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維新の源流としての水戸学NO4「前期水戸学とは、後期水戸学とは」

目次

はじめに

 社会科教師OBの尚爺と申します。

 「水戸学ってどんな学問」
 

 改めて水戸学について学び直しています。

 方法としては、下に掲載した西尾幹二先生の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」(徳間書店)を読み進めます。

 本日はそのナンバー4です。

GHQ焚書図書開封11: 維新の源流としての水戸学

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残り二つの 水戸学の三大特筆について

 水戸学には、三大特筆といわれる歴史解釈上の三つの難問がありました。

 №3では、水戸学が光圀のリーダーシップにより「南朝正統」を主張することになったことを学びました。

 今回は、残り二つの「神功皇后に関する問題」、「大友皇子に関する問題」について触れていきます。

前期水戸学は「紀伝」

 残り二つの水戸学の三大特筆について考える前に、前期水戸学での『大日本史編纂』方法について触れておきます。

 光圀が、『大日本史』の修史事業を始めたのは寛文12年(1672年)のことだといいます。そして前期水戸学の時期にまとめられたのは「本紀」と「列伝」でした。後期水戸学は何をまとめたかというと、「志」と「表」だそうです。

 これは私にとって大きな学びとなりました。

「前期水戸学とは何か、後期水戸学とは何か」というハテナの答えに一歩近付いた気がします。 

  • 大日本史には「紀伝志表」の四つの範疇がある。
  • 前期水戸学は「紀」と「伝」
  • 後期水戸学は「志」と「表」

 「記」は「本紀」のことを指し、「伝」は「列伝」のことを指しています。 

 では、「本紀」とは何で、「列伝」とは何でしょうか。

  • 「本紀」は天皇の歴史
  • 「列伝」は天皇の后や皇子たち、主だった貴族や将軍の伝記

 のことを指しています。

 

 つまり、

  • 前期水戸学は、人物中心の歴史とその解釈

 このように言うことが出来そうです。

 話を元に戻します。

 水戸学の三大特筆の 神功皇后に関する問題」大友皇子に関する問題」は、まさに、神功皇后や大友皇子を「本紀」に納めるべきか、「列伝」に納めるべきかという問題でした。

神功皇后に関する問題
神功皇后(想像)

 光圀のころは疑いなく、神功皇后は実在の人物とされていました。

 そして、光圀以前は神功皇后を「天皇」として認識していたようです。

 水戸学は(光圀は)この歴史認識に「否」をとなえました。

水戸学要義

 西尾氏は、この件について文学博士・深作安文の『水戸学要義』を引用しています。

大日本史には紀伝志表の四範疇があることは「第一水戸学とその変遷」の條下に述べた通りであります。重ねて言えば、紀は本紀であって天皇の御伝記を指しまつり、伝は列伝であって、皇后、皇子、皇女等の皇族を始め奉り、もろもろの分野における臣下の伝記であります。ご承知の如く、神功皇后は仲哀天皇の皇后であらせられ、九州の熊襲が叛しまするや(説明・クマソが反乱を起こすこと)、天皇には皇后をお連れ遊ばして熊襲征伐にお出ましになりました。所が畏れ多くも天皇には陣中で崩御したもうた(説明・亡くなられ)のであります。(説明・日本書紀に詳しく書かれています)ために皇后には武内宿禰を始め群臣と御協議をなされまして、天皇の喪(説明・死)を秘し、御柩を豊浦の宮に御移し申し、しかして熊襲が朝廷に叛しまつるのは海を隔てて新羅が後援をするからである。(説明・海の向こうの新羅が応援をしているから、クマソは反乱をおこすのだ、と)。丁度、(説明・今度はこの本が書かれた昭和十五年に話を移して)蒋介石政権が頑として抗日の態度を改めないのは、某某国(アメリカやイギリス)が密かにそれを援けているためであるようなものである。(『水戸学要義』より) 

 神功皇后がそのとき妊娠していたこと。妊娠の身でありながら、自ら海を渡り、新羅征伐をされたこと。新羅王は降伏し、毎年貢ぎ物を送る約束をしたこと。

 さらに、九州に凱旋した後、皇子である誉田別尊(ホムタワケノミコト)をお生みになり、この御子が応神天皇であることをさらに説明しています。

 水戸学が問題としてのは、この後です。

~皇后にはこの皇子を天皇の御位におつけ申さず、御自分で摂政となられ、しかも六十九年の長年月にわたって居られます。神功皇后のお果てになりました御年は百歳であります。すなわち皇后には女性の御身であらせられながら、輝かしい文武両勲を立てさせられたのであります。一国の皇后が妊娠中、外国を遠征して立派に成功し、凱旋後、七十年になんなんとする間、廟堂(説明・朝廷)に座して国政を見たという輝かしい事実は、我が神功皇后を除き奉っては、世界のいずれの国にも存しないようであります。寡聞(説明・無学)なる私は世界にこのような事例のあることを存じませぬ。女傑と申し上げますか、女丈夫と申し上げますか、神功皇后は実際、日本女性史の上では嶄禅(説明・高々と)傑出した御方であります。ために日本の歴史家の中には神功皇后を天皇と申し上げたものがあります。それは「扶桑略記」の著者(説明・比叡山の僧・皇円)であって、「六十九年己丑四月。天皇春秋百年崩。」と書いている。水戸に関係のある文献を申しますと、「常陸風土記」の著者はやはり、皇后を天皇と申し上げ「息長帯比売天皇(ながたらしひめのすめらみこと)」と期しております。山鹿素行(説明・江戸時代の儒学者、兵学者)もまたその名著「中朝事実」に「神功帝」と書いております。水鏡には「女帝はこの御時はじまりしなり」とあります。~ (『水戸学要義』より) 

  光圀以前の、神功皇后に対する捉えはこのようでした。神功皇后が女帝の始まりであると考える人もいたようです。

 この考えに対して光圀は、「そうではないのでは」と『問い』を発しました。

 光圀の歴史を見る視点は、「大義名分(中国儒学の合理主義)」です。

 光圀のこの問題に関する考え方について『水戸学要義』は次のように記しています。 

光圀公の御考は全然、これと違います。なるほど、皇后の文武両面の御勲功はまことに輝かしくおわすけれども、これに大義名分という価値判断の標尺を擬し奉れば、皇后の御態度は御よろしくないこととなるのであります。(説明・皇后が天皇のようにふるまわれたのはよろしくない、と)。皇后には仲哀天皇の九州御親征中、御妊娠遊ばしたによって、天皇の御胎中(説明・お腹のなか)の御子様はもはや天皇であらせられる。すなわち胎中天皇であらせられる(説明・おなかの中の子が次の天皇なのだ、と)。ところが皇后にはすこしもそのお考えがおありにならないで、新羅遠征から御凱旋後、誉田別尊(ホムタワケノミコト)が御降誕遊ばしても天皇の御位につけ奉らず(説明・息子をなかなか天皇にしないで)、そのうえ、御自分では一年二年ならば格別(説明・ともかく)、六十九年という長い間、摂政をなされたのである。これは御名儀は摂政であるが、実際、天皇にあらせられないで、天皇の御事を行いたもうたのであって、大義名分(説明・天皇に忠誠をつくすという道)の上からは断じて御よろしくないと申すのであります。(『水戸学要義より』

 このように考え、水戸学(光圀)は、神功皇后を天皇として扱う「本紀」ではなく、「列伝」に納めました。

 水戸学(光圀)以前の歴史の見方の大転換だったわけです。

大友皇子に関する問題

 続いて大友皇子に関する問題というのはどのような問題だったのでしょうか。

 大友皇子は、天智天皇のお子さんです。順当に行けば天智天皇の次の天皇となるはずの方でした。

 しかし、実際に天智天皇の後の天皇は、天智天皇の弟の天武天皇(大海人皇子)でした。天智天皇の弟の大海人皇子は大友皇子と皇位を争い天皇となられたわけです。

 お二人の争いが古代史最大の戦い、壬申の乱です。

 では、大友皇子に関する何が問題なのかというと、天智天皇が崩御されたのなら、同時に大友皇子が皇位を継承したはず、という点です。

 本来の「崩御、同時に、新天皇即位」であるなか、まずいことに天武天皇は、謀叛によって皇位を継承したことになってしまいます。

 これは大変によろしくない。あってはいけないことなので、水戸学(光圀)以前は、大友皇子は即位していなかった、という立場をとってきました。

 

 まあ当然です。さらに、古事記や日本書紀の作成を命じたのは天武天皇でしたので、そこに「天武天皇は謀反人だ」などと書くことが出来るはずがありません。

 この大問題に対して、水戸学(光圀)は、大友皇子は即位していたという立場をとったのです。

 すごい、としか言いようがありません。

 よく言い切ったなあ、こんなことを。

 世の中は、この主張を許したのか?

 光圀公は大丈夫だったのか、バッシングは受けなかったのか?

 そう思ってしまいます。

 よほどの覚悟がいったことでしょう。

 光圀自身は大丈夫だとしても、実際に書いた人はまかり間違えば命を失いますよねえ・・。

 それでも光圀は次のようにしたのです。

光圀公以前の歴史家には大友皇子の御即位を認めたものなく、天智天皇の次に天武天皇を据え奉って少しも怪しまなかったのであります。所が、慧眼なる公(説明・光圀)は「懐風藻」と「水鏡」という二書に依拠せられまして、新たに天皇大友という御名を大友皇子に捧げ、その御伝記を本紀に収められました。明治時代となり弘文天皇という諡(説明・「諡」は死語に贈られる称号。天皇に限って呼び名ではありません)を差し上げたのはこの御方(説明・大友皇子)でありますれば、かしこくも明治天皇に置かせられても公(説明・光圀)の論壇を御嘉納になったように恐察せられます(説明・明治天皇が皇子に「弘文天皇」という諡号を贈ったのは、光圀の判断を支持したからに違いない)。どうして公がかような御処置に出られたかというに、これが「事によって直書すれば観懲自ずからあらわる」(説明・事実を素直に見れば、本質が見えてくる)からであります。つまり、「懐風藻」と「水鏡」の叙述に基づいて事実をまっすぐに書きますと、天武天皇の御所行の真相が明白になるからであります。公は厳しく勧懲主義というメソッド(説明・方法)を用いられたのであります。ここで光圀公の史筆の鋭さがはっきり分かります。日本書紀の著者は、ここ(説明・壬申の乱と天武天皇の即位の経緯)を叙するに大部、骨を折っております。なぜかというと、この書(説明・『日本書紀』の編纂を統括せられた御方は舎人親王であって、天武天皇の御子様であります。すなわち親王は指摘には天皇の御子様であり、公的には天皇の臣下であります。ですから、天皇の御所行の真相を麗々(説明・「麗々」という言葉のここでの意味は「ハッキリと」です)書くことは到底出来ませぬで、大友皇子の即位を認めまつらないのであります。(『水戸学要義より』)

 このようにして、今までの歴史の見方を水戸学(光圀)はひっくり返しました。

 光圀の強いリーダーシップで「大友皇子は即位していた」という解釈を示したのです。

 

 今上天皇は第126代の天皇です。

 つまり、令和の世の今上天皇までに126人の天皇がおいでになったということです。

 そして、大友皇子は第39代弘文天皇として、その126人の中に位置付いておられます。

皇位継承図 (不合格教科書より)

  

 このようにして水戸学(光圀の前期水戸学)は、「神功皇后問題」「大友皇子問題」「南朝正統論問題」という三つの難問(三大特筆)を解決しました。 

 

 前期水戸学は、「個人」をどう解釈するかにか焦点があたっています。

「南北朝問題」も、突き詰めると個人として誰が正当か(三種の神器をもっていたのは誰か)に行き着きます。

 つまり、

  • 前期水戸学は、大義名分(尊皇などに代表される儒教思想)という観点から、人物(個人)の業績を再評価することに重きを置いた。

 と、捉えなおしました。

 では後期水戸学が対象とした「志」、「表」とは何なのでしょうか。

 この点については、次回とします。

終わりに

 今回は、引用部分がだいぶ多くなりましたが、おかげで

 前期水戸学と後期水戸学の違いが以前より明確に見えてきた気がします。

次回以降

 「後期水戸学とは」

 「なぜ天狗諸生の争いが起こったのか」

 などのハテナを考え学んでいく予定です。

 

 ありがとうございました。

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