○義家は、都の武士に戻ることを選択し、義光は地方武士として生き残ることを選択した。
前九年の役で頼義を勝利に導いた清原氏
頼義の鎮守府将軍としての任期が切れる少し前まで、安倍一族は、頼義に恭順していました。しかし、貞任の命が危険にさらされてまで頼義に恭順することはできません。
意を決した安倍頼時は、息子の貞任を差し出せという命令を無視します。これにより再び戦が勃発します。
頼時自身は、戦いの中で戦死しますが後を継いだ安倍貞任や、中心として戦う藤原経清らの活躍により天喜5年(1057)「黄海(きのみ)の戦い」(貞任が頼義軍を迎え撃つために築いた河崎の柵が有名)で、安倍一族は大勝します。
このとき、敗れた頼義の周りには、息子の義家を含んでわずかに6騎しか残っていなかったと伝えられるほどの大敗でした。
頼義、もう一人の俘囚の長、清原武則を味方にする
しばらくの間、惨敗の余波を引きずっていた源頼義でしたが、このまま東北を引き上げてしまったら部門の家のトップとしての面目が立ちません。
苦肉の策として、陸奥の反対側の出羽の地を押さえていた清原氏に援軍をしてもらえるように工作しました。
清原氏も俘囚の長です。身分のある源氏の部門のトップが頭を下げるには抵抗があったことでしょう。しかし、背に腹は代えられません。
安倍氏滅ぶ
このようにして、頼義が大敗を期した黄海の戦いの5年後、康平5年(1062)、出羽の清原一族の長、武則の援軍を得て安倍一族は滅びました。
この時の功により清原武則は、従五位の下の身分を朝廷から正式に賜っています。さらに、遠い先祖が貴族の末裔であるにせよ、俘囚とよばれる人物が鎮守府将軍の地位を得ました。
このことは、奥州独立の呼び水となっていきます。
安倍一族の敗北で、将来の藤原清衡はどうなったか
安倍一族の滅亡により、藤原経清は頼義によって斬殺されます。武勇の人である頼義を同じ武勇によって散々悩ませた人物です。よほど怒りが深かったらしく、痛みや苦しみが長く続くようにと、錆びた刀によるのこぎり引きの刑で殺されました。
安倍頼時の娘で清衡の母である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)は、敵である清原の武則の嫡男武貞の後妻とされました。そして、清衡も母と共に、武貞の義理の息子となりました。
奥州藤原氏の祖である清衡は、藤原と安倍の血を引き、清原に育てられるという複雑な育ちをしたわけです。
清衡は、1056年(天喜4年)の生まれなので、安倍氏滅亡の1062年(康平5年)当時は6歳ぐらいです。記憶のほとんどは清原一族の中での生活でしょう。
佐竹家祖 新羅三郎義光登場
頼義が安倍氏とまだ蜜月関係にあった天喜3年(1055)、頼義は陸奥で生まれたと「佐竹家譜」にはあります。
母は、八幡太郎義家と同じ平直方の娘。直方の娘を母とする頼義の男子は、義家・義綱・義光の3兄弟です。
陸奥で生まれ、陸奥で育った義光は、蝦夷語を話すことができたはずです。
後三年の役の背景
前九年の役から約20年後、永保3年(1083)後三年の役が始まります。
安倍氏滅亡後、陸奥と出羽の両国は清原一族によって支配されていました。しかし、清原真衡(さねひら)には子がいません。そこで、清原家では、海道平氏と、源頼義の娘(常陸大掾の孫娘)を娶せて清原一族に向かえる計画を立てました。
頼義の娘は、頼義が陸奥に向かう時に立ち寄った多気致幹の娘の子です。そうなると、このとき既に30歳を越えてしまうことになります。現代ならいざ知らず古代において30過ぎの花嫁とは、どうも疑わしい気もします。しかし、源氏と常陸大掾の両方の血を引くというのは多少の年齢の高さを跳ね返す魅力ともいえますから、一概に疑わしいともいえない微妙な線です。
とりあえず政略結婚の匂いのプンプンする婚姻が進められようとしていました。
後三年の役の原因『清原真衡と一族の吉彦秀武のトラブル』
秀衡と頼義の娘の婚姻の席で、真衡と清原一族の吉彦秀武(きみこのひでたけ)の間に、トラブルが発生しました。砂金を持って祝いに駆けつけた秀武を真衡が意図的に無視をしたことで起こったトラブルとされています。
吉彦秀武のは、真衡と対立するであろう兄弟の家衡や、安倍の子清衡に働きかけ、真衡に戦いを挑みました。これが後三年の役の始まりです。
しかし、清原一族の実権を海道平氏に渡すことに反対する勢力の代表が吉彦秀武だったのではないかと思います。
もしかすると海道小太郎成衡以前に清原氏の実権は海道平氏に渡っていたとする学者もいます。その根拠は、以下の清原氏系図にあります。
清原氏系図①を見ると、清原武則は平安忠の子です。安忠は海道平氏の祖とあります。つまりこの系図だと、清原氏は、武則の代から実質海道平氏の血が主流になっていたことになります。ズバリ言ってしまえば、清原は平氏に乗っ取られていたということです。
もしそうであるなら、子の無い真衡が海道平氏から成衡を養子に取り、後を継がせようとしたことに合点がいきます。また、清原一族の吉彦秀武が真衡に冷たくあしらわれたことも納得がいきます。おそらく秀武は、清原一族の中から清原本家を継がせるべきで、平氏から養子を取るべきではないと考えたのだと思います。
ただし、一般的な清原系図は②の方です。この系図だと、清原氏は天武天皇から出て地方に降った貴人です。清原の別流にあの清少納言がいる名門ということになります。
どちらの系図が正解かは分かりません。私としては、②の流れのどこかで①のように平氏の血が入ったのではないかという気がします。
謎に満ちている海道小太郎成衡
後三年の役の原因となる清原成衡(海道小太郎成衡、平成衡)は、実はこの後歴史から忽然と消えてしまいます。ただし、「大中臣氏略系図」に中郡頼経が永暦元年(1160)に成衡を討ち取ったという記述があります。後三年の役は、1183年から1087年です。このときから70年以上たっているのに成衡が死んだのは51歳だったとあります。明らかに年代が合いません。
白水阿弥陀堂の建立
また、成衡を失った妻(清衡の養女・頼義の娘・多気致幹の孫)は、出家して徳尼と名乗り白水阿弥陀堂を建てたとあります。しかし、白水阿弥陀堂が作られたのは永暦元年(1160)年だそうです。中郡頼経に討ち取られたのがこの年ですので、もしかしたら海道小太郎成衡が2人いたのではないでしょうか。
下のように諸説あります。
少なくとも徳尼は、成衡の妻ではないでしょう。1160年には、100歳を越えてしまうからです。
○ 白水阿弥陀堂(国宝)は、藤原秀衡の妹徳尼の建立と伝えられる〈文化庁より)
○ 徳姫は、岩城氏の始祖とされている岩城則道の妻(岩城成衡説もある)。則道の死後、徳姫は剃髪して尼となり、徳尼御前と呼ばれました。夫、則道の冥福を祈るため、白水阿弥陀堂を建立したと伝えられていますが諸説あるようです。(いわき市総合図書館より)
後三年の役に源義光登場
寛治元年(1087)、都に兄義家が東北で苦戦をしているという情報が入ってきました。このとき義光は都で官職に就いていました。その官職をなげうち、出羽の金沢柵へ兄を助けるために駆けつけていきます。
戦前の教科書には、「兄を思う美談」として載せられていました。後三年の役への義光の登場です。
菊田荘を巡る白河院の寵臣、藤原顕季との争いは、生き残りをかけた『義光の選択』
後三年の役に勝利すると、兄の義家は都の武士への復帰を望みました。対して義光は地方に残る道を選びます。地方の拠点としてまず菊田荘に力を注ぎました。
菊田荘は、陸奥の入り口の地です。そのころ菊田荘は六条院領となっていました。六条院とは、白河院の第一皇女媞子(ていし)内親王の御座所であり、媞子の死後は、御所を持仏堂として六条院御堂と呼ばれました。
藤原顕季の生母は、白河院の乳母です。つまり顕季と白河院は乳兄弟でした。当然白河院から優遇された人物です。このことから考えると、菊田荘の本家は白河院、領家職が顕季、そして預所職が義光だったのだと思います。
この時代を知るには、荘園の本家・領家・預所の関係を知る必要がありますが、ここでは深入りを避けます。
白河院の取りなし
義光と顕季が菊田荘の利権を巡って争っていると、白河院が二人を取りなしました。白河の取りなしは、その後の義光にとって大変な吉事となります。これ以後、義光は、顕季と主従関係を結ぶことになり、中央とパイプをもつ地方勢力として成長するきっかけを得たのです。
義光はなぜ菊田荘とかかわりをもったのか
菊田荘の開発は、菊田郡権守海道平氏の平安忠(海道平氏系図参照)でした。安忠以後も海道平氏に継承されていくことになります。しかし後三年の役で政情が不安定になると、海道平氏一族は、菊田荘を六条院に寄進したのです。おそらくその寄進の際に都に取り次いだのが源頼光だったのだろうと思われます。これによって、義光は菊田荘とかかわりができ、この後この地を拠点の一つとしていきます。
義光南下し、依上保に進出する
後三年の役から10年が経過した頃、義光は菊田荘から八溝山系を越えて常陸に入り、久慈川沿いの依上保に手を伸ばします。現在の久慈郡大子町です。
金砂郷から佐竹郷の馬坂城へ進出しました。佐竹氏の祖、源義光の常陸進出の足がかりができました。
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