北畠親房は,なぜ常陸で『神皇正統記』を書いたのか
水戸学は南朝を正統としています。南朝が正統である根拠は,南朝が三種の神器を所持していたからです。そのことを解説している書として,北畠親房による『神皇正統記』があります。この書は,親房が常陸の国で執筆しました。
北畠親房とは,どういう人物か
北畠親房は,村上源氏の流れをくむ名門のお公家さんです。後醍醐天皇が即位すると,吉田定房,万里小路宣房とともに「後の三房」と呼ばれ信任篤く徴用されました。
しかし,奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し,義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴くことになりました。
親房が常陸に下ったのは延元3年(1338年)といいます。ここから約6年間を常陸で過ごしました。62年の人生の中の6年間です。
北畠親房は62年の生涯だったんだね。
南北朝時代とは,いつからいつまで
南北朝時代は,建武の新政が崩壊した後です。足利尊氏が光明天皇を擁立して後醍醐天皇が京都を脱出して吉野行宮をした1336年から,後亀山天皇が後小松天皇に譲位して南北朝が統一される1392年までを指します。
建武の新政崩壊から,南北朝時代が始まるまでの数年間を神皇正統記はどのように描くか
常陸の四大氏族として,佐竹氏・小田氏・大掾氏・結城氏を挙げることができます。
このうち,佐竹氏は,足利が特に頼りにする一族として足利氏と強く結びついていました。
対して小田氏は,勤王軍の旗頭として足利軍と対立関係にありました。
結城氏は,大きくは白河結城氏が勤王軍。下妻結城氏が足利軍でした。このころは,白河結城氏が本家の下妻結城軍を凌ぐ家勢をもっていたようです。
大掾氏は,一族がまとまらずどっちつかずの状態でした。大掾高幹は初めのうちは小田軍とともに勤王軍として戦っていたが,北畠親房の長男顕家が戦死してからは態度が曖昧になり,結果的に足利軍に下っています。
荒くいうとこのような状態でしたが,もう少しだけ細部に踏み込んでおきます。
畠山顕家が陸奥の守となる
元弘3年(1333)北畠親房の長男顕家が,陸奥の守となりました。顕家は18歳。一緒に下った義良親王は5歳でした。親房もこのとき陸奥に下りましたが,いつまで陸奥にいたのか記録に残っていないので,はっきりしません。
では,なぜ親房たちは陸奥に下ったのでしょうか。これは,護良親王の献策によるとされています。狙いとしては,足利勢の背後にいて後方から足利を牽制するという意図があったようです。
足利軍の後方にいて,にらみをきかせていたんだね。
奥州を押さえるというこの策は,結果的にとても有効な一手になりました。
中先代の乱
北条高時の遺児時行が,諏訪頼重などに擁立されて足利を打つために挙兵した乱です。建武2年(1335)の出来事でした。
このとき,常陸の大掾高幹,佐竹義直らは北条時行に合力し鎌倉の足利勢攻めで活躍しました。
一枚上手,乱を待っていた尊氏
ところが,自分の天下を望んでいた足利尊氏はこの乱を絶好の好機と捉えたのです。鎌倉の「直義に合力したい」と後醍醐に願い出ます。
このとき,尊氏は征夷大将軍の地位と,東国8か国の管領になれるようにと申し出ました。しかしこの二つとも後醍醐は却下します。
そこで尊氏は,征東将軍として京都を出発しました。激しい戦いの末,尊氏の軍は北条勢を敗走させます。大掾髙幹も足利勢に降伏しました。
北畠親房、「こいつはやばい奴だ」と尊氏をののしる
北条軍を撃退した後,尊氏は京都に帰らず,そのまま鎌倉に残ります。そして自らを将軍に擬し,独断で信濃や常陸の北条の土地を従軍した将たちに与えてしまったのです。
「大権干犯の畏るべき振る舞い」
つまりは「こいつはやばい奴だ。謀反を企てている」と,尊氏の叛意を察知した人たちは,尊氏から離れ京へ向かいます。
それとは反対に,尊氏に従って武家政治の再興を願う人たちは,急いで関東に下るという移動劇が展開されました。
尊氏は,自分で土地を分けてしまったの。
それは天皇の権利を犯すことだよね。
足利尊氏の佐竹攻略術
鎌倉に入った直義に兄の尊氏から指令が来ました。
佐竹貞義に,「常陸守護職を返す」という書状を送れという指令でした。
常陸守護職は,建武元年に尊氏が功を上げ「武蔵・下総・常陸」の三国の守護職を朝廷から授けられていたのです。その守護職を貞義に返すというのです。
これによって,以後佐竹一族は,足利の一番頼りになる配下となりました。
畠山親房が嫌いに嫌った尊氏ですが,対佐竹政策を見ると,素早く抜けの無い才覚は,やはり一流です。「損して得取れ」の典型です。
下妻結城はなぜ尊氏の配下になったのか
結城朝祐という人物がいました。下妻結城の6代目です。結城家は,もともと鎌倉の有力武士でしたから北条方でもおかしくないのですが,なぜ尊氏方になったのでしょうか。
それは,白河結城氏との関わりです。
このころ,下妻結城氏(結城氏本家)は,支流の白河結城氏より家勢が落ちていました。分家の方が勢いがあったわけです。
その白河結城氏の結城宗広や結城親朝,親光らは北畠顕家の下,陸奥勤王軍の一翼を担っていたのです。そこで白河結城氏と対抗するために,下妻結城当主の朝祐は必然的に尊氏軍に与する構図になりました。
小田氏はなぜ勤王側なのか
尊氏の勧誘は,小田氏にも届いていました。しかし当主定宗が危篤状態だとして,小田治久は尊氏の催促に応じませんでした。
この後家督を継いだ治久は,「大掾,関,下妻氏」などを同志とし小田城にこもったまま動かなかったのです。
尊氏謀反への後醍醐の対応
尊氏謀反の処置として,勤王軍は新田義貞を将とし,宇都宮公綱,千葉貞胤らを引いて鎌倉に向かいました。さらに鎮守府将軍北畠顕家は,奥羽の軍勢で鎌倉に迫り挟み撃ちを仕掛けました。
勤王軍が優勢に戦を進めたが,諸国で足利に味方する者が増え,赤松氏や細川氏など,中国・四国から京都に攻めてくる者があるという報告があり,新田義貞は京に呼び戻されることとなります。その期を逃さず,尊氏軍は京都に向かう新田軍の背後を襲いました。赤松・細川軍と呼応して尊氏軍が勤王軍の陣地に殺到したので,義貞軍は京に退き,天皇は神器を持って比叡山に逃げました。
北畠顕家の動き
陸奥の北畠顕家は,結城宗広・親朝父子をはじめ奥羽の軍勢を率いて西に向かいました。このとき,常陸の那珂西城主那珂通辰の一族は,北畠顕家の軍に合流しています。
佐竹氏の動き
この動きを見た佐竹貞義は,奥州勢を追撃しようとしました。佐竹氏はあくまでも足利方です。しかし佐竹氏の軍は,小田・大掾の勤王軍に阻まれ動きがとれませんでした。
その結果奥州軍は琵琶湖を渡り,比叡山にこもって苦戦中だった官軍を援護することに成功しました。勤王軍が比叡山にたどり着くことが出来たのは,那珂通辰の働きによるところが大だったといえます。延元元年(1336)正月までの出来事です。
楠木正家 常陸に乗り込む
顕家が天皇を救った年月と同じ延元元年(1336)正月,楠木正家が常陸に乗り込みます。足利軍の主力の一つ佐竹氏の本拠を攻めるためです。正家は,小田・大掾・那珂氏とともに,那珂川を越えて佐竹氏領に侵入しました。
佐竹氏は,攻められると太田城を出て天険の要塞である西金砂城にこもります。そこで正家は久慈西部の瓜連に城を構え,味方をそこに集結させました。
この瓜連城で楠木正家率いる勤王軍と佐竹氏の激戦が繰り広げられます。初期の戦いでは勤王軍が佐竹義冬など名だたる武将を討ち取るなどして優勢でした。
比叡山を巡る戦いでも,関東の戦いでも尊氏の旗色が悪く,尊氏軍は一時九州に逃れざるを得なくなります。
このような状態の那珂,那珂通辰は瓜連に戻ります。もどった通辰は,またもや佐竹貞義の大軍を破りました。
尊氏の巻き返し
京都に逃げた尊氏軍の追撃が進展しなかったのはなぜでしょうか。後醍醐たち朝廷幹部は,北畠顕家の軍を東に返してしまったのです。戦力不足の勤王軍は少ない兵力で奮戦しますが,利あらず湊川で楠木正成が戦死すると戦況は尊氏軍に傾きました。この状況を見て,天皇はまた叡山に逃げることになりました。
そして,尊氏は延元1年//建武3年(1336年)に持明院統の豊仁(ゆたひと)親王を帝位に就かせ,光明天皇としました。
これによって,表面上は後醍醐と光明の両天皇の争いのようにカモフラージュし,賊軍の汚名から逃れる算段だったと思われます。
後醍醐が北朝に渡したのは 偽の神器
尊氏に幽閉され実上の廃位状態となった後醍醐天皇は,北朝の光明天皇に三種の神器を渡すことになります。しかし,このとき後醍醐はあらかじめ偽の神器を用意していて,それを北朝に渡したと北畠親房は『神皇正統記』に記述しました。
この時点では,もしかすると後醍醐は政権復帰を半ば諦めていたのかもしれません。しかし,後醍醐に京を脱出する機会が訪れますが,以下次回とします。
後醍醐が北朝に渡した三種の神器は、偽物だったのか本物だったのか。
謎ですねえ。
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