本能寺の変は 信長隠居 【信長追放】をねらった
28日、信忠は家康を堺へ送り出した足で愛宕権現へ向かっている。そこで光秀と密会した。
筆者は、憶測だがとことわりながらも、以下のような可能性を指摘している。
愛宕権現において信忠はあれこれ状況の急変を語り、そして新たな策を説いて光秀に受け容れさせたに違いありません。
『天正10年の史料だけが晴らす明智光秀の冤罪:光秀は信長を殺してはいない』より
その策とは、たとえば明智勢が西国へ向けて出陣する日付と父上(信長)が本能寺に滞在している日時が合致しそうだ、これは天恵かもしれない、されば予定を前倒しして惟任(明智)殿の軍勢をもって包囲を担当していただきたい、時を同じくして我らは公家衆や馬廻り衆と共に父上説得のため本能寺へ参集しましょうぞ。
『惟任退治記』などの国内史料は、なぜ二人の密会に言及しなかったのだろうか。
信忠を担(かつ) いだ家臣団有志の謀反ではなかったとし、光秀ひとりの謀反だったと史実を偽ることは、秀吉自らが一枚噛んでいたのかもしれない。それを秀吉は、『惟任退治記』などの記述により、事実を帳消しにした…、と。
秀吉も、この企てに加担していたことが真実なら、「光秀一人が謀反人」でなければならない。光秀や、秀吉もおそらく含んで企てに参加した者たちは、自分たちと織田信忠が手を握っていたという事実を、なんとしても封印、抹消しなければならなかった。
嫡男の謀反は めずらしいことではなかった
戦国時代、息子が親を追い落とすクーデターは、珍しい子ではなかった。
大概は、家臣団有志が嫡男である跡取り息子を担いで起こすことが多い。
来た近江の浅井では、長政が父の久政を幽閉して実権を握り、甲斐の武田晴信(信玄)も、父である信虎を国外追放している。
さらに、美濃の斉藤道三は、息子の義龍によって追い落とされ、その後死に追いやられている。
また、家康も嫡男信康に謀叛を企てられ、その母・瀬名姫とともに粛清している。
筆者は、信長の本能寺の変の真相も、信忠とそれを担ぐ家来らの陰謀だったとする。
信長の身内や家来に対する不信感
信長自身も、実の弟に殺されかけた過去がある。
本能寺の変の30年近く前のこと、家臣団有志が同腹の弟を担ぎ、生母の同意を得て起こした謀反だった。
信長は、肉親の情を捨て弟を謀殺する。
晩年の信長が冷酷さを増していったのは、もしかすると「肉親すら信じられない」というこの時の経験が関係しているのかもしれない。
信長の筆頭家老、佐久問信盛(のぶもり) 、宿老の林佐渡守秀貞(はやしさどのかみひでさだ) など、重臣を相次いで織田家中から追放している。
佐久間信盛などは、すべてを没収されて無一文となってしまう。
挙げ句の果て各地を流浪し、最後は奈良県南部の山地、十津(とつ) 川渓谷沿いの寒村で病没する。
かつては、7か国の武者衆を動員できる力をもっていた信長の筆頭家老の野垂(のた) れ死にだ。
林佐渡野守信盛の場合も悲惨だ。
信長に対し、諌言をしたことを「生意気なやつ」と罵られ、結果追放になった。
追放された林佐渡守は敵国の毛利氏の安芸国(あき:広島県) へ逃げている。
晩年の信長は、「冷酷無慈悲」
このような信長に対し、家臣団有志が嫡男信忠を担いで謀反を起こす可能性は十分にあった。
明智軍には 信長を討ち取る本気を感じない
明智軍は、本能寺に銃を持ち込んでいる。だが、”信長を討つのだ”という 本気さが感じられない。
明智勢の鉄砲装備率は当代随一の高さを誇っていた。つまり、少なくとも、数十人の鉄砲種が、御殿域内になだれ込んでいた。
御殿域の前庭はほぼ10メートル。居並んだ鉄砲種は百戦錬磨。
そこに、信長が出てきて縁側に立っていたのだ。通説通りこの状況が正しいのなら、信長に銃弾を命中させられなかったとはとても考えられない、と。
確かに、『1582年日本年報追加』には、『信長の腕に弾が当たり、信長は怪我を負った』とある。
だが、「降伏を促す威嚇のために、腕だけを狙うった」のであり、「命を取らない程度に射撃する技術を持っていた」と取る方が、合理的だ。
「たった、10メートル弱の位置から狙い撃ち可能な状態で、明智の鉄砲隊が的を外しますか?」ということ。
さらに、同じ『1582年日本年報追加』によると、縁先に出る前に信長は背に矢を射られている。その矢は建物内の至近から射られた事になっている。
弓を知っている人なら分かるだろうが、至近距離だと矢の威力は馬鹿にできない。
嫉(やじり) の形態によるが、あたりようで腕が切り飛ぶし、臓器を大きく損傷する。
しかし、室内という超近距離から射られた矢が、信長の背に実際に射込まれたのは1本のみ。
しかも射られた後に、縁先に出てちゃんと迎撃している。
つまり、至近距離から背中に命中した矢のダメージは小さかった。
なぜか?
明智軍がそのように意図して矢を射ていた。
鉄砲の例だけ、矢の例だけならまだ偶然の可能性もあろうが、少なくともこの時点で二つ同時にこのようなことが起こる確立はどれほどか?
さらに、明智軍は、本能寺を取り囲む城壁を崩しているにもかかわらず、信長の抵抗を見て一時兵を引いている。
これはどういうことか。
信長は手傷を負い、守りの城壁は壊している。それなのになぜ一時、兵を木戸門の外へ引いたのか。
このようなことから、筆者は『本来、明智勢は、信長を殺す意図がなかった』、と推察する。
このことからも、明智の信長襲撃は、信長を殺す事が目的ではなく、本当は、「完全引退勧告」のための「脅し」だったが、間違って信長を、「自死させてしまった」と、結論づけている。
本来、明智は、「恫喝」のための実行犯であって、首謀者は他にいることになる。
それが、清水寺の談合に集まった面々であった、と。
本能寺の変の真の黒幕『明智光秀に織田信長を襲わせた黒幕は誰か』
清水寺の飲み会ならぬ「密会」が行われ、信長追放の密議がされたのなら、その密会を主催したのは誰だったのか。それは、甘露寺経元であり、勧修寺春豊であり、春豊を裏で操っていた勧修寺尹豊(ただとよ)らの公家だ。
山崎の合戦の後、勧修寺尹豊らは姿をくらます
山崎の合戦の後、勧修寺尹豊らは、捕縛を畏れて逃げている。この事実を見るだけでも、本能寺の変には、公家たち、すなわち朝廷が深く関わっていた可能性が高い。
公家の首魁 勧修寺尹豊(かんしゅうじ ただとよ)は なぜ信長の命をねらったと考えられるのか【私怨】
勧修寺尹豊は、生きている者として最高位の「従一位」の座に30年の間留まっていた。
ただし、21年目に出家しているので、名目上は従一位を返上したことにはなっている。
家格の都合上、権大納言の地位ではあったが、実質的には大臣待遇。
尹豊がいたから、足利幕府にも、三好三人衆にもひけを取らずに朝廷の地位を保つことが出来ていた。
この尹豊には、晴右(はるすけ)という息子がいた。尹豊の孫晴豊の父である。
この晴右は、信長の意に沿わない朝廷人事を行ったため、信長に蟄居を命じられてしまう。そして、鬱々とした日々の中死んでしまう。
尹豊ら勧修寺家の者たちは、晴右の死を「信長のせいだ」と、恨みを抱いた。
つまり、尹豊や晴豊に取ってみれば、信長は息子の敵、父の敵であった。
公家の首魁 勧修寺尹豊(かんしゅうじ ただとよ)は なぜ信長の命をねらったと考えられるのか【公家の首魁としての立場】
信長は、もはや朝廷の臣下である必要はなくなっていた。
この頃、朝廷は4年にわたり信長に官位を与えようとしていた。だが、信長は朝廷からの「顕官推任」を拒み続けていた。
甲州武田攻めからの凱旋以来、勧修寺晴豊は信長に推任の打診を続けている。しかし、信長はあいまいな態度をとり続けてきた。
信長は4年前の春、上杉謙信の病没を期に、右大臣を辞した。
それ以来、官職に就かず無官を通していた。
いやいや、「位階を辞退していたわけではない」と、言う人も実は多い。
だが、謙信、信玄亡き後の信長は、
『位官の如(ごと) きは必要なら利用するが、もはや必要ない』
と思っていたのではないだろうか。
というのは、「朝廷の臣下としての地位は、邪魔」になっていただろうからだ。
武家の棟梁として、朝廷から離れた自由な立場にあった方が動きやすい。
現に家格上は、公家筆頭の近衛前久(さきひさ)などは、武田責めの時には信長から1800石をあてがわれ、参陣している。朝廷のトップが、実質的には信長の寄子(家来)となっていた。
逆を返すと、朝廷側は、「信長は朝廷の臣」という立場にしたかった。
そのためには、何としても信長に位を授ける必要があった。その上で、信長をどこかの山にでも、幽閉してしまえれば100点。
尹豊らは、公家としてそう考えていたのではないか、という。
信長は、太政大臣に任官されていた?
『信長は、本能寺の変の間際に太政大臣に任官されていた。』
信長の死後、信長は『贈太政大臣』となっていることはよく知られている。
だが、実は信長の死後ではなく、生前に信長は太政大臣になっていたとする説もある。
そして、任命書である位記(いき)を発行していたことは確かなようだ。
どうやら、朝廷は、信長の了解を取らずに勝手に位記を発行したようだ。だが、当然信長はそれを受けず、そのままになっているうちに、本能寺の変が起こったらしい。
もしかすると本能寺の変の序盤の交渉で『信長が位記の受領を拒んだ』ので、「これじゃあもう、信長を強制的に引退に追い込むしかない」と考えたことで、明智勢の行動がエスカレイトし、信長を自死に追い詰めることになったのかもしれない。
韓流観るなら<U-NEXT>
コメント