
摂津国一ノ谷の鵯越、義経は何を考えていたか
源義経は、頼朝の腹違いの弟。義経は、東国武士を率い秀でた武将としての才を見せていた。
寿永3年(1184)正月、宇治川の合戦があった。義経は、水かさが増え急流となり恐ろしさを増す宇治川の渡河を決行する。この誰もが尻込みする宇治川渡河が、結果として木曽義仲を敗戦に追い込む。
勢いに乗る頼朝軍の義経は、宇治川の戦いの直後に一ノ谷で平家の大軍と相対した。
義経は、またしても平家の大軍を得意の機略と奇襲で攻めようと考える。
敵を殲滅するために最も有効なのは「奇襲」である。
義経は、敵の意表をつき、攪乱することが軍略の基礎・基本であることを知っていた。義経は、平氏の大軍が陣を引く真後ろにまわり込む計画を立てる。しかし、義経が直にひきいることが出来る人数は、わずか3千。この人数で、平氏の本陣に切り込む。
平氏の本陣の真後ろというのは、摂津国(大阪府西部から兵庫県東南部)一ノ谷の鵯越(ひよどりごえ)という。まるで屏風を立てたような断崖絶壁。およそ、後ろから攻め込むなど普通では考えられない。

ここは千丈の崖と言われ、人も近づくことを畏れる断崖です。途中には突き出た岩もあります。とてもここを降りるのは無理でございます。
この土地を調べた側近の武者が、顔色を変えて義経に進言した。義経は、じっとその武者の目を見つめ、静かに問う。



その崖を、鹿は通っているか。



雪の降り積もっているときは、さすがに無理なようです。しかし、雪が溶けているときには、鹿が通る姿が見られます。
義経は、眼光鋭く武者を見つめ、大音響を発します。



鹿が通れるところを、馬が通れぬ道理なし!
馬に乗るのは、一に心、二に手綱。我らにはその二つ共に有り!
皆の者臆するな。我に続け。
義経は先頭に立ち、真っ逆さまに落ちるような崖を駆け下りていく。義経のその姿を見た部下三千騎は、次々と義経の後に続いた。
平氏軍はというと、全く予想もしなかった陣の裏側からの源氏の兵の出現に慌てふためく。
これで戦の趨勢は決定する。



義経様、我らの勝ちにございます。
義経の部下たちは勝利を喜び、口々に義経の英断を褒め称えた。
義経 後日談
後日、義経が、鵯越について次のように語ったという。



敵に勝つためには、先ず味方に勝たねばならない。
味方に勝つというのは、自分に勝つと言うことだ。
『鵯越を眼前にして、怖じ気づく自らの心に打ち勝ったことで、義経は平氏に勝つことが出来たのだ』と語ったという。
水鳥の音で敗北した平氏
義経が鵯越で平氏に大勝利する4年ほど前、治承4年(1180)10月に、源氏と平氏が富士川を挟んで対峙する出来事があった。
この頃は、まだ頼朝が挙兵して間もない。京の清盛は、頼朝の軍勢が大きくなる前に討ち滅ぼしてしまおうと、孫の維盛(これもり)に頼朝征伐を命じた。
維盛は、東国に兵を進め、富士川の西側に布陣する。その数およそ7万。
一方源氏は、各地から兵が集まり、およそ20万の大軍となっていた。
維盛は、東国の武将、斉藤実盛(さねもり)を呼んで「東国の武士とはどんなものか」と尋ねる。
実盛は答える。



東国武者は、乗馬に優れ、例え自らの親や子が戦で死んでも、その屍を乗り越えて戦います。平氏のように、戦の最中に親や子が死んだら戦を止めて法要をするなどと言うことはありません。
と、東国の武士の強さ・心の豪胆さを語ります。
さらに、次のように言います。



東国武士は、戦上手で『まさか』と思われるような戦略を用います。甲斐や信濃の源氏たちは地理にも詳しいので、遠回りをして平氏の背後から襲って来るやもしれません。油断召されるな。
実盛としては、維盛の気持ちを引き締めるために言った。しかし維盛は、なんと実盛の言葉に怖じ気づいてしまう。
そんなところに、闇に紛れ源氏の一隊が川を渡って平氏の背後を突こうとする。
芦原には無数の水取りが眠っていた。
川を渡る源氏軍に、水取りが驚き、「バサバサバサ」と無数の水鳥が飛び立った。
「すわ、源氏の大軍が攻めてきた」
と、平氏軍は大混乱に陥ってしまう。
大将が、自らの心に負けてしまうと、水鳥の羽ばたきにさえ負けてしまう。
敵に勝つためには、先ず味方に勝たねばならない。
味方に勝つというのは、自分に勝つと言うことだ。
日本の心を学ぼうとする者は、義経の言葉を心に留めて置きたい。




義経の戦略と知られざる側面(25.3.13リライト)
一ノ谷の戦いの実態
義経が率いた一ノ谷の奇襲は、実際には70騎という少数精鋭部隊で行われたという説もあります。
「東鑑(あずまかがみ)」によれば、「源九郎(義経)が七十余りの勇士を率いて、一ノ谷の地域の後ろの山(鵯越と呼ばれる)に到着した」と記されています。
この記述は、義経が3000の兵ではなく、わずか70騎ほどの精鋭部隊で断崖絶壁を下ったという説を支持しています。
また、義経は当初3000の騎兵を率いていましたが、三草山の戦いの後、7000の騎兵を土肥実平に与え、別行動を取らせたとも伝えられています。
この戦術的判断により、義経は西側から、土肥実平は東側から同時に攻撃を仕掛けることができました。
平家物語と史実の違い
「平家物語」と実際の歴史記録には、いくつかの相違点があります。
「平家物語」では義経が3000の騎兵と共に鵯越から一ノ谷へ「逆落とし」を実行したと描写していますが、「東鑑」では鵯越へ向かったのは「約70名の勇敢な騎兵」と記されています。
この数の違いは、物語の脚色と実際の戦術的現実の差を示しるといえるでしょう。
また、「逆落とし」の場所についても議論があります。一ノ谷説と鵯越説があり、現在の主流は一ノ谷説ですが、「平家物語」や「東鑑」の記述から、鵯越(一ノ谷地域から東へ8キロメートル)で戦ったという鵯越説を強く支持する歴史家や専門家もいます。
義経の軍事戦略の本質
義経の軍事戦略の核心は、馬の機動力を最大限に活用することでした。
一ノ谷の戦いでは、義経は戦力を分割し、一部が東から西へ海岸沿いに平家軍を攻撃する間に、自らは山の尾根(鵯越)から奇襲をかけました。
この予想外の背後からの攻撃が平家陣営に混乱をもたらし、彼らは海へと逃げ出したのです。
義経のこの戦術は後の戦略家にも影響を与えました。彼は地形を巧みに利用し、敵の予想を裏切る行動で勝利を収めたのです。
屋島の戦いにおける奇襲戦術
義経の戦略的才能は一ノ谷だけでなく、屋島の戦いでも発揮されました。屋島は香川県西部の半島で、瀬戸内海に突き出ています。平家軍は義経が海から攻めてくると予想し、深い入り江に陣を構えていました。
しかし義経は、嵐の風を利用して摂津(大阪)から徳島県小松島市までわずか2〜3時間で航海したのです(通常は4日かかる距離)。
この迅速な移動により、義経の騎馬武者は平家を背後から奇襲することができました。
義経の人間像と悲劇
義経の歴史的記録は、頼朝との1180年の出会いから1189年の平泉での自害まで、わずか8年間しかありません。
22歳で日本史の舞台に登場し、31歳という若さで命を落としました。
義経は卓越した戦略家でしたが、政治的な駆け引きには長けていませんでした。頼朝との確執が深まり、最終的には平泉の藤原秀衡の元へ逃れましたが、秀衡の死後、その子基衡によって自害に追い込またのでした。
源平合戦の転換点
一ノ谷の戦いは、源平合戦の流れを決定的に変えてしまいます。この勝利により、源氏は屋島の平家本拠地への攻撃への道を開きました。
源平合戦の主な戦いの流れは以下の通りです:
- 1183年:福隆寺の包囲戦
- 1184年:宇治川の戦い(二度目)
- 1184年:粟津の戦い(義仲の敗死)
- 1184年:一ノ谷の戦い
- 1184年:児島の戦い
- 1185年:屋島の戦い
- 1185年:壇ノ浦の戦い(最終決戦)
一ノ谷の戦いの詳細な経過
一ノ谷の戦いでは、義経が西から10,000の兵を率いて攻撃し、一方で頼朝の弟範頼が東から50,000の兵を率いて攻撃したとされます。
3月18日、義経は三草山に到着し、夜間に攻撃を開始しました。「平家物語」によれば、生き残った守備隊は海岸へ逃げ、500人の死者を残して四国へ渡りました。
義経はその後、土肥実平に7,000の兵を率いて一ノ谷の西側へ向かわせ、自らは残りの3,000の兵を率いて崖の上から攻撃します。
源氏の勝利により、四国の屋島にある平家の本拠地への攻撃への道が開かれました。
義経の戦術が後世に与えた影響
義経の大胆な戦術、特に一ノ谷での「逆落とし」は、日本の軍事史において伝説となりました。彼の戦術は、後の戦国時代の武将たちにも影響を与え、不可能と思われる地形を利用した奇襲攻撃の先例となったのです。
また、義経の「敵に勝つためには、先ず味方に勝たねばならない。味方に勝つというのは、自分に勝つと言うことだ」という言葉は、単なる軍事的な教訓を超えて、日本の武士道精神の本質を表しています。
自己の恐怖や迷いに打ち勝つことが、真の勝利への第一歩であるという教えは、現代においても価値ある知恵です。


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