「幕末期の日本で、最初に開国を唱えたのは、水戸の斉昭なんだって。」と言われたら、多くの人が
「そんなはずはない。」と答えるでしょう。
水戸学と徳川斉昭に関する一般的な認識は、「尊皇攘夷を唱えた水戸学、攘夷派の旗印が水戸の斉昭」と思われているはずです。
ですが、実際と現実では大きく異なる可能性があるのです。
本記事では、斉昭の真の考え方と水戸学の本質を探り、「攘夷派」というレッテルを超えた、より複雑で斉昭の戦略的な開国論の存在を明らかにします。
水戸学の本質・真髄
水戸学の真髄は、単純な攘夷思想ではないのです。
外国の思想や技術に対する洗練されたアプローチを提唱していました。その本質は、有益な要素を取り入れつつ、有害な要素を排除するという原則にありました。
水戸学の特徴:
- 西洋の技術と学問の先進性を認識
- 日本の国益を重視した実践的な評価
- 国の主権と文化的アイデンティティの維持を重視
多面的・多角的な思考を重視する、水戸学の真髄から、斉昭がこう考えていただろうことは容易に推察できます。
斉昭の戦略的攘夷
徳川斉昭の攘夷論は、一般に信じられているような強硬な姿勢ではなく、戦略的な策略でした。
いわゆる「方便論」だったのです。
『国力が弱いままでは、西洋諸国にすぐに植民地にされてしまう。』
『だが、西洋の優れた知識・技術は取り込まねばならない』
斉昭の戦略的思考から生み出された『方便による譲位』というアプローチは、以下の目的を持っていました。
- 国民の支持を集める
- 日本の立場を強化するための時間稼ぎ
- 西洋列強に対する日本の脆弱性への対応
いわば、世界の情勢を理解する知力を持っている斉昭だからこそ、悩みに悩んで、
「今は、方便として『譲位』を唱えるしかあるまい」
と、考えたのでしょう。
斉昭の外交政策と国際関係
徳川斉昭の外交政策は、国際情勢を見据えた戦略的なものでした。
彼は海外情報の収集に熱心で、ロシアやイギリスの政策の意図を正確に把握していました。
その証拠に、1853年のペリー来航直後に『防海新政策』を著し、アメリカへの関心を示しています。
防海新政策にみる、斉昭の外交戦略:
- 「方便としての攘夷論」を唱え、国力強化と開国準備を並行して進行
- 日本側が主導権を持つ形での貿易開始を構想
- 国際関係の現実主義的な理解に基づいた政策立案
おわかりのように、斉昭には時代の情勢が見えていました。
ただ、闇雲に『譲位だ!!!』と、叫んでいた人々は、全く違っていたのです。
斉昭の開国戦略
徳川斉昭の真意は、日本が主導権を握った形での開国を目指すものでした。彼は慎重かつ戦略的な開国政策を立案していました。
斉昭の開国への取り組み:
- 「自分がアメリカに行って、必要な物を買って日本に送ろう」という積極的な国際交流の提案
- 「方便としての攘夷論」による国内結束と国力強化の時間稼ぎ
- 日本の利益を最大化しつつ、欧米列強との不平等な関係を築く外交政策
ところが、斉昭の意図を理解しているのか、いなかったのか、幕府は、西洋列国と不平等な条約を提携しようとしてしまいます。
深作康文の考察
著名な学者である深作康文氏は、水戸の攘夷思想に関する一般的な誤解について貴重な洞察を提供しました。
深作の主張:
- 水戸学派のアプローチは一般に考えられているよりも遥かに複雑
- 水戸の攘夷レトリックには戦略的な意図が存在
- 水戸の指導者(斉昭)たちは日本の脆弱性を深く認識していた
開国論者としての斉昭
徳川斉昭は、実は日本で最も早く開国を主張した人物の一人でした。1875年に明治天皇が小梅邸を訪れた際、斉昭の手紙が読み上げられ、大久保利通は斉昭が明治の改革者たちよりも先に開国を提案していたことを認めたのです。
ところが、この事実はこれまでほぼ取り上げられてきていません。
テレビドラマでも、この事実を扱ったものを見たことがありません。
小梅邸行幸の真相
1875年(明治8年)4月4日の明治天皇の水戸家小梅邸訪問は、斉昭の開国論を裏付ける重要な出来事でした。
小梅邸行幸の重要性:
- 複数の史料が存在し、信憑性が高い
- 「勝海舟御製歌碑」の存在が天皇の訪問を裏付けている
- 大久保利通の同行は当時の政治状況から推測可能(具体的にその場に、大久保利通がいたという資料は無いが)
斉昭の手紙の内容は、日本の国力強化、西洋技術の導入、慎重な開国、日本主導の国際交流などを提案していたと推測されます。
斉昭は、本心では開国は免れないと思っていたのに、なぜ譲位論の代表のようになってしまったのでしょうか。
徳川斉昭が攘夷論の代表のように見なされながらも、実際には開国の必要性を認識していた背景には、複雑な要因があります。
再度、その理由を詳しく説明します。
斉昭の戦略的思考
斉昭は、西洋の技術や学問の先進性を十分に認識していました。彼の「攘夷論」は、実際には戦略的な「方便」であり、以下の目的がありました。
- 国民の支持を集める
- 日本の立場を強化するための時間稼ぎ
- 西洋列強に対する日本の脆弱性への対応
斉昭の考え方は、明治8年の小梅亭での斉昭の手紙から読み取れました。
開国への準備
斉昭は、単純な鎖国主義者ではなく、慎重かつ戦略的な開国政策を立案していました人物だったのです。
- 「自分がアメリカに行って、必要な物を買って日本に送ろう」という積極的な国際交流の提案
- 西洋の技術導入に積極的で、コルト銃の国産化を進めるなど、実際には西洋の物品に大いに興味を示していた
国内政治の複雑さ
斉昭の立場は、当時の複雑な政治状況によって影響を受けていました。
- 「方便としての攘夷論」は、国内の結束を固めつつ、日本の国力を強化する時間を稼ぐための戦略だった
- 幕府高官や多くの人々にとって、斉昭の真意が理解しづらかった。
学問の府、水戸の、あまりにも進歩的すぎた頭脳であった斉昭。
残念ながら、当時の(場合によっては現在でも)多くの人々にとって、斉昭の考え方は自分たちの理解を超える考え方だったようです。
斉昭の性格と政治スタイル
斉昭の政治スタイルも、彼が攘夷論者として見なされる一因となっていたのだと思われます。
- 「空気が読めない」ところがあり、TPOをほとんど欠いた発言をすることがあった
- 理想を語るが、実現に至るプロセスの考えが十分でないことがあった
まあ、御三家のお殿様なので仕方が無い面でもあります‥。
歴史的文脈
当時の日本は、開国と攘夷の間で揺れ動いていました。
- ペリー来航後、国際情勢の変化に対応する必要性が高まっていた
- 隣国には、西洋列強国の植民地になってしまった国がある
- 尊王攘夷運動が活発化し、政治的な対立が激化していた
斉昭の戦略的思考:結論
斉昭は、開国の必要性を認識しつつも、日本の国益を最大化し、欧米列強との不平等な関係を回避するための戦略的な立場を取っていました。
しかし、彼の複雑な思想と戦略的な「方便」としての攘夷論が、結果として彼を攘夷論の代表のように見せてしまったのです。
実際には、斉昭は日本で最初に開国を主張した人物の一人であり、その先見性は後の明治維新にも大きな影響を与えました。
藤田派と斉昭の葛藤が政治にどのような影響を与えたのか
水戸藩と言えば「攘夷派」という印象は、藤田派の影響に強く起因していると言えるでしょう。
では、藤田派一派と斉昭は、どういう関係にあったのでしょうか。
一言で言えば、最初蜜月、後に葛藤です。
藤田派と徳川斉昭の葛藤は、水戸藩の政治に大きな影響を与え、最終的には幕末の日本政治全体にも波及しました。
以下にその影響を詳しく説明します。
まずは、下の表を見てください。
この表は、藤田派と斉昭の葛藤が水戸藩の政治に与えた影響を時系列順に整理し、その主要な側面を示しています。
以下、表について解説します。
藩内の権力構造の変化
- 斉昭の藩主就任初期:
- 斉昭は藤田東湖らの改革派を重用し、藩政改革を推進しました。
- しかし、斉昭は藤田派の小身執政論を押し潰し、執政人事への介入を拒否し続けました。
- 弘化元年(1844年)以降:
- 斉昭の失脚後、藤田派との関係が蜜月関係に転換しました。
- 斉昭は門閥派に敵愾心を燃やし、藤田派がこれを諫めるという関係に変わりました。
政治議論の空間拡大
- 新しい政治慣行の創出:
- 藤田東湖らは、身分を超えた政治行動を正当化する「大義」の概念を導入しました。
- これにより、下級家臣も君主に進言できる上書の制度が確立されました。
- 集団的デモンストレーションの発生:
- 斉昭の襲封問題(領主が領地を受け継ぐこと)を皮切りに、家臣と上層の領民が集団で江戸に上り、藩政府と親族の大名に働きかける運動が繰り返し発生しました。
藩政の不安定化
- 議論政治の行き過ぎ:
- 藤田派が持ち込んだ議論政治という新しい政治慣行が、止めどのない藩政抗争に転化しました。
- これが水戸藩を自壊に導いた一因となりました。
- 藩内の分裂:
- 斉昭と藤田派の間の葛藤・確執が絶え間なく続きました。
- これにより、藩内の統一性が損なわれ、政策の一貫性が失われました。
幕末政治への影響
- 斉昭の政治力低下:
- 安政の大地震で藤田東湖らブレーンを失い、斉昭の政治力は致命的打撃を受けました。
- これにより、水戸藩の尊攘運動が衰亡へ向かう一大転機となりました。
- 幕府との関係悪化:
- 斉昭の行動は幕府高官にとって真意がわかりにくく、「うとましい」印象を与えました。
- これが後の安政の大獄につながる一因となりました。
- 天狗党の乱:
- 斉昭の失脚後、水戸藩では諸生党が実権を握り、4年後に天狗党の乱が起こりました。
- これにより、水戸藩は完全に幕末政局から脱落しました。
結論として、藤田派と斉昭の葛藤は、水戸藩内の政治的不安定さを増大させ、藩の統一性を損ない、最終的には水戸藩の政治的影響力を低下させてしまうのです。
これは幕末の日本政治全体にも影響を与え、特に尊攘運動の方向性や幕府との関係に大きな影響を及ぼしました。
そして、水戸藩そのものは、内部抗争により優秀な人材をほとんど失ってしまったのでした‥。
まとめ
本記事では、徳川斉昭と水戸学に関する一般的な認識と実際の歴史的事実の間にある大きな隔たりを明らかにしました。
- 水戸学の本質: 単純な攘夷思想ではなく、外国の思想や技術に対する洗練されたアプローチを提唱していました。
- 斉昭の戦略的攘夷: 斉昭の「攘夷論」は実際には戦略的な「方便」であり、国力強化と開国準備のための時間稼ぎでした。
- 開国論者としての斉昭: 斉昭は日本で最も早く開国を主張した人物の一人であり、慎重かつ戦略的な開国政策を立案していました。
- 複雑な政治状況: 斉昭の真意が理解されにくかった背景には、当時の複雑な国内政治や国際情勢がありました。
- 藤田派との葛藤: 斉昭と藤田派の対立は水戸藩の政治に大きな影響を与え、最終的には幕末の日本政治全体にも波及しました。
- 歴史的再評価: 1875年の小梅邸行幸の際の出来事は、斉昭の先見性と開国論を裏付ける重要な証拠となっています。
これらの事実は、徳川斉昭と水戸学に対する従来の理解を大きく覆すものであり、幕末期の日本の政治状況をより深く理解する上で重要な視点を提供しています。斉昭の複雑な思想と戦略は、日本の近代化過程において重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
追記
江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、水戸藩の出身です。
水戸出身の慶喜は、天狗党の若者達を処断しました。
それは、なぜでしょうか。
斉昭と藤田派(天狗派)の確執を考えると、答えが分かる気がします。
本心では、「いかに開国を進めるか」を考えていた斉昭。
本心から、「譲位」を唱えた天狗派。
斉昭の子であった慶喜も、「いかに開国を進めたら日本のためになるか」を、考えていたことでしょう。
コメント