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北畠親房は誰のために,何のために神皇正統記を書いたのか

神皇正統記は,「誰のために」そして,「何のために」書かれたのでしょうか
○「誰のために書かれたのか」
 「童蒙」のために書かれたとあります。
 では,「童蒙」とはだれでしょうか。私見ですが,百通にも及ぶ書簡のやりとりをしても動かず,「道理・大義をわきまえずに,自分の欲ばかりを主張する」結城親朝や,配下の武士たちにだと考えます。
○「何のために書かれたのか」
 「天皇とは」「国体とは」「なぜ天皇を助けなければいけないのか」「忠孝とは」,このような水戸学で言えば,「大義名分」が結城親朝や配下の武士たちには分かっていないと親房には思えたのでしょう。これらの人々に教え諭すために,神皇正統記は書かれたのだ思います。

 

目次

北畠親房 常陸に東条浦に漂着する

南朝は二大巨頭の顕家と義貞を失う

 延元3年5月(1338),北畠顕家が石津の戦いで戦死します。
 続いて同年の閏7月2日,新田義貞が藤島の戦いで戦死しました。
 二大巨頭を失った南朝は,まさに存亡の危機に立たされていました。
 北畠顕家に関しては、若干21歳。石津の戦いの時には従った兵は、わずかに200程度だったと言います。
 激戦を戦いましたが、攻めの激しさに落馬し、そのまま打ち取られたということです。無念の死だったことでしょう。
 新田義貞は、藤島城を攻める自軍が苦戦していると聞き、わずかに50余の手勢を率いて加勢に向かいました。しかし、途中300余の敵と遭遇してしまい、散々に矢を射かけられてしまいました。家臣は退却するように進言しましたが、兵を殺した自分を責め、進言を聞かずに眉間に矢を受けてしまいました。享年38歳です。
 

結城宗広の献策

 この危機に対し,結城宗広が策を講じます。

 「みなで陸奥に参りましょう。そこで,忠臣に褒美を与え,奸賊に罰を与え,陸奥と奥州を平らげましょう。その後にまた大軍を率いて西を攻めれば,そんなに歳月をかけずに南朝の勢いを盛り返すことが出来るでしょう。」
(尚爺意訳)

鎮守府大将軍 顕信誕生

北畠顕家・想像図(実際の顕家本人とは異なります)

  後醍醐天皇は,結城宗広の献策を喜び,献策に従って故北畠顕家の弟,北畠顕信陸奥介兼鎮守府大将軍に任じます。
 顕信は,義良親王を奉じ,結城宗広らの武将を伴って東下することになりました。

南朝の大動員計画

 南朝は,全国の南朝武士を結集させるために,東下だけではなく,宗良親王らを東海に,懐良親王(かねよし)を九州に,満良親王を四国に派遣することにしました。

伊勢国大湊より出航

  伊勢の国に船500余艘が集結し,各軍がそれぞれ目指す方面に出航していきました。この眺めは壮観だったことでしょう。
 延元3年(1338)8月17日,義良親王がお乗りになった船を先頭に,東を目指す船団が出航していきました。

東下船団,暴風雨に襲われる

  9月9日,一行が遠州灘にさしかかった時に暴風雨に襲われました。多くの船が転覆し溺死者も多数でました。
 親房の乗った船は,房総沖を通過し,内海に入って信太の東条浦に漂着します。
 しかし,義良親等と顕信伊勢に吹き戻されてしまい,飯島に漂着しました。
 宗広が乗った船は,吹上に漂着しました。
 このとき,漂着場所によっては運悪く敵に捕らえられ,非業の死を遂げた者も数多くいた,と「鶴岡社務記」に記録されています。

常陸上陸直後の親房

 親房が漂着した東条浦は,阿波半島と浮島との間の阿波湾付近一帯を言います。当時東条城には大掾氏の一族の東城氏が拠っていました。東城氏は,勤王党(南朝方)として小田氏の下に属していたので,すぐさま小田治久に親房漂着を伝えました。
 連絡を受けた治久は,同盟を組んでいる関・下妻・真壁氏などの兵で援軍を送り,神宮寺城での 親房の旗揚げとなりました。

佐竹義篤,神宮寺城を攻める

 親房が常陸に漂着したことは,北朝方の佐竹義篤の耳にも入りました。義篤の行動は早く,大掾・鹿島・烟田・宮崎氏などの兵を集め,10月5日に神宮寺城を攻めました。
 敵を迎え撃つ準備も整っていなかった神宮寺城は抗しきれずに敗れ,親房たちは,近くの阿波▢城に移りました。
 しかし,この城も続いて落城しましたが,親房たちは小田城に入ることが出来ました。

親房の願い「動け,親朝!」 (神皇正統記は、親朝や武士たちの啓蒙のために)

親房は,常陸入りすると陸奥の結城親朝と百通(現存70あまり)にも及ぶ書簡のやりとりをしています。
親朝の書状には,軍状報告や配下の武士達への恩賞に対する承認願いなどが含まれていました。しかし,親房は「大きな勲功も立てていないのに,恩賞の話ばかりするな」というような思いがあったようです。二人の間には,明らかな「恩賞に対する見解の相違」がありました。
親房はどうしても陸奥の軍団,つまり結城親朝が動かす軍団を束ねて,西へ攻め上りたいという思惑があります。本来は,自分が陸奥入りし親朝を直に説得するなどが出来れば良いと考えていたでしょう。しかし、陸奥入りできるような状況では無かったので,無為に書簡の数だけが増えていきました。
ときには,「親朝は道念が低劣である」と叱責しています。
 このような思いが後に「神皇正統記」を書かせたのだと思います。この書によって、親朝や配下の武士たちの心構えを変えたい。そのような願いをもって「神皇正統記」は書かれたのではないでしょうか。

宗広死す 悲報届く

そんななか延元4年(1339)初頭,南朝にとっての最大の分岐点となる悲報が届きました。親朝の父,結城宗広の死の知らせです。
これによって,親朝を押さえる人が居なくなってしまいました。
きれい事だけで無く,恩賞をきちっと出さないと配下の武士は動かない」と考える親朝
尊皇の志が第一で,損得勘定はその後だ」と考えていた親朝の父である宗広,そして北畠親房。その宗広がいなくなったのです。
「義」の意義を説き、「動け,動け」と催促する畠山親房に対し、「利」を重視する親朝。
親朝は父、宗広とは違った生き方を選んだようです。
親房の数々の手紙に対して、どっちつかずのノラリクラリ戦術をさらに続けました。

それでも頑張る南朝方を盛り上げた春日顕時の常陸入り 

 悲嘆にくれる南軍でしたが,一つ朗報がありました。春日顕時の常陸入国です。親房は顕国が入国してくれたので,自らは常陸を去り,一刻も早く陸奥に入国して直に結城親朝に働きかけたい,と考えたでしょう。
 実際に春日顕時の活躍はめざましく,この後南軍の勢いは増しました。これなら親房の陸奥入りもあり得るかと思えた矢先に,またしても悲報が届きます。

後醍醐天皇崩御の知らせが届く

 延元4年(1339)8月16日後醍醐天皇が崩御され,その悲報が常陸にも届きました。折しも高師冬の来侵に対し,今度は南軍が鎌倉を攻めようと計画していたさなかのことでした。
 皇位は,北畠顕家が奉じ宗広・親朝父子とともに支えてきた義良親王が後村上天皇へと引き継がれました。
 親朝にとっても因縁浅からぬ天皇の即位です。それでも。親朝は陸奥を動こうとしません

神皇正統記執筆

 延元4年(1339)後醍醐天皇崩御の悲報が届いた直後から北畠顕家は,神皇正統記の執筆をはじめ,大体年内に書き上げました。そして,五年後の興国4年(1343)秋,関城で修正を加えたのが現行本です。
 「国体」「大義」などを明確にした内容で,まさに水戸学に通じる考え方です。

親房は,誰のために神皇正統記を書いたのか

 ~童蒙にも読解し得べき平易な仮名文を用い~

とあります。

 この「童蒙」とは誰を指すのでしょうか。「童(われべ)」「蒙(理の分かっていない人)」このような言葉を,いくら幼いとはいえ後村上天皇に使うとは思えません。では「童蒙」とは誰でしょう。
 私としては,結城親朝はじめ恩賞ばかりほしがる武士連中を指して「童蒙」と呼び,それらの者に向け,「神皇正統記」は書かれたのだと思います。
 「天皇とは」「この国の国体とは」「なぜ大義を大切にしなければならないのか」「利己的な欲にばかりこだわってはいけない」,このような親房の思いが神皇正統記にはこもっていると思います。

 しかし,親房の思いむなしく,結城親朝はそれでも動きませんでした。そしてその情勢を見た小田治久も・・・・。
 


 

北畠顕家・想像図

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