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笠置シヅ子と美空ひばりの確執の真相の裏に、マネージャーの影

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その後の、美空ひばりと服部良一の関係

51年の3月に服部良一作曲のブギ「銀ブラ娘」を、美空ひばりが歌ってレコードが4月に発売されました。
ひばりと笠置シヅ子の和解に次いで、服部との和解の意味もあったかもしれません。

しかし、なぜかひばりはこの歌をほとんど歌うことはありませんでした。
後に本田靖春氏が服部良一へのインタビューを試みましたが、服部の体調が思わしくないという理由でインタビューは断られたそうです。代わって万里子夫人が電話でこう話したとされます。

「美空さんは、笠置シヅ子さんのブギの物真似でデビューされたでしょ。笠置さんのブギは、そのほとんどが主人の作曲によるものなんです。普通の場合、そうしたときは笠置さんのところへはもちろんのこと、作曲した服部のところへも、あいさつがあってしかるべきなんです。それが歌の世界の常識というか、習慣なんですね。ところが美空さんの場合、その習慣を無視なすったというか、無頓着でいらっしゃったということで~。」

というような内容だったとのことです。

笠置の後援会に対するひばりの母の対応

1951年4月、笠置シヅ子の後援会が発足しました。
会長には東大総長二期目の南原繁氏が就任しています。

その2か月後、美空ひばりの後援会が発足します。こちらの会長は町の印刷工場主が就任しました。このとき、ひばりの母である加藤喜美枝氏は、『後援会はファンの集まりであるべきだ』と発言しました。

笠置の後援会には、著名な文化人や芸能人が名を連ねましたが、大半を占めたのはラクチョウの姐さんたち(娼婦)であり、笠置もまた彼女たちの声援に応えて、後々まで彼女たちの更正に一肌脱いで力になっていたのでした。

「ラクチョウの姐さんたちへの支援」は、スターにはよくある作られた美談などではありませんでした。笠置シヅ子は名前ばかりの人物を頭に持ってきて世間体を飾るような人間ではないということが、ひばりの母、喜美枝にはわからなかったと見えます。

南原繁東大総長が、『心からのファン』として笠置を支えていたかについても知らなかったのでしょう。
このひばりの母の対応が、二人の和解ムードにも大きな影響を与えたようです。

まとめ

笠置シヅ子と美空ひばりの確執は確かにあったようです。
ですが、戦後長くささやかれてきたような「笠置のやっかみ」「ひばり被害者」という構図は、必ずしも正しくはないようです。

笠置の心から信頼したマネージャであった山内義富は、確かに薬におぼれ、暴力団との関係もあったと思われます。
笠置シヅ子自身は、薬の中毒になってしまった町の娼婦を支援していましたが、「自ら薬に溺れる」などは、ありませんでした。また、暴力団との癒着もありませんでした。

薬のことも含め、山内義富マネージャーが笠置に与えた影響、そしてひばりとの確執に与えた影響は大きかったと思います。

たくさんの苦労を乗り越えながら、笠置シヅ子は愛娘ヱイ子さんを育て上げた人でした。
この後、彼女は歌手を廃業し、役者の道を歩みます。

一方、美空ひばりは押しも押されもしない、昭和の大歌手として成長を続けていきました。

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