黒田重隆
黒田重隆(しげたか)は黒田官兵衛(如水)の祖父である。重隆は家勢が傾いた黒田家を立て直した。農家に間借りするほど落ちぶれた黒田家を、目薬屋として財を成し、その財をもとに小寺政職に仕えるまでに家を立て直した人物。
黒田家の血筋
血筋については近江源氏の分家で、代々江州(ごうしゅう・現在の滋賀県)伊香郡に住んでいた。しかし、将軍足利義稙(よしたね)との対立から江州を逃れ播州に移ってきた。
黒田家が播州に移ったことにより、家勢は著しく衰え、土地の百姓の家に間借りをするような有様だった。重隆は、農家暮らしの中で土地の百姓たちと関わりを持つ。そのうちに親しくかかわる農民の知人もでき、黒田家に野菜を届けてくれるようになる。そこで重隆は有ることに気付く。農民たちの中に目を患っている者が多い。土仕事をしながらどうしても不潔になることが原因である。
そこで重隆は、黒田家に代々伝わる「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬を作って農民たちに安く売り出す。この目薬が評判を呼び、地元だけでなく近郷近在からも注文が来るようになった。
重隆はその売り上げから、生活に困っている農民にタダ同然の利子でお金を貸す。自分の利だけでなく、他にも親身となるその人となりに感服し、一人また一人と重隆の周りに有能な人材が集まり出す。
いつの間にか、周りの広大な田畑を持つ大地主となっていく。 郎党の数も年ごとに増え、 ついには200人近くを抱えるまでに家は大きくなっていた。
重隆は、やがて播州(現在の兵庫県)の豪族・小寺政職(まさもと)に仕えるようになる。そして、孫の代、ひ孫の代に黒田家は大大名に成長していく。
『逆境に負けない者だけが育つ』
『一時のプライドにとらわれることなく、耐えしのいだ者だけが、未来の成功をつかみ取る』
逆境にめげず、武士としてのプライドにとらわれず、目薬屋に徹し、目先の利にとらわれず、周りにも利するような振る舞いが、未来の成功を生んだ。
それが、黒田家中興の祖、黒田重隆であった。
黒田官兵衛(孝高・如水)
黒田官兵衛が播州(現在の兵庫県)の豪族である小寺政職に仕えている時のこと。
小寺家は、西播磨一円を支配する、地方の一豪族に過ぎない。この時代小寺家ぐらいの小豪族が生き抜いていくためにはどこか大きな勢力に帰属し、その庇護を受けなくてはならなかった。
あるとき主君の政職が重臣たちを集めて意見を求めた。
「今天下を見渡すと極めて勢力の強いところが三家ある。新興勢力の小田と、中国の毛利と、四国の三好だ。いずれはこの三家のうちの一つが天下を制すると思う。どこでじゃ、わが小寺家が存続するために、どの家につくのが得策であろうか。それぞれの意見を述べよ。」
重臣の多くは、山陰山陽に十か国を領している毛利家を押す。しかし、官兵衛一人異論を唱える。
確かに毛利家は十か国を領し、吉川、小早川という優れた家が傘下にあります。しかし、現当主の輝元殿には元就殿ような器量はありません。つまり、毛利に将来性はありません。三好家も11か国の管領とは言いますが、その勢いはすでに過去のものです。織田家は当主の信長が尾張半国の領主から身を起こして、美濃、近江、山城を短期間に制圧しました。今や向かうところ敵なしです。この実績に加え、これからも伸びようとする激しい勢いを持っております。私が見るところ、これから天下を握るのは、小田の信長をおいてないでしょう。
官兵衛は政職をはじめ重臣たちを説得して、自ら岐阜まで行って信長に対面する。
信長は官兵衛の人となりを見抜いて、愛刀「押切」を与えてその労をねぎらう。
この両者の対面は、歴史に残る。優れた人物同士の対面は、見かけの静寂さと裏腹に、内面の火花を散らしたことだろう。
乱世にあっては、目先の利害が優先して物事の本質の判断を見誤りがちである。しかし官兵衛は、常に冷静に天下を見極め情勢を正確に予見する能力を持っていた。
乱世にこそ、官兵衛のような「目先の利害にとらわれず」、「冷静な判断力を持ち」、「決断」・「実行」できる人物が必要となる。
黒田長政
黒田長政は1568年に生まれ1823年に没している。安土桃山時代から江戸の初期にかけて生きた武将である。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その戦功により筑前現在の福岡県に一国を与えられ大大名となった人物だ。
父親はあの黒田官兵衛(如水)。
長政は若い時から家臣たちの言うことによく耳を傾けた。それも藩主の方から機会を積極的に設けて、現在家臣が抱えている問題や、物事の考え方、政治のあり方などについての意見を求めた。
長政が意見を聞く会は、城内にある釈迦のまというところで行われた。釈迦のまという名前は部屋にお釈迦様の掛け軸があったから。そして議論をする場所としてその部屋が用いられたのは、藩主も家臣もお釈迦様の前では平等だという意味で有った。
この会に参加するものは、次のことを守るように決められていた。
一つ、何を言われても、お互いに腹を立ててはいけない。
二つ、反対の意見を言われたり批判されても、それを恨みに思ってはならない。
三つ、その場で出た話について、それを外部の人に話してはならない。
この会のことを、人々は「腹立てずの会」と呼んだ。
上に立つ者は、お世辞とわかっていても、自分に耳障りの良いことを歓迎するものだが、トップの耳が痛いことでも、どんどん言わせたところは、なかなか真似ができない。
しかも、その場の発言はその場限りのものとして、あとあとの仕事や生活とは切り離すところが「腹立てずの会」のポイントになっている。無礼講と言いながら、その場での発言を根に持つようでは逆効果となる。
黒田長政の「聞く力」
自由にものが言える場を差来るのは、リーダーとしてとても大切だ。長政の「聞く力」も評価されるべきだ。しかし、「聞く力」は、家臣に丸投げをするということとイコールではない。
黒田家が代々行ってきたことは、「自分の利だけにとらわれる、周りの利をも考えながら」「逆境の時でも」「きちっと決断する」力をもつことだ。
「聞く力」とは、黒田家四代で培ってきたように、最終的には「決断」「実行」が伴う。
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