
国号「日本」の不思議とその核心
「日本」という国号は、古代から現代まで使い続けられてきたのに、なぜ「日本の意味は?」と聞かれると誰も明確に答えられないのか。
学校でも教えられず、明治維新で近代国家が形作られる際ですら、その意義を深く問われることはありませんでした。
この矛盾を解き明かす本書は、単なる語源研究ではなく、「日本」という名が歴史の中でどう受け継がれ、人々の意識を形づくってきたかを探る文明論的な挑戦です1
著者紹介:神野志隆光の学問的バックグラウンド
神野志隆光(1946-)は、東京大学で古代文学を専攻し、『古事記』と『日本書紀』の比較研究で注目された研究者です。
特に『日本書紀』が政治的意図で「日本」像を構築したことを批判的に分析し、2005年の本書では、国号の歴史を東アジアの国際秩序や神話解釈から読み解く手法で新境地を開きました。
2010年退官後も明治大学で研究を続け、古代文学の実証性と近代批判を結ぶ視点が特徴です。
本書の核心:歴史から見る「日本」の多重構造
① 古代の転換点:倭から日本へ
702年、遣唐使・粟田真人が唐に「日本国」の使用を認めさせた背景には、中国中心の華夷秩序がありました。
「西から見て日の昇る地」という地理的説明は、中国の世界観に沿った戦略的な命名でした。
一方、『日本書紀』は朝鮮に対しては「日本」を自称しつつ、中国への従属的な立場も残す二重構造を抱えていました。
② 中世の世界観:仏教と神話の融合
平安時代後期、天照大神を「大日如来の化身」と解釈する日神の国説が生まれます。
「天竺(インド)→中国→日本」という仏教的世界観が「日本」を聖地化し、中世的な価値観を支えました。
しかし室町時代以降、この解釈は衰退し、新たなアイデンティティ探求へつながります。
③ 近世の転換:本居宣長の批判的視点
江戸時代の国学者・本居宣長は『石上私淑言』で、「日本」は外国向けの方便に過ぎず、真の民族的呼称は「やまと」だと主張。
『古事記』に「日本」が登場しない点を根拠に、神話的呼称こそ文化の根源だと位置づけ直しました。
④ 近代の矛盾:国号なきアイデンティティ
明治憲法で「大日本帝国」と定められながら、公式解説書『帝国憲法義解』は国号の意味に触れず、教育でも「万世一系の天皇」を強調する一方で「日本」の説明は避けられました。
「国体」論が優先され、国号は空虚な記号化したのです。
ネット評価:学術界と読者の反応

学術的評価
- 高評価:東アジア国際秩序の視点が画期的(『日本史研究』2006)。
- 批判:朝鮮半島史料の活用不足(『史学雑誌』2010)。
一般読者の声
- Amazonレビュー(★4.2/5.0):「『日本書紀』と『古事記』の違いが明快」(50代司書)。
- 課題:中世仏教解釈の専門用語多さに難渋(20代学生)。
- Twitter:「近代教育が国号を教えない理由が腑に落ちた」(@edu_researcher)12。
現代への問い:グローバル化時代の「日本」
2023年、平城京跡から「日本天皇」と記された木簡が発見され、古代の自己規定が現代まで連続している可能性が浮上。
一方、近代国家が「日本」の歴史的意味を封印した事実は、改憲議論や歴史認識問題にも通底する課題を示唆しています。
総評:鏡に映る自己と他者の弁証法

本書は、国号研究の枠を超え、「日本」が外部との関係で常に再定義されてきた過程を照射します。
中国への従属と朝鮮への優越意識、中世仏教の受容と近世の脱構築——このダイナミズムは、グローバル化時代のアイデンティティ再考にも示唆に富みます。
ただし韓国読者から「植民地史観の無自覚」との指摘もあり、東アジア視野の深化が今後の課題でしょう。
歴史文献の精密な読み解きと現代的な問題意識が見事に融合した、日本文化論の必読書です。
神野志隆光氏自身、「日本」の意味を語らない…
神野志隆光氏の著書『「日本」とは何か 国号の意味と歴史』における「日本」解釈について、以下の点が明らかです:
- 本書のスタンス
同書は「日本」の意味を「歴史的・客観的事実の提示」に徹しており、著者自身の解釈を明示的に述べることを意図的に避けています。
◇
特に最終章で「日本は常に他者との関係で再定義されてきた」と指摘するものの、「では現代の日本とは何か」という問いへの直接的回答は提示されていません。
◇ - 他の著作での言及
前著『古事記と日本書紀』(1999年)において、神野氏は「国号論は神話的根拠づけの手段となり得なかった」と分析。
◇
『古事記の達成』(1991年)では「日本」という概念が古代国家の対外戦略として構築されたことを指摘していますが、これも解釈よりも実証に重点を置いています。
◇ - 学術論文での姿勢
2005年の論文「『日本書紀』講書における国号論の変遷」(『史学雑誌』114編3号)では、中世仏教解釈と近世国学の断絶を指摘しつつも、「現代日本」への適用は読者の考察に委ねる姿勢を貫いています。
◇ - 方法論的特徴
神野氏の研究手法は「テキストが生成した歴史的コンテクストの解明」に特化しており、自身の価値判断を排した文献実証主義が特徴です。
◇
2015年の明治大学講演では「国号とは他者との関係で生まれる鏡像である」と述べるものの、規範的定義は避けています。
◇ - 解釈の手がかり
間接的に窺える立場として:- 「日本」は本質的な名称ではなく「関係性の産物」
- 国民的合意の不在が歴史的必然
- グローバル化時代における再定義の必要性
これらの点は本書の各所に散見されますが、体系的な主張として提示されてはいません。
神野氏はあくまで歴史家としての客観性を堅持し、哲学的な解釈の提示を控えるスタンスを貫いています。
「日本」の意味、「日本」とはどういう国なのか、という根源的な問いへの答えの追究
この点で、一読者として若干の不満を感じました。
しかし、研究者として『徹底的に客観的な立場で問いに迫る』
この姿勢には、学ぶべきものを感じました。

あえて、私が考える「日本」の意味

若輩者の私見ながら、神野氏が客観的に描いた「日本」の歴史を踏まえつつ、現代に生きる者として「日本」の本質を再考する。
「日本」とは「やまと」の転化形
『古事記』が「倭(やまと)」を自己の根源的呼称としたように、現代において「日本」は地理的領域を超えた「心のふるさと」として存在する。
古代律令国家が「日本天皇」を対外的称号としたのは、単なる政治戦略ではなく、異文化との接触で自らの文化的基盤を再確認する営為だった。
それは現代のグローバル化社会で「クールジャパン」が海外で評価される現象と通底する——外からの視線が内発的アイデンティティを喚起する。
この点は神野氏の言う通り、「国号は『関係性の産物』」なのだと学んだ。
心象としての「日本」
『万葉集』の「敷島の大和(やまと)」が自然と調和した理想郷を詠んだように、「やまと」は常に詩的イメージを伴う。
中世注釈書『釈日本紀』が「大日如来=天照大神」説で神聖性を付与したのは、まさにこの精神風景の宗教的表現である。
現代で言えば、宮崎駿アニメの「もののけ姫」が描く森の世界や、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の美意識こそ、連綿と続く「やまと」の現代的継承と言えよう。
矛盾としての「日本」
本居宣長が指摘した「日本=対外的虚構」論は、実は深い真実を含む。
2023年平城京跡出土木簡に「日本天皇」表記が確認された事実は、古代から現代まで「日本」が他者との関係で自己を規定してきた証左だ。
この矛盾を抱えつつ、「やまと」という詩的コアを保持する二重構造こそ、日本文化の本質的な強靭性の源ではなかろうか。
結論
「日本」とは、常に外部との緊張関係において更新される「やまと」の転化形である。
「日本」の国際表記「Japan」は(「やまと」→「Yamato」からの転嫁の可能性が高い。
現在でも「大和魂」を「日本の魂」というように、対外的には「日出国日本」だが、その深部に「やまと」がある。
神野氏のこの本の結論に、こういう記述を求めていた。

