『惟任退治記』や『信長公記』は、秀吉の意向が強い
ただし、『惟任退治記』や『信長公記』では、信長は御殿の中から縁先に出る前、部屋の内で「誰の謀反か」と乱丸に問い、対して乱丸は「光秀の謀反と見えます」と答えた、となっている。
そして『信長公記』は、乱の20年後に書かれたものであり、秀吉やお伽衆らから少なからず影響を受けている。
両書は、共に秀吉の思いを汲んで書かれている、という点を考慮しなくてはいけない。
秀吉は、信長が言った「信忠の謀反か」を、「誰の謀反か」に差し替えさせた。
蘭丸(乱丸)の言った「明智の謀反と見受けられます」を目立たせるためだ。
では、彦左衛門はこの情報をどこから得たのか。それが合理的に説明できないなら、”信忠の謀反”説は信じられない。
信長側近 アフリ力人侍・弥助情報!
嫡男信忠に仕える家臣に、水野忠重(ただしげ) という三河武士がいた。
徳川家康の生母・於大(おだい) の方の実弟で、家康の家臣になったこともある。
水野氏は、尾張との国境近くの小勢力で、独立性が強い。一時家康に仕えたが、ある事情から家康の元を離れた。そして、本能寺の変の2年前には、織田信忠の召し抱えになっていた。
この家康の叔父の忠重、本能寺に続く二条御所の変では、信忠のそば近くにいて、信長の最期に付いて、知る機会に恵れる。
では、信長最期の情報はどのように信忠や忠重にもたらされたのだろうか。
信長の近習に弥助というアフリカ出身の黒人侍がいた。
変の前年、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノから信長が譲り受けた下僕だった。
信長は、弥助を見込み知行と氏名、武士の身分を与えて自らのそばに仕えさせていた。
『1581年日本年報』に採録される司祭ロレンソ・メシアの10月8 日付け書簡には、『人の話によると信長は弥助を殿(城主)に据える心積もりのようだ』、とある。
弥助は、よほどの人物だったのだろう。
近年、発見されたヴァリニャーノの報告書では、東アフリカのモザンビークで、ポルトガル軍司令官から寄進され、ヴァリニャーノの下僕となったアフリカ人が弥助だったことが分かっている。
この弥助、御殿で信長直最後を見取った後、どうやって包囲を抜け出たのかは分からないが、二条御所の信忠の元へ行っている。
信長の近習はことごとく討ち死にしているにもかかわらず、信長の最期についての情報が多くの史料に伝わっている。
どうやってかは分からないが、本能寺を抜け出した弥助は、信忠の元に行き着くことが出来た。
そして、信忠の元には先ほどの水野忠重もいた。
忠重は当然弥助の報告を聞いたことになる。
この水野忠重は、信忠と運命を共にすることはなく、乱戦のどさくさに紛(まぎ) れて二条御所を脱出し、三河に帰還している。
当時、家康の直臣ではなかったが、元主君であり、姉が家康の生母であることを頼って、逃げてきた。そこで、忠重は、事の次第を家康に報告しただろう。
だが、水野忠重は主君織田信忠を見捨てて自分だけ生き延びている。当然自分に都合の悪いことは黙して語らずだったに違いない。
余談だが、主君を捨て、自分だけ逃げてきた叔父忠重に対し、家康は強い不快感を表したと伝わる。
ともあれ、筆者は、この時に水野忠重から彦左衛門ら家康の家臣たちの主だった者たちも、事の顛末(てんまつ) を聞かされただろうと考える。
その極秘情報が、大久保彦左衛門忠教の「三河物語」となった、と。
弥助は、どうして本能寺を無事に抜け出すことができたのか(筆者仮説)
弥助は明智勢の幾重もの包囲陣、警戒線をどうして抜けだすことがかのうだったのか。
この疑問について、筆者は大胆な説を掲げている。
弥助の脱出は、光秀自身が弥助に護衛を付けてそうさせたから可能だった、というのだ。
光秀は弥助に、二条城の信忠にへの伝言を頼んだ。
『私(光秀)は、決して主君殺逆の意図はなかった。思わぬ成り行きで信長を死に至らしめてし
まった… 、そうした信長の死に至る”真実” を見たままでいいから信忠様に語ってくれ』、と弥助に託したのだという仮説だ。
光秀の”言い訳”
筆者である斉藤氏はなぜ、このように考えたのか。
それは、光秀が細川家へ手紙で『信長の死を不慮(ふりょ) の事』、つまり想定外のこと、意図せざる突発事だった、と申し開きしていという事実からだ。
光秀と信忠の愛宕権現での会合
さらに、もう一点、乱の3日前に明智光秀と織田信忠は、愛宕権現で会っていた。事実は小説より奇なりと言うが、ある史料からこの事実が判明し、ここから、光秀の単独謀叛ではなく、信忠や光秀らの共謀の可能性が浮上してきた。
『1582年日本年報追加』
『1582年日本年報追加』という史料に、
変の3 日前に、信忠が京都西北の山寺、愛宕権現(あたごごんげん)に詣(もう) でた、とする記事がある。
同じく、変の4日前の5月27日からその翌日にかけて、同じ愛宕権現に明智光秀が参籠(さんろう) していたとある。
参籠とは、西国攻めの成功を祈願すること。
さらに光秀は、参籠明けの5月28日には、愛宕権現に併設される白雲(はくうん) 寺の西坊・威徳(いとく) 院に連歌師を含む知人たちを集めて、連歌会を催している。
いわゆる「愛宕百韻(ひゃくいん) 連歌会」
この時の、惟任日向守(光秀)の発句は
「ときは今あめが下知る五月哉(さつきかな) 」。
何とも、意味深な発句だ。
勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』
勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』に、
二十六日、雨降り。….。清水にて能興行あり。(その折)城介、徳河、穴山に、城(白酒)をくわん(甘露寺)がふるまった。(原文”城介、徳河、あな山二城をくわんふるまい也)
勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』より
原文は暗号めいた不可解な文章。
城介は城之介、つまり信忠のこと。徳河つまり徳川家康、武田の旧臣穴山梅雪(あなやまばいせつ) 及び、勧修寺晴豊(はるとよ)らが出席したことが分かる。
当時の酒は清酒ではなく白い酒。
「城」をその訓読みシロ、キと二重に掛けてシロキ、つまり白酒(しろき) を含意させている。
幹事役は公家衆の首魁(しゅかい) の一人・甘露寺経元(かんろじつねもと)。さすがに境内は飲酒厳禁なので、近所の別の場所で少人数で、何かの飲み会が持たれた。
勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』6月17日の条
同じ勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』の6月17日の条に、こうある。
済藤蔵助(斎藤内蔵助(くらのすけ) 利三と申す者は明智の者で、武者である。彼などは信長を討つ談合の衆(の一人)で、生け捕られて車にて京中を引き回された。
勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』の6月17日の条
山崎の合戦の後、捕らえられた敗将の斎藤利三(としみつ)が洛中を引き回される際、晴豊が人混みの中で傍観して得た感想を日記に書き記した一節。
この「談合」とは何を指すのか。
おそらく、上記の5月26日の「飲み会」のことだろう。
そして、勧修寺晴豊は自分も出席していた「信長を討つ談合」と言っている。
つまり、この時の談合には、公家からは甘露寺経元・勧修寺晴豊・織田信忠・徳川家康・明智光秀・穴山梅雪らが参加していた。つまり、仲間だった。
ただし、
通説では、この「談合」は、光秀が利三ら家老5人に謀反の意向を打ち明けた夜の会合を指すとされる。
『信長公記』は、この時の会合を談合と表記し、家老たちと「談合を相究(あいきわ) め、
信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究めた」と述べている。
本来の、勧修寺晴豊らが参加した談合を、秀吉の意を汲む者たちが「光秀とその家老の談合」と言い換えてしまった、と筆者は主張する。
京都所司代村井貞勝父子、その弟、所司代兵、山城の与力衆、信長を供奉してきた近江奉公(勤番)衆、信長の馬廻り衆といった家臣団有志、さらに信長の2人の弟も加えた人々が、信忠を擁立するクーデターを画策していた。
つまり、光秀は単独ではなく、多数の仲間がいたと指摘する。
5月26日の談合に、家康の名もある?
さて、そうなると問題は、信長への謀叛の企みを練ったとされる5月26日の清水寺の「談合」に徳河(家康だろう)の名もあることだ。
これは、どうしたことだろうか。
信長死後、家康は、必死の伊賀越えを果たす。
筆者は、これをどう説明するのだろうか。
変の当日、急きょ上洛のため堺を出立して程なくしたところで、京の変事を知らされました。すると家康は泣きわめき、ただちに敵討ちに行く、それが叶わぬなら(徳川家と関係が深かった)知恩院に入って信長殿に殉じて腹を切ると言ってきかなかった、
儒学者新井白石の『藩翰譜』より
と伝わる。
この話は、江戸時代も中期にさしかかった頃の、儒学者新井白石の『藩翰譜(はんかんふ) 』に所収される話。
ずっと後の時代になって書かれた事なので、話には誇張もあるだろう。だが、家康が信長の死を想定外のことと捉えていたのだろうという。
家康も名を連ねた天正10年5月26日の談合が、たとえ「信長への謀叛の計画」であったにせよ、家康たちは、「信長を殺害するまでを目的としていなかった」ことが読み取れる。
では、何を目的としたのか。
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