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「日本」が「日本」という国号になったのは いつからか

国旗
目次

「倭」も「日本」も訓読みでは「やまと」

 「日本」は、かつて「倭」と表記した。「倭」でも「日本」でも読みは「やまと」だった。では、「やまと」を「倭」から「日本」と表記するようになったのはいつか。

国号「日本」、始用時期に関する6つの説

「日本」国号始用説を大別すると、6つの説がある。

① 推古朝説(601~607年ごろ)  ② 孝徳朝説(大化の改新・645年ごろ)  
③ 斉明朝説(659年ごろ)     ④ 天智朝説(670年ごろ)
⑤ 7世紀後半説(670年~702年の間)
⑥ 8世紀初頭説 
  ア)文武朝説(702年ごろ)
  イ)元明朝説(712~720年ごろ)

① 第33代 推古朝説(601~607年小野妹子の遣隋使のころ説)

ウィキペディア:推古天皇

 推古朝説は、「隋」に送った手紙「日出処天子」や『日本書紀』の「東天皇」などの国書の文章を論拠にする。推古天皇と摂政聖徳太子の時代である。
 この説は平安朝からいわれているもっとも古い説

 この論を主張する学者の一人梅原猛氏は、国号「日本」表記も、天皇号も推古9年(601)からだとする。
 主張の根拠として、
 

 日本建国(神武天皇即位・紀元前660年)の年が辛酉の年であり、推古9年(601年)も辛酉の年に当たる。辛酉の年は革命の年とされるから、国号も「倭」から「日本」へあらためたのだろう。

 と言っている。
 ただし、梅原氏は、「やまと」を「倭」から「日本」に改めた推古9年(601年)は、あくまで国内向けだったとしている。中国など対外的には、もっと後の持統天皇(688年?~696年)ごろだと言う。

 同じ推古朝説でも、学者によって若干時期がずれる。
 例えば、明治期の帝国大学(東京大学)教授の星野恒(ひさし)氏は、推古天皇の15年(607年)に小野妹子が大和朝廷から隋に派遣された最初の正使なので、それ以前の「日出処」「東」では、国号とならないと判断。小野妹子の遣隋使で初めて「日本」と主張したとする。
 この説だと、「日本」始用は、推古15年(607年)となる。

「日出処」や「東」が「日本」表記のもととなったという捉え方

 多少の年月のずれがあるとしても、推古朝で「日本」表記が始まったとする説は、本当に古い時代から言われてきた。

鎌倉末期の学者「卜部兼方(うらべのかねかた)」の『釈日本紀』

 卜部兼方が著した「釈日本紀」は、現時点で最も古い「日本書紀」の注釈書だと言われる。この中に「公望私記」という矢田部公望(やたべのきんもち)が平安時代(承平6年・936年)に朝廷で行った『日本書紀の講義録』の引用が載っている。
 そこで、矢田部公望は「日出処天子」「東天皇」とは「日本の天子」「日本の天皇」の意味だと述べている。

 また、江戸期の新井白石も、推古15年の小野妹子の派遣時の国書にある「日出処」が「日本」国号の起源だと述べている。

推古朝での「日本」国号始用説への反論 

 推古朝説に対する反論として、

・「日出処」や「東」の意味が「日本」であっても、表記が異なるのでは、国号が「日本」となったという論拠にならない。
・「隋」の書物には、推古15年の小野妹子たち国使について『倭国』とあり、「日本」となっていない。
・「日本」が国号になっていたなら、隋への国書にわざわざ「日出処」の天子とは、書かない。「日本」と書くはず。

 などがある。

この説を主張する主な学者

・矢田部公望・卜部兼方・新井白石・村瀬栲亭・津阪東陽・星野恆・(梅原猛)

② 第36代 孝徳朝説(645年大化の改新のころ説)

ウィキペディア:孝徳天皇

 この説を取る学者として、江戸期の国学者本居宣長を挙げることができる。
 本居宣長は、水戸光圀の前期水戸学から、斉昭のころの後期水戸学への変革にも多大な影響を与えた。それまで、学問と言えば中国の知識の吸収であった。そのような日本人の考え方に一大変革を起こした。
 例えば、中期水戸学期の藤田幽谷などは、本居宣長ら国学者によって、『中国ではなく、日本はどうあるべきなのか』に視点をあれるべきだという問題意識を醸成された。

 この宣長は、新井白石などの推古朝説を認めず、乙巳の変(いっしのへん)後の、大化の改新の時に「倭」から「日本」に国号が変わったという説をとる。時期的には、大化元年(645年)とか大化2年(646年)あたりと考えた。

 根拠としてあげるのは、

 大化元年(645年)の7月10日の条に高麗使への詔として「明神御宇日本天皇」という言葉を使っていること。
 また、翌大化2年(646年)2月15日の条では、右大臣蘇我倉山田石川麻呂への詔として「明神御宇日本倭根子天皇」という言葉をつかっていること、

 とする。
 この説が現時点では、有力説だと思われる。

この説を主張する主な学者

 本居宣長・飯田武郷・木村正辞・内田銀蔵・(橋本増吉・岩井大慧)・坂本太郎・森克巳・高橋富雄

孝徳朝での「日本」国号始用説への反論 

 孝徳朝説に対する反論として、

明神御宇日本天皇」(あきつみかみあめのしたしらす日本天皇)の「御宇(あめのしたしらす)」は、宇内(天地四方の内・天下)をするの意。
 この用法は大宝元年(701)に制定された大宝令によってはじめて使用。それ以前は「治二天一下」と表記された。よって、645年に「明神御宇日本天皇」という表記があるのは、何らかの手が入っていると考えられ、証拠として信用できない。

③ 第37代 斉明朝説(伊吉連博徳が遣隋使となった659年のころ説)

ウィキペディア:斉明天皇

 斉明天皇は、孝徳天皇の崩御後、日本で初めて重祚(じゅうそ)された天皇。乙巳の変が起きたときの第35代皇極(こうぎょく)天皇が、重祚して第37代の斉明天皇となられた。

 斉明朝説の根拠として、

伊吉連博徳書に載る「唐の皇帝が、『日本国天皇』と言った」という記事

 が挙げられる。

 伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)とは、斉明天皇の時代に遣唐使(659年)となった人物。この博徳が書いた「伊吉連博徳(の)書」という遣唐使としての紀行文中に、「唐の皇帝が『日本国天皇』と言った」という記事が載っている。この記事が斉明朝説の根拠。

斉明朝での「日本」国号始用説への反論

『伊吉連博徳書』には、「唐の皇帝が、『日本国天皇』と言ったとされる記述の他、2か所「大倭」と「倭客」と言ったとされる記述がある。唐の皇帝が「日本」を認めるなら、他の2か所も「日本」と表記されるはず。

 と反論される。
 この伊吉連博徳は、のちに『日本書紀』編纂のための史料として、本人か「日本書紀」の編纂者が、伊吉連博徳書に手を加えて、「倭」の記述を「日本国天皇」としたのではないか、と推論されるので、博徳書を斉明朝説の根拠とはできないとする。

 斉明朝説を主張する学者

 岩橋小彌太

④ 第38代 天智朝説(河内鯨が遣唐使となった670年のころ説)

ウィキペディア:天智天皇(中大兄皇子)

 天智9年(670年)、我が国最初の戸籍「庚午年籍」が制定された。このころに「日本」国号始用の起源があるとする説。

 北畠親房が著した『神皇正統記』に次のようにある。

唐書に高宗咸亨年中に倭国の使、始めて改めて日本と号す」と書くのは、「新唐書」「日本伝」に、「咸亨元年、使を遣わし、高麗を平らげたるを賀す。やや夏音を習い、倭の名を悪み、更めて日本と号す

神皇正統記より

 『新唐書』という本に、日本から遣唐使が「咸亨(かんこう)元年、わが国の天智天皇9年(670年)」に派遣されたと書いてあると、北畠親房『神皇正統記』の中で述べる。
 これを根拠として、天智9年(670年)から「やまと」は「倭」から「日本」になったとする。

 なぜ、「倭」から「日本」に改めたかというと、『倭の名を悪み、更めて日本と号す』とあるように、『倭』という字の持つ意味を「やまと」の人々が知ったからだという。

 『倭』という字には『ちんちくりんのちび』というような意味がある。それを知り、『倭』を用いるのは良くないとして、『日本』という国号にした。

天智朝での「日本」国号始用説への反論

やや夏音を習い

 代表的な反論として『後 やや夏音 を習い』を根拠とするものが挙げられる。

 『後』と書いてあるのだから、咸享元年・天智9年(670年)の後に、「倭」を「日本」に改めたのであって、670年に改めたわけではない。

 という主張だ。

天智朝説の主な学者

 北畠親房・石母田正・江上波夫・岡田英弘・市村其三郎・山尾幸久

⑤ 7世紀後半説(670年~702年の間説)

ウィキペディア:天武天皇
ウィキペディア:持統天皇

  この説は、天智9年(670年)説の反論、『後やや夏音を習い』を根拠とする。
 再度記述する。

『新唐書』という本に、日本から遣唐使が「咸亨(かんこう)元年、わが国の天智天皇9年(670年)」に派遣されたと書いてあると、北畠親房が『神皇正統記』の中で述べる。
 これを根拠として、天智9年(670年)から「やまと」は「倭」から「日本」になったとする。

 また、先に示したとおり、

明神御宇日本天皇」(あきつみかみあめのしたしらす日本天皇)の「御宇(あめのしたしらす)」は、宇内(天地四方の内・天下)をするの意。
 この用法は大宝元年(701)に制定された大宝令によってはじめて使用。

 とあり、大宝元年(701年)には、国号『日本』が使われていたとする論者もいる。

 ただし、日本の記録として『日本書紀』の中には天智天皇の8年(669年)に、河内鯨が遣唐使として唐へ行った記録がある。多少時期がずれるが、おそらく天智8年河内鯨の遣唐使が、新唐書にある咸享元年(670年)の遣唐使のことであろう。

 この河内鯨の遣唐使からみて『後』であるなら、次の遣唐使は、大宝2年(702年)の粟田真人の遣唐使となる。

 実際に、702年の粟田真人の遣唐使では、『日本国号』が使われていることを唐が認めている。
 よって、河内鯨の遣唐使から粟田真人の遣唐使の間のどこかの時期に『日本』が使われ始めたというわけだ。
 これが、670年~702年の間のどこかで『日本』国号が使われ始めたという『7世紀後半始用説』だ。

 おそらく、この説が現時点では通説だと思われる。

7世紀後半での「日本」国号始用説への反論 

 702年の粟田真人の遣唐使以前に、『倭』は国号を『日本』に改めると、唐に知らせていたらしい。
 しかし、「唐」はそれを認めず、粟田真人の遣唐使から正式に「日本国」を認めたと新旧の「唐書」にある。

 国号は、対外用であるので唐が認めなければ、国号は変更できない、

 ということらしい。

七世紀後半説を主張する主な学者

 上田正昭・田村圓澄

⑥ 8世紀初頭始用説

ア)第42代 文武朝粟田真人の遣唐使ごろ説(大宝2年・702年ごろ)

ウィキペディア:文武天皇

 この説は、文武天皇の大宝2年(702年)粟田真人の遣唐使は「日本」国号を使用し、それ以後はすべて『日本』国号であるから、702年か、その数年前が始用時期だとする説。 

 ちなみに文武朝は、西暦で697年から707年にあたる。

 この説の根拠は、

粟田真人の遣唐使は、中国側の記録でも「日本国号」が使われている。

 から。

イ)第43代 元明女帝の和銅5年(712年)~養老4年(720年)の間説(古事記・日本書紀編纂の間説)

 『古事記』と『日本書紀』の書名に視点を当て、国号を捉える説がある。
 『古事記』の成立は和銅5年(712年)。『古事記』には、「日本」という国号はない。

 そこで、幕末の学者椿仲輔(つばきなかすけ)は、和銅6年(713年)に、郡郷の名に好字をつけたときに、良くない意味を持つ『倭』を『日本』号に改めたとしている。

8世紀前半での「日本」国号始用説への反論  

 この説への反論は、先ほどの7世紀後半説の反論と真逆となる。対外的に702年から使われたとしても、国内での成立はそれ以前だろうと言うわけだ。

 これも先述したが、新旧の『唐書』には、

大宝2年(702年)以前に倭国は日本国に国号を変えたが、唐朝でそれを認めなかった。

 とある。
 このことから、『新唐書』は『咸享元年~後』と記述したのだろう。

 そして、養老4年(720年)『日本書紀』(やまとのふみ)では、国号「日本」を使っているのだから、712年~720年の間に国号は「日本」となったという説だ。

八世紀初頭説をとる主な学者

(文武朝説) 三品彰英・西嶋定生・村尾次郎
(元明朝説) 椿仲輔・川住鏗三郎・喜田貞吉

国内・国外で始用時期がちがうとする説

 国内は推古朝・国外は天武朝説(梅原猛)
 国内は孝徳朝・国外は天智朝〜文武朝説(橋本増吉・岩井大慧)
 とする説など。

朝鮮と中国に対して始用時期がちがうとする説

 朝鮮は孝徳朝・中国は文武朝(本居宣長)
 とする説など。

「日本」国号は朝鮮でつけたという説

 朝鮮命名説を主張する主な学者
 伴信友・菅政友・飯田武郷・木村正辞・内田銀蔵・三品彰英・井上秀雄・江上波夫

私見

 これらが、「日本」国号成立論の大要となる。

 私自身は、『粟田真人の遣唐使(702年)の前に「日本国号」が成立したのではないか」と思う。つまり「7世紀後半始用説」を支持したい。

 壬申の乱を経て、天皇としての絶対的な権力を手に入れた第40代天武天皇(在位673~686年)、あるいはそれを引き継いだ第41代持統天皇(在位686~697・ただし称制686~690年含)の時期(680年~690年代)に、それまでの「大和王権とは違うよ」ということを示す意味でも、国号を「日本」と改めたのではと考える。

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