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天孫族タケミカヅチを祀る鹿島神宮が、なぜ常陸(現茨城県)にあるのか

鹿島神宮は常陸の国の一宮。祭神はタケミカヅチ。下総国の一宮香取神宮とセットで霞ヶ浦を挟んで祀られている。香取の祭神はフツヌシ。タケミカヅチと同様天孫系の武神。大和から遠く離れた関東に、なぜ両神宮社が祀られているのか。

目次

古代の鹿島社は、どのように成立したか

鹿島神宮まとめ

常陸国風土記に載る「鹿島の大神」

鹿島神宮の御由緒には、神武天皇即位の時に創建されたとある。
神武天皇の即位は、紀元前660年。

「鹿島宮社例伝記」にも、「神武天皇元年辛酉(かのととり)の年」に「天の原より降りましし大神、名を香島の天の大神」とあり、創建を神武天皇元年としている。

常陸国風土記には、こうある。
『天地が定まる以前、香島天之大神、香島宮に鎮座していた(意訳)』とある。

つまり、「神武天皇よりずっと前から天から大神が天下り、鹿島の地に鎮座されていましたよ」と書かれている。
だがこれらの記述は、歴史的事実とは考えがたい。

鹿島神社

史実的にある程度信じられるのは「崇神天皇の時代に、香島社に太刀等を奉納した」とする記述。
つまり、崇神天皇の時代には鹿島社が存在したことが史実的事実であることがわかる。

では、崇神天皇の御代がいつごろだったのか。
こちらも特定は難しい。
「紀元前97年から紀元前30年」までが崇神天皇の統治の時期とする説がある。
また、それよりも300年~400年プラスして考え、3世紀末から4世紀にかけてとする説もあり、こちらも証明するためには考古学的な何らかの発見が必要になるだろう。

だが、おそらく卑弥呼の時代のやや後の3世紀~4世紀にかけて、と言うところなのではないだろうか。

常陸風土記の香島郡の条

常陸風土記の香島郡の条には、
「大乙上(だいおつじょう)中臣▢子と、大乙下中臣部兎子が那珂郡の一部を割いて、別に神の郡を置いた」
という記述がある。

そして、『「天の大神の社」「坂戸の社」「沼尾の社」を合わせて、「鹿島の天の大神」と称する』とある。
つまり三社を合一して鹿島社は創建された。

鹿島神宮は、「天の大神」と「坂戸の神」、「沼尾の神」の習合神。
これは、天尊系(大和朝廷系)の集団が、「坂戸の神」「沼尾の神」を信じる在地勢力を倒し、この地を統治したことを意味すると考えられる。

坂戸神社(国史跡)
沼尾神社(国史跡)

孝徳天皇の御代に鹿島神宮

史実的にはっきりと、鹿島神宮の建置が示されるのは、「常陸国風土記」の別の記述、『孝徳天皇の御代、大化5年(649年)に「鹿島神宮建置」』から。

この記述を信じるなら、それまで鹿島の地には、「社」がなかったと思われる。自然崇拝だったのだろう。
鹿島社として建物が建てられたのが、649年
今の鹿島神宮の原型ができたのは、このときからと考えられる。

古代史は、ほぼこういう感じで、真実は霧の中。
だからこそ、イメージを膨らませ素人でも参加が可能でおもしろい、とも言える。

考古学的に見る大和朝廷の鹿島進出

旧石器時代の終わりごろ、鹿島周辺(常陸伏見遺跡・北浦周辺台地の遺跡)には、すでに人が住んでいた。
この事実から、鹿島周辺には、少なくとも約2万4千年前ぐらいから人々が暮らしていたことが証明されている。

時代が降って弥生時代後期から古墳時代(紀元後300~400年前後)の初期の集落跡から面白い発見があった。
一つの集落遺跡(総戸数29軒)から、縄文土器と、弥生式土器の両方が発見されたのだ。

これは何を意味するか。
つまり、土着の縄文文化をもつ先住の人々の中に、先進的な弥生文化・稲作文化をもって土師器を使う西から来た民族集団(大和族・天孫族)が、この土地に住んでいた在地集団(蝦夷系・出雲族系縄文人)と混在していたことを意味する。(北関東の足洗式土器・十王台式土器)

この考古学的事実は、征服神話、鹿島の大神成立の神話と何らかの形で結び付いているだろう。

西から来た弥生文化をもつ種族とは

では、弥生後期から古墳時代の前期に、鹿島を含む常陸にやって来た弥生文化をもつ種族とは、どのような種族だったのか。

西から常陸にやって来るには、古代二つのルートがあった。
一つは、東山道ルート。つまり陸の道。

もう一つが海上(うなかみ)の道。文字通りの海上ルート。


「ナカトミノオオカシマノミコト」の東征

常陸風土記の中に「建借間命(たけかしまのみこと)」の話が登場する。
借間命は、那珂国造の祖とされる人物。

建借間命は、「中臣多借間命」とおそらく同人物。
つまり、中臣氏・多氏の祖。
常陸流中臣氏の祖だと考えられる。
そして、この人物は、鹿島神宮に今も残る杵島唱曲(きしまぶり)などから、九州地方にいた多氏との関係も深いと思われる。

建借間命が那珂の国の国造であることから、常陸への東征経路は、那珂の国を通る東山道ルートだっただろう。
古代日本は、今のように交通網が発達していない。
陸を通って移動できる方が少なかった。
そのなかで、常陸国はごく希な陸を通って移動できる国だった。
輝く太陽がよく見える絶景の地、日高見(ひたかみ)が「常陸」になったという説もあるが、
陸を通って移動できる国、「常道(ひたみち)の国」から、「常陸」へ変化したという説もある。

常陸風土記・行方郡の条の「建借間命の征服神話」

常陸国風土記を読むと、「多氏系中臣氏の建借間命が那珂の国から鹿島に入り、その地域を征服した神話が載っている。
建借間命が土着住民を、『「いたく殺した場所」が「潮来」という地名になった』など、物騒な話も合わせてだ。
古事記にも、「常道の仲国造」の祖は多氏であり、その長の建借間命が「国造の祖」とあり、中臣系の多一族がこの地を征服したことは、ほぼ事実だろう。

そして、考古学的な証拠、及び文書資料から見て、建借間命の常陸東征は、4世紀~5世紀にかけてのできごとだっただろうと、予想できる。

建借間命と大和朝廷の関係

天孫(大和朝廷系氏族)の東征として、「日本書紀」に見られる崇神天皇の代の四道将軍の派遣も思い浮かぶ。

四道将軍のうち、北陸道を平定したのはオオヒコ。(「日本書紀・大彦命」「古事記・大毘古命」)
このオオヒコは、稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に見える「意富比垝(おおひこ)」に比定されるとする説がある。
私も、四道将軍の大彦命は稲荷山古墳鉄剣にある「意富比垝」だと思う。

ところで、中臣多建借間命は「」と表記されるが、オオ氏は他にも、太 ・大・意富・ 飯富・飫富・於保など、様々に表記される。
つまり、「四道将軍大彦命」は、「意富比垝(オオヒコ)」であり、「オオ一族の男」だと思われる。

そして、常陸や下総を含む東海道を征した四道将軍の一人、武渟川別(タケヌナカワワケ)は大彦命(意富比垝命)の子なのだ。
よって、カワヌナカワワケも多氏系の人物だろう。

またこの二人は、天皇家の系図を見ると、大彦命は崇神天皇のオジに当たり、武渟川別命は従兄弟に当たる。
二人は、大和系の人物系譜に位置づけられている。

つまり、崇神天皇の時代に大和族の一派、中臣系多氏が那珂や、茨城を手中に収めたと思われる。

タケミカヅチやフツヌシと大和朝廷の関係

それから時代が降り、孝徳天皇の御代(大化5年・649年)に霞ヶ浦と大和をつなぐ海路が開かれた。
もしかすると、建借間命とは違う系列の大和族の一派がやって来たのかも知れない。
とにかく、7世紀には陸の道(東山道)と、海の道(海上道「うなかみのみち」)が繋がったのだろう。

そして、このころ鹿島神宮の社殿が建立されたのだと思う。

建借間命(タケカシマノミコト)は、もともとは物部氏の家来

中臣系多一族は、元々は物部氏の配下。
もののふ(武士)という言葉があるが、この言葉は「もののべ」がら来ているのだろう。
物部氏は、武闘系一族だった。

そして、その配下に中臣系一族がいた。
中臣は、神と人をの仲立ちをする氏族でもあった。

その中臣氏が、歴史を書き換えたのだと、予想する。
歴史が書き換わるきっかけとなったのは、物部氏(物部本家)の滅亡だった。

丁未の乱(ていびのらん)

丁未の乱とは、簡単に言えば、蘇我氏(蘇我馬子)などによって、物部本家(物部守屋)が滅ぼされた事件。
西暦で言うと587年の7月に起きている。

古事記や日本書紀が書かれる130年以上前の出来事。
孝徳天皇の時代に、大和族が海上道(うみなかのみち)を開き、鹿島神宮に社殿が建てられたと思われる649年の約60年前。

この事件により、物部氏は歴史の中心部隊から姿を消す。
代わって台頭したのが、武闘系であり神と祭る氏族である中臣氏だった。

これによって、歴史は書き換えられたのだろう。
東山道の東征物語から、物部氏の陰は薄められ中臣系多一族が前面に立った。
また、海上道からの進行でも鹿島と香取が同格、場合によっては鹿島の方が優位に描かれるようになったのではないだろうか。

まとめに変えて:茨城は、蝦夷後の「ひらく」が語源とする説

建借間命(テケカシマノミコト)が、常陸国を開く前に、土蜘蛛と呼ばれる土着民がこの地には既に住まっていた。
常陸風土記を見ると、そのように書かれている。

そして、常陸国が出来る前に、那珂国や茨城国などが存在していたことがわかる。
茨城県の語源について、古老の話として、「茨の城」を築いて、土着民を滅ぼしたので地名が「茨城」になったと記している。

だが、これはおそらく違うだろうと予想する。
もともと、「いばらき」という地名があり、そこに古老の話として「茨の城」の話を創作したのだと思う。

この地に元々住んでいた出雲族(縄文系のいわゆるアイヌとか蝦夷とか言われる民族)が、アイヌ語でこの地を「いばらき(撥音は「バラキ」)と言っていた。

バラキ」とは、アイヌ語で「開く」という意味。
つまり、遙か太古にこの地を出雲族が「開き」、彼らはこの地を「ひらき(「バラキ」)」と読んでいた。

後に、「大和族がこの地を征服しても、古老がこの地を『イバラキ』と呼んでいたので、そこに創作した話を当てた」
というこのが真相ではないだろうか。

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