延元元年(1336)末の南北朝の戦いの概要
延元元年(1336)の11月頃には南朝,北朝の攻守が逆転して北朝有利となっていました。南朝方(官軍)将軍の北畠顕家(親房の子)は奥羽の各地を転戦しています。
佐竹氏の動向(瓜連城進撃)
佐竹氏は,北朝方(足利方)有利の機運に乗じて,延元元年(1336)12月2日,暮れも押し迫ったときに大軍を率いて瓜連城に進撃しました。
南朝方(官軍)もよく応戦したのですが,官軍を押し切り11日に瓜連城を落城させました。
瓜連城落城は,南朝方に大きなダメージを与えます。
小田治久の小田軍,大掾高幹の大掾軍は領地に逃げました。
さらに那珂通辰率いる那珂一族がほぼ壊滅状態となりました。これによって那珂西の領地は北朝方の佐竹氏の手に落ちたのです。
北畠顕家,難を逃れるため霊山城に入る
延元2年(1337)正月,鎮守府大将北畠顕家は,義良(よしなが)親王を奉じて伊達郡の霊山城に移りました。この城は天険の城です。
これを期に,白河結城の結城宗広・親朝父子は領地に引き上げました。
このころ,吉野の朝廷(南朝)からは ,「速やかに奥羽の大軍を率いて京都に攻め上れ」という命令が届きます。また,別に越前の新田義貞からも,同じ内容の書状が北畠顕家に届いています。
当然顕家もそうしたかったでしょうが,周りの情勢がそれを許しませんでした。
佐竹氏が奥羽侵略をねらう
京に攻め上りたい北畠顕家に対し,佐竹氏は,周りの北朝軍と連携し,奥羽を侵略する形成を示します。
将軍顕家が,京に攻め上るためには,佐竹氏などを撃破することが先です。そこで,顕家は,霊山城を出て,宇都宮に官軍(南朝軍)を集結させて佐竹氏などの討伐を開始しました。
関城落城の危機
南朝方将軍北畠顕家の動きに対し,北朝方はすぐ対応し,関宗祐の関城を襲う動きを示しました。
宗祐は,兵を中沼渡に出して,北朝軍と戦いましたが敗れて,城に退いて籠城戦になりました。関宗祐はかろうじて城を守りきりましたが,北朝軍は,城の付近の村々に放火し数百軒の家を焼いて引き上げました。
小田城の危機
さらに北の北朝軍に加え佐竹義篤が,これに呼応して小田城を攻めました。小田治久と大掾高幹はともに兵を連ね,激戦の末に北朝方の兵を押し返しました。
小田城の攻防戦によって,北朝方は兵を引きます。
そして北朝方が兵を引いたのを見て,北畠顕家も京都進軍を諦め,宇都宮から霊山城に引き上げました。
北朝軍の次の一手
延元2年(1337)3月,顕家が霊山城に引き上げて間もなく,佐竹義篤らは,今度は,大掾高幹の石岡城に兵を送りました。小田治久はすぐに反応し,援軍を送り協力して佐竹軍を退けます。
また鹿島郡の北朝方などが,海道から陸奥に侵入しました。これに対して南朝軍(楠木正家など)が対応し,両軍とも多くの死傷者を出して,互いに兵を引きました。
吉野朝廷の願い
このように北畠顕家は東で起こる数々の戦いに対応するため,本来は西に向かう余力はありません。しかし,吉野朝廷は,「何とかして大軍を率いて助けに来てくれ」と奥羽の勢力の西での戦いへの参加を熱望していました。
顕家の苦渋の決断
吉野朝廷の願いに何とか答えるため,顕家は延元2年(1337)9月,白河結城の結城親朝と小田時知を奥羽の留守役として,自らは義良親王とともに,結城宗広らを従えて霊山城を出たのでした。
顕家軍の関東での戦い
まずは,下野の小山氏と下妻結城氏の戦いで勝利します。幼い二人の領主を虜にしましたが,白河結城の宗広は同族であることも理由に,後でそれぞれ国に帰しました。
次に小瀬義春(常陸源氏佐竹貞義の三男,佐竹義篤の弟)との戦いで南朝軍は勝利し
春日顕時,楠木正家,小田治久は,宇都宮で将軍北畠顕家に面会しました。
顕家軍鎌倉に入る
延元2年(1337)12月16日,顕家軍は宇都宮を出て,鎌倉に向かいました。
鎌倉を守る足利義詮らは,利根の渡まで出て南朝軍を防ぐ試みをします。このとき,吉野から宇都宮に帰っていた宇都宮公綱が南朝軍に合力するため,宇都宮から出陣しました。
宇都宮の動揺
このときに宇都宮では,重臣芳賀氏が公綱の留守をねらい謀反を起こします。鎌倉を目の前にした一大事でした。
この謀反に対し顕家は,すぐに兵の一部を宇都宮に送り謀反の鎮圧を図りました。謀反は3日で制圧されましたが,宇都宮領内では,この後も動揺が続きました。
新田義興,北条時行合流
12月23日に,新田義貞の子義興が,顕家軍に合流しましす。その数3万と言われます。
さらに,吉野に帰順していた北条時行が伊豆の兵5千を引き連れて参陣しました。3軍が呼応し鎌倉を攻めたので,義詮たち北朝の足利軍は敗走し,鎌倉は南朝軍によって落ちました。 南朝軍は,延元3年(1338)の正月を鎌倉で迎えることとなりました。
近畿にたどり着いた奥州勢
延元3年(1338)2月後半,途中優勢に戦いを進めていた南朝軍でしたが,近畿に入ると疲労が重なり,勢いが振るわなくなってきました。
まず北朝軍の将,桃井直常(もものい・なおつね【ただつね】)に敗れ義良(よしなが),宗良両親王は吉野に逃げ,顕家は河内に逃れました。
北畠顕家 死す
顕家軍は3,4,5月に幾度か戦いましたが勢いは回復しませんでした。そしてついに延元3年(1338)5月22日,高師道に破れ,境浦の石津で21歳の生涯を終えます。
それより所々の合戦あまたほど,たがひに勝負侍りしに,同五月和泉の国にてのたたかひに,時やいたらざりけん,忠孝の道ここに極まりはべりにき。こけの下にうづもれぬ物とては,ただいたづらに名をのみぞとどめて,心うき世にも侍るかな 【神皇正統記より 訳】
顕家の死を知った常・毛・総の動き
顕家の死を知ると、東国の南朝方は動揺を深めます。常陸平氏大掾一族は,かねてから一族の結束が弱くある者は南朝方,ある者は北朝方にくみしていました。
ただでさえ南朝軍の旗色が悪く、佐竹軍の侵略が激しい中、大掾高幹はついに佐竹に屈し北朝軍に下りました。
これを知った小田治久は,大掾氏の居城石岡城を攻めました。小田・大掾の戦いは決着がつかず,小田治久は兵を引きましたが,大掾氏の寝返りによって南朝軍の勢いは著しく不利になりました。
そしてこの年延元3年9月に,北畠親房一行が東条浦に漂着することになります。
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