4月から始まった、NHKの朝ドラ「らんまん」を楽しく見ている。今回の朝ドラは「植物学者牧野富太郎先生を扱っている」牧野先生は、土佐の造り酒屋に生まれた。幼いときに父親・母親・そして祖父を亡くし、には血はつながっていない祖母に育てられた。祖母は、富太郎を造り酒屋の跡取りとして、愛情深く育てた。だが、相当なボンボンだったようで、長じてからは、家の財政を顧みずに研究に没頭する。その金策に走り回り、生涯富太郎を支えたのが、妻「壽衛(すえ・壽衛子)」さんだった。
このことは、間違いない事実。
だが、牧野先生には、もう一人妻がいた。「猶(なお)」さんと言った。猶さんは、牧野先生が上京した後も、妻として土佐の造り酒屋で当主の仕事をした。そして、壽衛さんにも、相当のお金を送金していたという。
だが、牧野先生の送金も一因となり、酒屋は潰れてしまう。牧野先生のおばあさまも亡くなり、猶さんは、牧野先生との離婚を決意した。そして、酒屋の番頭をしていた「和之助」と結婚をする。
さて、NHKは、このあたりをどう描くのか。
4月11日の朝ドラでは、おばあさまが、富太郎のお姉さんに
「綾、富太郎のことを支えてくれるかい。」
と訊くシーンがあった。それに対して、姉の綾は、
「当たり前です。私は富太郎のたった一人の姉ですきに。」
と答えた。
もしかすると、綾は「猶」さんで、富太郎を支える忠義ものの男の子、劇中の武雄は、「和之助」なのかもしれない。
今後描かれていくだろう壽衛子と牧野先生の生活も気になるが、「猶」と「和之助」を知る人は、綾と武雄にも心を引かれるだろう。
この二人の物語を知りたい方には、「ボタニカ」がお勧めだ。
世界的植物学者牧野富太郎を支え続けた糟糠の妻【壽衛】
朝のテレビ小説「らんまん」は、明治天皇が、「国の宝」と称した牧野富太郎先生を主人公としている。
牧野先生は、超一流の学者さんだがお金には相当にルーズだった。家族を顧みずに、高価な本を次から次と買い求めてしまう。
借金がつもりに積もり、借金取りが家に押し寄せる。しかし、そんなことは意に介せず研究に没頭していた。
では、借金取りの相手は誰がしたか。
そう、先生がこよなく愛した妻、壽衛(すえ)さんだった。
🔶先生の妻への愛 スエコザサ
牧野先生の自伝によると、27、28歳のころに壽衛さんと結婚している。壽衛さんは、先生の11歳下だと言う。ずいぶん若い奥さんだった。
晩年に先生が過ごされた、東京練馬の住居には笹が生い茂る一角があった。現在先生の住居跡は、「牧野記念庭園」となっており、笹の生い茂る一角がある。その笹は先生が見つけた新種であり、先生によって「スエコザサ」と名付けられた。
先生の妻への思いが、笹に愛妻の名を付けさせた。現在、その笹の生い茂るあたりには石碑が建っている。
「家守りし妻の恵みや我が学び」
「世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」
という句が彫られている。
先生が、このような句をほったのもうなずける。
壽衛さんは、家庭を守り、研究に没頭する先生に本当に良く尽くした。「牧野富太郎と壽衛 その言葉と人生」に出てくるエピソードを見ると、「よくここまでやるな」と思ってしまう。
失礼ながら、天才はやはり我々凡人の想像を超えている。
「壽衛さんよく耐えた。」と思う場面も多々ある。
壽衛さんの、したたかさを兼ね備えた内助の効なくして、天才牧野富太郎の研究成果はこの世になかっただろう。
牧野富太郎の妻 壽衛
壽衛さんの父は、元彦根藩士。明治政府による廃藩後は、陸軍に勤めたが若くして亡くなる。飯田橋に広大な敷地を持っていたが、屋敷も財産もなくなってしまう。
しかし、壽衛のお母さんも頑張り屋さんで、女手一つで菓子屋を営み壽衛たち子供らを育て上げた。
そんな折、富太郎先生は東京大学に通うために上京してきていた。大学に通う道すがら、時々菓子屋の手伝いをしていた壽さんを見そめてしまう。
二人は、明治21年(1888年)、明治維新の20年後に結婚し、東京根岸に所帯をもった。
🔶うちには、道楽息子が もう一人いる
富太郎先生と壽衛さんの子は、6人が成人した。
壽衛さんは、実は13人も子を産んでいる。昔のことなので、そのうちの半分以上は成人まで育っていない。
子だからに恵まれた牧野家出会ったが、壽衛さんは、常々周りの人に
「家には、もうひとり道楽息子がいるようなもんです。」
と、言っていた。
家賃が払えずに、家主から借家を追い出されること数度。
そういう生活にもかかわらず、研究のために高価な蔵書を惜しげもなく購入し、家の中は本だらけ標本まみれになっていた。
天才ではあるが、世間知らずの牧野博士は、まさに道楽息子のようだったが、壽衛さんは、富太郎先生に献身的な愛情を注ぎ続け、
「富太郎さんには、好きなことをさせてあげたい。」
と、言い続けていたという。
🔶富太郎に心配をかけさせない 壽衛の心意気
富太郎先生は、本当に壽衛さんを愛していて、壽衛さんとの外出を好んだ。「粹でおしゃれな壽衛さん」を、人に見せるのが自慢だったのだ。
だが、牧野家は貧乏だった。壽衛さんは、外出するときにふさわしい着物が無い。そこで壽衛さんは、知り合いから外出時だけ着物を借りて、それを着て富太郎先生と一緒に出かけたという。
先生は、壽衛さんに着物がないことなど知らない。自分のかたわらでニコニコとする壽衛さんを見て満足している。
貧乏生活で、自分は欲しいものも買わず、かといって文句も言わず、富太郎にはその苦労を感じさせないよう振る舞う。
さらに、壽衛さんは子どもたちにも、きちっと言い聞かせていた。
「お父さんは植物の研究のためにお金を使っているので、うちは貧乏だけどもあなたたちは恥じることはないよ。」
と。
これらのエピソードを語り、『牧野富太郎と壽衛 その言葉と人生』の著者は、
牧野富太郎の生涯を支えられる妻は、世界中のどこを探しても壽衛以外にはいない。植物学の神様も粋な計らいをしたものである。
と述べる。
良い言葉だ。
だが、『ボタニカ』を読んだことのある人は、「ムムム」と思うだろう。
牧野富太郎の記録から消された『もう一人の妻』
壽衛と結婚したとき、富太郎には土佐にすでに妻がいた。
だがこのことは「隠された事実」として、富太郎自身は外部に一切口外していない
もう一人の妻とは、「猶(なお)」さんのことだ。
牧野猶さんは、富太郎の従妹(いとこ)で富太郎の3歳年下だった。
高知県立女子師範を卒業した才女だった。祖母の浪子は、家業の安泰を図り才女の猶と富太郎の結婚を早い時期から画策していたようだ。
つまり、富太郎の気持ちを無視して、浪子は猶との結婚話をすすめてしまった。
「猶とは数年で離婚した」とか、「猶との婚姻は表面上、形式的なものだった」とか言う人もいる。だが、実際に実家の酒屋の内儀として店の経営に当たっている。
富太郎が、壽衛さんと結婚したのは、祖母浪子さんが無くなった2年後だった。当主の富太郎がいないまま、実家の酒屋は、内儀の猶さんの差配で運営されていた。
富太郎は、旅費や書籍の出版のための費用が必要になると実家に金の無心をしている。その金を工面したのは、猶さんだった。
このあたりは、牧野富太郎先生と猶さんをあつかった小説「草を褥に 小説牧野富太郎 (河出文庫 お 44-1)」に詳しい。
この小説には、送金を巡る壽衛さんと猶さんの手紙が引用されている。
富太郎にしたら猶は妹みたいな存在だった。夫婦らしい関係もなかったという。だが、夫の富太郎に代わって家業を切り盛りしたのは猶さんだ。さらに、病に伏した浪子を献身的に看病したのも、看取ったのも、葬儀を仕切ったのも猶だった。
🔶子が出来た
あるとき富太郎が、土佐に一時戻ってきた。
「実は、子ができた」
富太郎は、猶にそう報告した。猶は、
「おめでとうござります」
と言って、手をついたのだ。
「帯祝いの儀はいつですろうか。」
「腹帯は、牧野家よりの御祝いとしてお贈りします。」
見上げた賢妻。涙が出るほど・・・。
🔶朝ドラに 猶さんはいない?
おそらく、朝ドラは富太郎と壽衛さんの恋物語を中心に描くのだろうから、猶さんを登場させのは都合が悪い。
また、富太郎先生ご自身が、猶さんのことをひた隠しにしたのだから、それを描いてしまうのも都合が悪い。
おそらく、劇中で姉として描かれている綾さんは、猶さんをモデルとしていると思える。そして、富太郎先生に献身的に仕える武雄は、猶さんと後に結婚する和之助さんなのではないだろうか。
できれば劇中では、綾さんと武雄が幸せになってくれるといいのだが。
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