仏論を唱えた。神道への回帰を主張し、後に水戸学にも影響を与える尊皇主義、日本主義、皇国史観の創始者の一人であると見られた。
朱子学は、幕藩体制の維持のための官学。対して陽明学は、民のための「孝」を目指す庶民を根底に据えた思想。
当然、幕府からは陽明学はよく思われない。
藤樹や、蕃山に「孝」の心、「すべての良いところを取り入れる」という考え方があったとしても、幕府からは白い目で見られた。
熊沢蕃山も、幕府から疎まれ、茨城県古河の地で禁固処分を受けることになった。だが、実際は藩主の計らいでかなり自由にであるこことが出来た。
蕃山は、古河でもその才能を発揮して治水事業などを行い、古河藩の財政を一挙に四万石も増産したと伝わる。
蕃山の墓は、藩主松平忠之によって古河市鮭延寺(けいえんじ)に葬られた。
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