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笠置シヅ子に移籍問題勃発:初恋の人と絡む「義理と恋とワテ」の意味

ブギウギはいよいよ東京編に入る。笠置の上京は1938年4月。それから約1年後1939年の春、笠置の東方への移籍問題が勃発する。裏で糸を引いたのは、どうやら笠置がほのかに恋心を抱いていた演出家の益田次郎冠者こと貞信。史実でもブギウギでも「松竹愛に溢れるはずの主人公(シヅ子・すず子)」は、はたして松竹を捨ててライバル企業の東宝に移籍してしまうのか。このブログでは、笠置の移籍問題を史実に沿って追究する。

目次

「松竹」対「東宝」のライバル争い

OSSK時代の笠置シヅ子 22歳(1937年)

199年春、笠置に「東宝に移籍してこ来ないか」という話が持ち上がる。
上京して1年。既に笠置は「スイングの女王」と絶賛されていた。

移籍問題が表面化するやいなや、多くの新聞が芸能欄で取り上げ、世間の話題となった。
各新聞とも、笠置の写真入りで大々的に報じている。

だが、インタビューを申し込んで来た新聞記者に対し、笠置は多くを語っていない。

「私のロから何も申し上げることが出来ません。私は一人ぽっちで、その上田舎者ですから、皆さ
んにご迷惑をかけるょうなことはしたくないのですけれど…

と、憂わしげに語っていた。(朝日新聞1939年3月25日より)

当時、松竹と東宝は、ライバル同士。
スイングの女王の笠置が、もし移籍するとなると松竹にとっては大損害。東宝にとっては「ウハウハ」になる。

だが、11歳から松竹に席を置き、松竹愛に溢れるはずの笠置は、このような移籍話を飲むのだろうか。
いったい誰が、笠置引き抜きのストーリーを描いたのだろうか。

笠置引き抜きの絵を描いたのは、淡い恋心を抱く演出家「益田貞信」

ブギウギ演出家 松永大星(益田次郎冠者)

笠置を東宝に引き抜くストーリーを描いたのは、笠置上京後わずか2か月後の6月に松竹(SGD)を去っていた演出家の益田次郎冠者こと貞信だった。

貞信は、三井財閥の御曹司。
華族様だった。
華族制度は、明治になってすぐの1869年から1947年まで続いた身分制度の名残。
貞信が『次郎冠者』と名乗ったのは、父の益田太郎が、「太郎冠者」と名乗っていたので、その子なので『次郎冠者』と名乗った。

この演出家・益田貞信は、洋行帰りの華族出身だけあって目指すのは『洗練されたモダニズム』
対して、松竹が求めたのは『大衆に合わせる演劇』
当然、益田と松竹の方針が合わなくなり、松竹を去って東宝に移っていた。

益田が松竹で笠置と一緒に過ごしたのは、2か月程度のほんのわずかな期間だった。
だが、そのわずかな気管の中で、益田は笠置の才能を見抜いていたようだ。
この間、笠置は益田に気に入られ、笠置をいじめる振付師(蒲生重右衛門)から笠置をかばっていた。

笠置も、自分に優しい益田に対し、ほのかな恋心を抱いた。
このような思いが、笠置の心の中にあった。
だから、笠置は、益田から『東宝へ来い』という誘いを断れなかったようだ。

東宝と、移籍契約を取り交わしてしまう笠置

松竹歌劇団

東宝からの、「移籍要求」を断れなかった笠置は、月給300円という条件で、「移籍承諾」の契約書に調印してしまう。

当時の300円というのは、どの程度の金額なのだろうか。
当時の大卒の初任給が約100円だと言われる。
現在だと、20~25万程度だろうか。
だとすると、300円は、60万~75万程度。

ちなみに、笠置がそれまで松竹からもらっていた給料は200円。
1.5倍の給料を提示した好条件だった。

松竹からもらっていた給料の使い道

笠置は、松竹からもらう給料のほとんどを実家に送金していたという。
このころ養母のうめ(ブギウギのツヤ)が病床にあった。
当然治療費がかかるが、その治療費は、すべて笠置が払っていた。

この事実からすると、笠置が移籍を考えたのは、「経済問題」にも大きな一因があったと考えられる。

病に苦しむことになる義母ツヤ(史実のうめ)

笠置の移籍問題を知った松竹の対応

笠置は、上京からのわずかな間に、レコードデビュー・映画出演などで任期が急上昇していた。
松竹にとって、今笠置に移籍されたら大きな損失となる。

「東宝と、密かに計画を取り交わした」と聞いた松竹幹部は激怒する。
笠置は、団長の大谷博に呼ばれ、烈しく叱責された。

そして、大谷が葉山にもっていた別荘に23日間に渡って監禁されてしまう。
笠置は、相談出来る人がいずに困っていた。

そんなとき、唯一相談できる人物がいた。

笠置(すずこ)の相談に乗る、生涯の師「服部良一(羽鳥善一)」

笠置の相談に乗ることが出来た唯一の人物。
それは、服部良一だった。

服部は、笠置を松竹に留めるために奔走した。
そのおかげもあり、松竹と東宝は、笠置に関する「金銭的な問題」を解決することに成功する。

もし、この問題がうまく解決できなければ、笠置は松竹からも東宝からも見放され、その後の成功は無かったはずである。

ところでなぜ、そこまでして服部は笠置のピンチを救ったのだろうか。
『弟子のピンチを救うのは、師匠の当然の務め』
と、安易にかたづけられないだろう。

当然、「二人は恋仲か?」などというゴシップも多く流れた。
だが、この「恋仲説」に関しては、笠置も服部も後年きっぱりと比定している。

娘 ヱイ子を抱く笠置 1947年(亀井イ子氏所蔵)

服部にとって、笠置を助けることは自分を助けることだった

もし、笠置がこのとき松竹を辞めていたら、確かに笠置も松竹も結果としてピンチに陥る可能性が大だった。
笠置は信用を失い、松竹は稼ぎ頭のドル箱を失う。

そしても、もう一つ見逃してならないのは、服部自身も大きな痛手を負うことになるという事実だ。

服部にとって、自分のジャズを完成させるには、どうしてもそれを担う歌い手が必要だった。それが笠置だった。

その自分の夢の実現に欠かせない笠置が、松竹から離れると言うことは、自分の手元から夢が転げ落ちてしまうことを意味した。

だから、服部は、「笠置君がやめんるなら、僕も松竹をやめる」とまで宣言した。
自分のクビと引き換えにしてでも、笠置の移籍を阻止し、松竹と東宝の信用を損なわないように、それこそ命をかけて奔走したのだと思われる。

笠置は、益田貞信に笠置を奪われたくなかった

益田貞信の「東宝移籍」への誘い。
それに対する服部良一の抵抗。
結果として、「服部・笠置師弟コンビ」の成立。

このような流れになっている。
服部と笠置の「恋仲」に関して、二人は確かに比定している。

だが、根本には、「笠置の益田に対する淡い恋心」があった。
そして、服部は、同じジャズを志すライバルである益田貞信に笠置をとられたくなかったのだろうと思う。

「男女の恋仲」というのでは無いかもしれないが、服部は、益田に対して、「笠置をとられたくない」というジェラシーを感じていたはずだ。

この笠置・益田・服部の「恋心」が笠置移籍問題の心髄だと考える。

終わりに:初恋の人と絡む「義理と恋とワテ」の意味

笠置シズ子の東宝移籍問題は、笠表面的には、笠置の家庭に降りかかっていた義母の治療費工面にかかる経済問題が原因だったと思われる。

だが、その根底には、「笠置が益田に抱いていた淡い恋心」
そして、益田の笠置に対する思い。(もしかすると、益田も笠置に淡い思いをもっていたか、それとも笠置の恋心を利用しようとしたか…。)

さらには、服部の益田に対するジェラシー(裏を返せば、笠置への愛情)。
こういうような3人の愛情のもつれが、この問題の根本的な原因だった。

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