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本能寺の変:なぜ裏切った!光秀の後ろには黒幕がいた説

信長の御殿側の入り口(北門)の前にいた京都所司代 村井貞勝は なぜ襲撃されなかったのか

村井貞勝

本能寺には、南門と北門があった。
北門は、信長の京都所司代である村井貞勝が守っていた。
貞勝は、本能寺の北門付近に私邸を構え、その私邸が所司代を兼ねていたと思われる。
つまり、明智勢が本能寺を襲ったとき、そこを守っていたはずの村井方と明智方の間に何の戦闘も起きていない。
この不思議について、通説は何も語ってこなかったのはなぜか、と著者の斉藤氏は指摘する。

なぜ、明智勢は信長の臣下である村井貞勝を真っ先に血祭りに挙げなかったのか

明智勢は、本能寺侵入後北門付近にいた村井貞勝を血祭りに上げることはなかった。
それどころか、捕縛することすらなかった。
これは、何を意味するのだろうか。

つまり、明智光秀と、京都所司代村井貞勝は、通じていたと言うのが筆者の主張。

時代が下って江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎では、信長は暴君、光秀は判官贔屓から悲劇の人。前掲のヤフー知恵袋の回答のように、「光秀が止むにやまれぬ事情から、主人信長を討った」という、光秀を主人公する作品が多かった。

昭和の時代、光秀裏切り者観が優位になっていたが、大河ドラマ「麒麟がくる」の後は、また江戸時代寄りの「信長悪人、光秀の行動は仕方がなかった」という歴史観が優位になってきたように思う。

だが、近年の史料、京都所司代村井貞勝の軍勢が、明智軍と戦っていないという事実によって、『明智単独犯説』に疑問符が付いてきている。

本能寺の変の黒幕『信長嫡男 信忠 を担ぐ 織田家家臣団』の謀叛説

大久保彦左衛門忠教

天下のこ意見番として知られる硬骨の武者、大久保彦左衛門忠教(ひこざえもんただたか)が、江戸初期の寛文(かんぶん) 年間に『三河物語』という書を著(あらわ) している。
そこに、このような記述がある。

〈史料〉
信長も外(縁先) へ出て、「城之介(じょうのすけ) が別心(べっしん)か(信忠の謀反か)」と仰(おお) せになると、森のお覧(乱)が「明智が別心と見えます」と答えた。「さては明智めが心変わりか」と仰せになっていると、明智勢の郎党が走り参りて一鑓突(ひとやりつ) いたため、信長はそれより御殿の奥へ引き入った。….。早(はや) 火をかけて信長は焼け死にたもう。

三河物語 より

城之介とは、信長の嫡男の通称で、信忠を指す。別心とは謀反の意味。つまり、当初、信長は軍勢が攻め込んで来た変事を跡取り息子の謀反かと疑ったのだ。

彦左衛門は、この書を「門外不出」にせよと子らに書き残している。
門外不出としたところも、気にならないだろうか。

後世、この文言は、「ちょっとそう疑って口にしただけのこと」、とされている。
だが、はたして、「ちょっと言っただけ」なのだろうか。

『惟任退治記』(惟任とは光秀のこと)に、明智勢は築地壁を引き壊し、門の木戸を切り破って乱入してきた、とある。

そうなると、信長は縁先に立って将兵の旗指物(はたさしもの) を目にしたはず。
その上で、「信忠の謀反か」と、乱丸に問いただしたことになる。
これは変だ。

水色桔梗紋(みずいろききょうもん) 入り旗指物を目にして、軍勢は明智勢だと一目瞭然。

何を今さら

「信忠の謀反か」

と問うたというのだろうか。

筆者は、信長は明智方将兵を指して、

『明智勢のこの行動は、信忠の謀反の一環なのか』

そう問うたのだ、と見ている。
つまり、

『光秀のバックには信忠がいるのか』

と信長は質問した。

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