はじめに
社会科教師OBの尚爺と申します。
「水戸学ってどんな学問」をハテナとして、
水戸学について考えてきました。今回は第7回目となります。
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- 3度死を決意した藤田東湖
- 天狗党の乱の遠因となった出来事
方法としては、『西尾幹二先生の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」(徳間書店)』を読み進めることに依っています。
- 作者:西尾 幹二
- 徳間書店
東湖の人となりを探る
1 三度の死を覚悟した藤田東湖
東湖は、幽谷の子であり後期水戸学を代表する、政治家にして詩人、そして思想家であるとともに行動家でありました
父、幽谷に負けず劣らずの秀才です。そして有言実行の人です。
東湖は、自分の人生で3度死を決して臨んだ出来事があったと「回天詩史」に記しています。
今回は、その3度の出来事に触れながら、東湖の人となりと天狗党の乱の遠因を探っていきます。「東湖が死を決意して臨んだ3つの出来事」
1 大津港事件
2 お世継ぎ問題
3 烈公包囲網
「大津港事件」
1824年のことです。英国船が突然常陸の国の大津海岸に現れました。ペリーの黒船の事件の約30年前であり、東湖がまだ10代後半のことでした。
この出来事に際し、父である幽谷は東湖に下記のように言います。
今回大津海岸に上陸せる夷狄(説明・外国人)に対しても、彼らを恐れてそのままこれを放還するごとき事があったならば(説明・もし上陸したイギリス人をそのまま帰すようなことがあったら)、我が神州日本は一日の安きをぬすんで外夷の侮りを受くることになる。(「藤田東湖の生涯と思想」より)
幽谷は、東湖に「おまえが大津に行って、イギリス人たちをやっつけてこい」と言います。
幽谷はさらに、
「当然おまえは死ぬだろう。藤田家は跡継ぎを失い家は滅ぶことになる。しかし、日本の一大事に、藤田家だけのことを考えるべきではない。」
と言うのです。
この父の言葉に対して、東湖は、
「謹んで父の命を奉じます。」
と言います。
つまり「死んできます」と言うわけです。
「大義滅親」という言葉があります。
「大義のためには親子の情をも顧みない」
水戸学は、思想だけでなく思想を実践するところに神髄があります。
しかしこの事件の顛末はあっけなく終わります。
幕府から派遣されてきた代官が取り調べをした結果、イギリス船は燃料や食料、水などの補給以外、何の目的もないということが明らかになりました。
単なる漂流船ということで再出港していったのです。
この事件は、拍子抜けする結果に終わりましたが、
大津港事件と幽谷の言葉は、東湖が攘夷の急先鋒として飛躍することになる一因になったことでしょう。
2 「お世継ぎ問題」
東湖が2度目に死を決意したのは、「お世継ぎ問題」の時でした。
第8代藩主徳川斉脩(なりのぶ)(哀公)が病で危篤の状態になりました。
哀公の婦人は、将軍 徳川家斉の娘でした。しかし、夫人との間に子が無かったのです。9代藩主を誰にするかという問題で、水戸藩は大きく揺れます。
佐幕派案
この問題に対して、立原翠軒の支流一派(佐幕派)は、榊原淡路守が策動していた、「家斉将軍の庶子である清水侯を、幕府にお願いして跡継ぎとする」という案を推しました。
この当時幕府は、もし各家に、嫡子(正妻が産んだ子)がいない場合は、将軍の庶子(側室の子)をその家の跡継ぎにする、という策を進めていました。
できるだけ多くの将軍家の血を引く藩主をつくり、幕府を支えるという策です。
また、各藩にとっても、将軍の庶子を藩主に迎えれば、財政面の援助などいろいろなメリットが考えられました。
当時の水戸藩は、財政面でかなり逼迫した状態にありました。現実を考えれば、次期藩主は、将軍の庶子からと考える、そういう人が大勢を占めるということも頷けます。
そこで、佐幕派の人々は将軍庶子跡継ぎ策を推したわけです。
藤田派案
勤王派の東湖たちは、佐幕派の案を受け入れられるはずはありません。
また、哀公の父、7代藩主の治紀には、4人の庶子がいました。
一人は、8代藩主になった哀公・斉脩です。
次の方は、高松侯として養子に出されていました。
また次の方は、宍戸侯を継いでいました。
ただ一人、水戸家に残されている庶子がいました。その方(敬三郎)が後の第9代斉昭です。
「敬三郎(斉昭)が、一人水戸に残されていていた」ということは、
次の将軍を継ぐように、7代治紀が準備していたということです。
東湖たちは、ここで「命がけ」の運動をします。
この「命をかけた」運動が功を奏したのか、哀公の遺言が見つかり、9代藩主は斉昭と決まりました。
3 「烈公包囲網」
人が人を呼ぶ、ということがあります。
9代藩主斉昭のもとに、藤田東湖や、会沢正志斎などの優れた人々が集まりました。
斉昭は、藤田東湖とともに、後期水戸学の推進役となったのです。
東湖が30歳の時、藩主斉昭の考えを、東湖が名文で記した「弘道館記」が起草されました。
このころ、東湖はトントン拍子で出世し禄も上がりました。
東湖に対する奸党の妬み
東湖の異例の出世に対して快く思わない一派もいました。
東湖に対する妬みから、斉昭に悪口を伝える人も出てきました。
翠軒の余流たる結城寅壽 (ゆうきとらかず・水戸藩の執政)一派は、東湖一派を「天狗」と称し(説明・鼻高々であるから「天狗になっている」と悪口をいった)、常に天狗退治に暗躍奔走したのであった。
これに対して東湖一派は彼らを「奸物(説明・卑怯な悪人)と罵り、天狗派と奸党との反目抗争は日を追って深刻化するにいたった。奸党から讒訴された東湖は、烈公が無実の讒を信ずるにおいては致し方なしとして、断然野に下ろうとしたが結局根も葉もない中傷的讒誣に動かされた烈公が、前非を悔い改めたので、(説明・奸党の悪口を信じた過ちを改め)、彼(説明・東湖)は再び忠勤するようになった。(「藤田東湖の生涯と思想」より)
周りの雑音に左右され、斉昭は一時東湖を遠ざけようとしました。しかし、根も葉もない嫌がらせであったことに気付いた斉昭が、「前非を悔い改めた」ので、東湖はまた斉昭に誠心誠意使えることになったのでした。
斉昭の失脚
このようにして、烈公と東湖は絆を強め、様々な改革に取組始めました。しかし、奸党佐幕派の人たちは、この流れが気に入りません。東湖の悪口を斉昭に告げ口した結城一党は、「斉昭が軍事に力を入れているのは倒幕の計画があるからだ」と今度は幕府に告げ口をしました。
尊皇である大日本史の編纂を進める水戸を、苦々しく思っていた幕府と、水戸藩の佐幕派や斉昭の改革で被害を被った仏教界の人たちがタッグを組んで、斉昭・東湖の尊皇一派の失脚を図ったのです。
このとき斉昭は、ちょうど水戸に帰っていましたが、幕府から呼び出しが来たので急遽江戸に帰ることになりました。
江戸に帰れば、厳しい罰が待っているはずです。
東湖はこのとき感冒にかかっていて食事も喉を通らないような状態でした。
しかし、主君の一大事です。自らの病状を無視し「死を覚悟して」斉昭に従って江戸に旅立ちました。
これが三度目の死の覚悟の時でした。
幕府はろくに弁明も聞かず、謀叛の疑いで斉昭を駒込の別邸に押し込めてしまいました。
当然東湖たちの一派も捕らえられ、職を免じられたうえで禁固刑に処せられました。
まんまと奸物一派の「天狗退治」が成功したわけです。
このときに書かれたのが、東湖の回天詩史でした。
本日のポイント!
- 斉昭の世継ぎ問題が、勤皇派と佐幕派が争う遠因
- 三度死を決意した 行動する思想家 藤田東湖
本日もありがとうございました。
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