山入氏の乱 勃発
山入氏の乱の発端は、13代義盛が嫡子の無いまま没したことに端を発します。跡継ぎとして、本家は関東管領山内上杉家から養嗣子を迎える案、対して山入佐竹氏などは佐竹一族(つまり山入氏)から跡取りを出すべきという案でした。
結果的には、上杉から迎えた義憲が佐竹14代となります。応永14年(1407)のことでした。
ここから、約100年間続く佐竹本家と山入佐竹氏と騒乱が始まります。
佐竹14代の相続争いの後に起きた、上杉禅秀の乱では、幕府側に山入佐竹家、鎌倉府側に佐竹本家が付きます。
南関東の騒乱に乗じる山入佐竹義知
上杉禅秀の乱の約20年後の永享10年(1438)から11年にかけ、永享の乱が起きます。この乱により、第6代将軍義教は、鎌倉府(4代持氏)を滅ぼしました。
永享の乱からさらに約20年後の、享徳3年(1454)に享徳の乱が起こります。享徳の乱は、約28年もの長い年月続き、戦いの質も変容しますが、この乱をごく荒く言えば、再興された鎌倉公方(のち古河公方)と管領家の争いといえます。
享徳の乱の南関東の騒乱に乗じる山入佐竹の義知
享徳の乱の最中、公方成氏が堀越公方政知を攻めた文明3年(1471)、公方は南関東の戦で身動きが取れないと見た山入佐竹の義知は、すかさず若い義俊が守る佐竹本家の太田城に攻めかかりました。
政知を攻めた公方成氏でしたが、山内上杉の家宰長尾景信に返り討ちにされ敗れてしまいます。
この頃は、義俊の時代(上杉から入った義憲の後を継いで、佐竹15代となる)でしたが、義俊率いる佐竹本家は敗れた公方成氏を頼れません。そこで佐竹本家は、白河結城氏に援軍を求めました。白河は、山入氏所領の背後に位置するので、今度は山入義知が動けなくなってしまいました。こうして義俊は、難を逃れてましたが、白河結城家には自領の一部を差し出さなければなりませんでした。
そんな中、文明10年(1478)11月、義俊が亡くなってしまいます。南関東では、公方成氏と管領家の和睦がなり、管領家軍の主力で犬懸上杉の家宰、太田道灌が、甥ではあるものの敵対する長尾景春と戦っているさなかでした。
山入義知 再度動く
義俊の死で、佐竹本家は若い義治が16代目を嗣ぎます。それを見た山入義知は、また兵を動かします。
義治は、父義俊と同じように北に援軍を求めました。今回は、岩城常隆に援軍を頼み、義知軍を追い払います。
しかし、岩城氏との同盟は裏目に出て、かえって岩城氏が佐竹領に攻め入るという結果を招いてしまいました。
都鄙合体(とひ合体・将軍義政と公方成氏の和睦・1482年)の数年後の文明17年(1485)のことでした。
佐竹氏を脅かす岩城氏
この後、岩城常隆は、さらに常陸佐竹を攻め、車城(北茨城市)、菅股城(磯原町)、竜小山城(高萩市)、山直城(十王町)、大窪城(日立市)、相賀館(日立市)、金沢館(日立市)などを次々と破り、ついには石名坂を越えて佐竹家の太田城に迫る勢いでした。
義治のとった打開策とは
この岩城氏の危機に際し、義治は、嫡男義舜と岩城常隆の妹との婚姻、さらに車城・菅股城・竜子山城を岩城氏に譲るという妥協案で乗り切ります。
しかし、延徳2年(1490)年、義治が亡くなります。後を継いだのは、義舜(よしきよ)ですが、この期を逃さずまた山入氏が動きます。ただし、山入氏も代替わりし、義知から子の義藤の代となっていました。
山入義藤が太田城に入場
山入義藤は一族と共に太田城の義舜を攻め、義舜は母の実家である大山城(旧桂村・現城里町)に逃げました。
応永14年(1407)から約80年佐竹宗家と争ってきた山入義藤は、ついに太田城を奪い入城しました。延徳2年(1490)のことでした。
明応の和議
山入義藤が太田城に入って2年後の明応元年(1492)、義藤が病死してしまいます。義藤の死をきっかけとして、佐竹宗家と山入佐竹氏の間に和議の動きが出てきます。
和議の仲介をしたのは、岩城氏(岩城常隆の父親隆)でした。
山入氏の動向に影響を与えた南関東並の出来事
この頃、南関東でも大きな動きがありました。
延徳3年(1491)、伊豆の堀越公方政知が亡くなり、後を遺児の茶々丸が嗣ぎます。しかし、2年後の明応2年(1493)、駿河の興国寺城主伊勢宗瑞(北条早雲)が茶々丸を殺し、伊豆を奪い取るという大事件が勃発たのです。
京都の出来事
同年(1493年)、京都では、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の息子の細川政元がクーデターを起こし(明応の政変)10大将軍足利義稙(よしき)を廃し、11代義澄を立てました。
岩城親隆 の暗躍
岩城親隆は佐竹宗家のために、山入佐竹に組みする佐竹宿老の江戸通雅と小野崎親通に切り崩し交渉を仕掛けます。
江戸氏には、岩城との縁組みを申し入れました。江戸氏は、名門岩城氏と婚姻できれば、家格を挙げることが出来ます。この婚姻を餌に、親隆は「山入氏と手を切り、義舜を太田城に帰城させることへの協力」を迫ったのです。
小野崎氏に対しても、何らかの見返りを示し、山入氏側からの切り崩しを図ったようです。
山入一族滅亡
江戸氏と小野崎氏が山入氏義(義藤の子)から離れた後の明応9年(1500)、氏義は、大山城の義舜を攻めました。義舜は、さらに西金砂山城に逃げます。
その2年後の文亀2年(1502)に、氏義は西金砂山城を攻め義舜を追い詰めます。義舜は防戦しましたが、自害を考えるほどの苦戦でした。
戦いのさなかに激しい風雨落雷が起こります。すると崖下に陣取っていた氏義軍に混乱が見られました。この期を逃さず義舜は氏義軍に切り込み、一気に形勢を逆転し勝利を収めたのでした。
この勝利を境に、佐竹宗家の義舜は態勢を立て直し、永正元年(1504)、山入氏義から太田城の奪還に成功します。
義舜は、延徳2年(1490)年に城を奪われてから、実に14年ぶりに太田城への帰城を果たしました。
氏義は、一族とともに逃亡を図りますが捉えられ、嫡子義盛と共に着られてしまいます。これにより山入一族は滅亡し、約100年続いた山入一族の乱は終結しました。
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