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淡海乃海「三英傑に嫌われた不運な男 朽木元綱」ではなく「すごく幸運な男 朽木基綱」の生涯を描く

「淡海乃海」は史実では名を残す武将とはなれなかった、朽木元綱を主人公とした『転生モノ』のライトノベル。異世界転生モノは多いが、時代劇風にアレンジされた作品は少ない。転生モノ好き、歴史モノ好きの方にお勧め。

目次

朽木竹若丸(基綱) 家督を継ぐ

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ご隠居様、ご隠居様!

騒ぐな! いかがした。

宮内少輔様(くないしょうゆう:従五位の下に当たる官位:ここでは朽木晴綱を指す)、川上荘俵山にてお討ち死に!

うろたえるな!人間50年 化天の内を比ぶれば 夢幻の ごとくなり。
落ち着いたか!
みな、俺と死ねるか。
俺と死ねる者は残れ!

と叫ぶ竹若丸(基綱幼名)
この時、若干2歳。

2歳で朽木基綱(史実:元綱)が家督を継いだのは、史実上も正しい。
だがもちろん、たった2歳の幼児がこんなことを叫べるはずはない。
これは、『淡海乃海 水面が揺れる時』という、転生ものの小説の中でのお話。

小説内では、この2歳の竹若丸は、現代に生きたややくたびれた壮年男性が、戦国時代に転生したという設定。
2歳の体の中に、50歳前後の歴史好きおっさんの魂が入っている。

「淡海乃海」では史実同様、基綱の父の晴綱は、本家筋の高島七党の高島越中に攻められて討ち死にしてしまう。
当主が戦死するという、お家存亡の危機。
この危機の最中に、竹若丸は敦盛(『人間50年~』)を吟じ、家来たちのうわずった心を一瞬で落ち着かせる。
若干2歳の竹若丸の鼓舞により、闘う心を取り戻した朽木勢。しかし、この時は高島軍は朽木谷に攻め込んでこなかった。

討ち死にした基綱の父である晴綱(はるつな)が、高島軍に大きな痛手を負わせていた。それにより、高島勢も朽木を攻める余力がなく、追撃を断念したのだった。

若干2歳で朽木家当主となった基綱は、わずかに得た平和の時を利用して、「殖産興業」「富国強兵」政策を始める。前世で得ていた織田信長の政策を真似したわけだ。

武士の世の中では、「銭を蔑視する」思想があった。
現代でこそ貨幣経済は常識だが、封建時代は年貢米を基盤とした経済、言うなれば「封建経済」だった。年貢米だけでは、当然貨幣経済には勝てない。その事実を時を超えて知っている者がこの時代にいて、真正面から貨幣経済の実現に舵を切ったら、当然天下を制するだろう。

小説内の朽木基綱は、貨幣経済による発展を実現するべく素早く動いた。「澄み酒」や、「椎茸」「石けん」「綿花栽培」など、朽木の特産品を生み出して行く。時代を200~300年先取りして動いている。

基綱は、物品の取引で得た「銭」を使い「兵農分離」政策を推し進める。銭で雇った軍隊をつくることで、農繁期でも動かせる軍隊を手に入れる、史実では信長が取り入れた政策だ。

これらの政策によって、わずか3年の間に朽木の国力は増大した。

このような時に、京で戦に敗れた将軍の足利義藤(後の義輝)が、朽木に逃げてきた。実は、義藤が朽木に身を寄せたのは、2回目。
1回目は、竹若丸が家督を継いですぐ。二度とも三好氏との戦いに敗れた後に朽木にかくまってもらうことを目的に逃げてきたのだった。

将軍をかくまうことで三好ににらまれはするが、大きな戦は無く時は過ぎる。

家来たちは、幼児でありながら異常なほどの才能を発揮する竹若丸に、頼もしさを感じる。しかし、一人だけ竹若丸を疑う者がいた。竹若丸の生母だ。

「若干5歳の子が、殖産興業や富国強兵、銭で兵を雇うなどという考えができるものかしら。」

しかし、家来から、

「竹若丸様は、亡き殿に似ていらっしゃいます。殿は、朽木の当主として懸命に努めておいででした。竹若丸様もそうです。」

「あの子は、亡き殿に似ていますか。」

「はい。ようく似ていらっしゃいます。」

さらに2年が過ぎる。

竹若丸は7歳になった。朽木は国力をさらに増していた。しかし、将軍義藤は、いまだに京に戻れず朽木でいらだつ日々を過ごしていた。

そんな時、将軍義藤のもとに客人が訪れる。越後の領主長尾景虎(後の上杉謙信)だった。もちろん史実ではないが、朽木竹若丸は景虎に会うことになる。

なぜ、将軍は三好家の戦いで敗れたときに朽木に逃げてきたのか

史実を見ると、将軍が朽木元綱(小説中の基綱)をたよる理由がある。
朽木元綱(天文18年:1549生)の父、朽木晴綱(くつきはるつな)の妻、元綱の母は、飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)の娘だった。

飛鳥井雅綱は、身分の高い公卿である。つまり、朽木家はそのような高貴な身分の娘を嫁にできるほどの名門だ。

朽木氏の本姓は源氏。近江佐々木荘一体に勢力をもち、鎌倉時代以降は近江国朽木荘を支配した佐々木源氏の庶流であった。

さらに、鎌倉末期には、足利尊氏に従い、後醍醐天皇に敵対して各地で戦功をあげている。その結果、足利将軍家との繋がりを築き、将軍家の「奉公衆」となった。朽木氏は室町時代を通じて、代々幕府将軍に仕える身分の高い家だった。

このような理由で、朽木は身分の高い女性と婚姻でき、将軍が「かくまってくれ」と助けを求めてきたのだった。
このあたり、小説と史実がうまくマッチしている。

邪魔な将軍を京に帰し、高島七党を平らげる

永禄2年(1559年)年1月上旬、竹若丸は10歳、数えで11歳で初陣を迎える。
小説「淡海乃海」では、朽木は8千石からトントン拍子で領地を増やしていた。しかし、出る杭は打たれる。朽木の快進撃を良く思わない本家筋の高島一族(高島七党)は、到底受け入れられないような要求を竹若丸突きつけてきた。これにより、朽木と高島一党は戦となる。高島勢は総勢1200。対する朽木勢300。およそ4倍の兵力差があった。

朽木谷の地形を利用し、狭い谷を通ってくる敵勢に対し200丁の鉄砲を3段に分けて使う「つるべ打ち」作戦。
長篠の戦い(1575年)の戦術をこの段階で使う。とても痛快。信長の生まれが1534年の信長は長篠の戦いの時に25歳。桶狭間の16年も前に、わずか10歳、しかも初陣の朽木基綱が鉄砲のつるべ打ち戦法を行った。結果は、当然朽木の大勝利。前世の記憶が無ければ出来ない劇的勝利を納めた。

朽木竹若丸は、この戦いで高島家などが有していた安曇川一帯の領地を得て、一挙に2万5千石となった。
この戦いの裏には、実は六角家の陰謀がある。高島勢を使って朽木を滅ぼしたいと考えていたのだ。
そんなおり、六角家からの使いが朽木を訪れる。「戦いの申し開き」『自分たちは、今回の戦いには関係ありませんよ』ということをアピールすることが目的だった。

「六角家は戦をするつもりは無かったが、高島越中(高島七党の中心)が強引に戦に持っていってしまったのです。」

「では、こたびの一件は越中殿お一人の思い立ち。六角様は関係ない、ということですな。」

竹若丸が穏やかに使者に問いかける。

使者は、「そうだ」と答える。

竹若丸はそこへ、先の戦いで死んだはずの高島越中本人を引き出してくる。そして、越中に、「六角の使者は、越中にだまされたと言っているが、そうなのか」と問う。

越中は、当然のごとく「それはウソだ。今回の一件は六角家の依頼だ」と述べる。

使者は目を白黒する。
だが、竹若丸は、強引に、高島越中の方がウソをついていることにしてしまう。

なぜ竹若丸は、本当の事を言っていると知っている高島越中の言葉ではなく、ウソをついている六角家の使者の言い分を、「正しい」としたのか。

これには、10歳の竹若丸の老獪な戦略があった。
竹若丸のねらいは、『今回の一件(高島七党と朽木の争い)は、六角とは関係が無い、よって六角家抜きで、高島七党と朽木の和睦を行う(六角家の関与お断り)』ことを、六角家に確約させることにあった。
そして、竹若丸のねらい通りに六角家の使者との会談は終わる。

この和睦の後、高島七党の者たちは、六角家が自分たちを許さないと考えた。そして、自ら領地を捨てて蓄電してしまう。
これにより朽木竹若丸は、闘わずして5万石の大名となる。

死生命無く 死中命あり 

死生命無く 死中命あり(「論語顔淵:論語には「死生命あり、富貴天にあり」とある)とは、

『生死は天命によるもので、人の力ではどうすることもできない』の意味である。人の一生に定めなどない。ならば、絶望的な状況に陥っても、必死に活路を見いだすことが肝要ということだ。

この言葉は、幕末の行動する思想家であった長岡藩の河井継之助が好んで使った言葉だ。この言葉をここで遣ってくるのも、憎い演出。

竹若丸は、この言葉を川中島の戦いを直前にして朽木に訪れていた長尾景虎の使者に言う。

切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏み込み行けば あとは極楽」という宮本武蔵の名言を続ける。
「後世の武蔵の言葉を、朽木基綱が言ったことにしてしまったら、武蔵は嘆く。」と、思いもするが、まあ小説なので許されるか。

それにしても、この後に起こる『謙信と信玄の川中島での一騎打ち』を知っている転生者ならではの言葉だ。
上杉の使者が、基綱の言葉を謙信に伝えたから、「川中島の一騎打ちが起こった」という設定だ。

「淡海乃海」では、竹若丸のこの助言が、武田信玄の死を史実より10年早くするという結果につながる。物語上の戦国史を大きく変える伏線となっている。

史実 野良田の戦い

野良田とは、現在の彦根市あたり。
六角承禎(じょうてい)は高野備前守の寝返りに激怒し、肥田城に攻め寄せる。しかし、肥田城は浅井長政の援軍を得て六角を防ぎきる。永禄3年(1560年)の出来事。

援軍に向かった浅井長政と、六角氏の戦闘が野良田の戦いだった。六角承禎の総勢は2万5000人。対する浅井長政軍は総勢1万1000人。勢力は六角軍の半分にも満たなかった。緒戦は兵力で圧倒的な六角軍が浅井軍を押す。しかし、緒戦の勝利に油断した六角軍は、浅井軍の反撃で崩され、浅井軍の勝利で終わる、というのが史実。

「淡海乃海」の野良田の戦い

対して、「淡海乃海」では、六角家に従属していた浅井家が反旗を翻し、独立を目指して六角家と闘うことになったのは史実通り。だが結果は真逆になる。六角軍が大勝利する。

この戦いに、朽木竹若丸はどうかかわるか。

本来は戦いに参加したくなかった竹若丸だったが、六角家の策略によって参戦することとなってしまう。

竹若丸は300の鉄砲隊を含めた1000の兵を連れて行く。
転生者竹若丸は、この戦で六角家が負けることを知っている。本来六角軍の負け戦になるはずの野良田の戦いで、竹若丸は目を見張る戦果を上げることになる。

竹若丸は、まず戦の矢面に立たされぬよう鎧(よろい)を着込まず、あえて平服で参戦するという突飛な行動にでる。
竹若丸の思い通り、最前線に出ずに済んだ。後方で、戦の様子を見ながら出番をゆったりと待っている。

史実どおり、浅井軍は正午頃に崩れ始める。
本来の歴史なら、緒戦で優勢な六角軍が油断して形成を逆転されて、負ける。

だが、転生者の朽木竹若丸がいる六角軍はそうはならなかった。
六角が油断することを知っている竹若丸は、自らは油断すること無く浅井賢政(本来は、後に『長政』となる人物)が、六角家の本陣へ向けて突撃してくることを読み切っていた。

予想どおり浅井賢政が六角軍本陣を目指し突撃して来た。
その脇腹をつくように、朽木勢が痛烈な逆撃を加えた。

朽木の攻撃によって、何と浅井賢政(長政)はここで命を落とす


『え!織田・浅井同盟はどうなる?』
『お市の方は、だれと婚姻する?』
など、突っ込みどころ満載だが、
浅井勢は、賢政はじめ多くの重臣たちが「野良田」で討ち取られる結果となった。
史実大逆転の、六角家の大勝利

大戦果を上げた竹若丸は、六角家当主の六角義賢(承偵)に「どのような褒美がほしいか」と問いかけられる。
しかし、竹若丸は、意外な答えを返す。

「褒美はいりません。」
「六角家が、朽木家へ抱いている不満をお慰めできれば、それで十分でございます。」

と竹若丸は言う。

六角義賢は、竹若丸の答えに目を丸くする。
家来たちが集まる面前で、大手柄を立てた竹若丸にそう言われては、

「六角は、朽木家に不満を持っているぞ」と、明らさまに表明するわけにいかなくなった。六角義賢は、苦虫をかみしめながら「六角は朽木に不満などもってはいない」と、大勢の前で言うしかない。

六角義賢の言質を取った竹若丸は、ほくそ笑みながらその場を後にする。
義賢も自分を手玉に取った少年竹若丸の力量を、高く評価せざるを得なくなる。

「朽木が欲しい。」

と家臣たちに向かって叫んだ。

「淡海乃海」の中では、野良田の戦いによって、浅野長政となるはずの浅野賢政が死んでしまった。
こうなると、本来起こるはずの浅井と織田信長の同盟も、「長政の信長への裏切り」も、史実の「信長の朽木越え」もなくなってしまうように思える。

天下はどう動くのか。
「淡海乃海」は、史実とのギャップを予想しながら読む楽しみもある。
他の転生モノには無いおもしろさだ。

史実の朽木元綱

おそらく、相当な歴史好きでもなければ、朽木元綱の名は知らないとも思う。
朽木は、佐々木源氏の庶流ではあるが、歴とした源氏一族で室町将軍からも頼られていた。

元亀元年(1570年)の浅井・朝倉との戦い退路を断たれた織田信長京都撤退(朽木越えを助けた武将として名が残る。

この朽木越えを縁として、朽木は信長に仕えることになる。だが、信長は朽木をて高く評価しなかった。信長の命を救ったにしては冷遇のように思えるが、信長がそのように評価していたのなら、おそらくたいして能力の高い武将ではなかっただろう。

淡海乃海の朽木基綱

史実では、浅野に従属し縮こまる存在の朽木元綱だったが、「淡海乃海」中の朽木基綱は、信長に変わり浅井賢政(長政)を討ち取り、史実の戦国の世を大きく変えてしまった。

浅野賢政(長政)のいない世界では、信長の朽木越えは起きず、信長は天下をねらえるほどの大名に成長しない。

本能寺の変も起きない。信長は、「飲み水病」(現代の糖尿病か?)で死ぬ。面白いのは、学者の中に「信長は本能寺で死ななかったとしても、「飲み水秒」で、数年の命だっただろう」という説をとなえる方がいることだ。筆者は、この説を採用したのだろう。

こうなると、「淡海乃海」の中の天下は、朽木竹若丸を中心として動く。

観音寺崩れとは

史実では永禄6年(1563年)10月、六角義賢の後を継いだ息子の義治が、六角家の最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊(かたとよ)を、観音寺城内で惨殺した事件。

賢豊が義賢(承禎:じょうてい)の信任が厚かったことから、義治が賢豊を惨殺したのは、隠居してもなお存在感のある承禎の影響力を排除する目的だったとする説がある。

しかし、義治の思わくに反し六角家に仕える多くは、六角義治に対する不信感を逆に増してしまう。承禎も義治と共に観音寺城から追われるまでに至ったが、重臣の蒲生定秀賢秀父子の仲介で承禎父子ともに、観音寺城に戻ってくることができたという事件だった。

淡海乃海の観音寺崩れ

それに対し、「淡海乃海」では六角義治は、父親の義賢(承偵)弟の義定、そして、そして重臣後藤賢豊いずれも殺すことに成功してしまう。

六角義賢(承偵)をここで殺してしまうのは、朽木にとって都合が良すぎる。この時点で朽木を縛る六角氏という重しが取れたことになる。

しかし、六角義賢(承偵)の死は、浅井・朝倉・一色・京極・三好などが群雄割拠する近江周辺の力関係の均衡を崩す。

この期を逃さず、三好家の内藤宗勝が若狭を攻め取る動きを見せる。竹若丸も一向一揆の動きを見据え若狭に動き出す。同じように朝倉も動く。そうなると当面の敵は朝倉になる。基綱は、朝倉の背後をつくために敦賀を目指した。

武田信玄の死

武田信玄の死は、元亀3年(1572年)、三方原の戦いで織田・徳川連合軍を撃破した一年後の元亀4年(1573年)の4月12日に信濃で病没したという説が有力。

「淡海乃海」では、その10年前の永禄6年(1563年)、四郎信頼(淡海乃海では、勝頼ではなく信頼?)に家督を譲り病没する。

このあたりの設定はびっくり。史実の10年も前に信玄が死ぬとなると、戦国時代の歴史は大きく動く。信長、秀吉、家康がこの物語ではどう動くのか気になるが、おそらく朽木基綱が天下を取ることになるのだろう。

新たなる味方

信長との同盟

六角との縁が切れ、単独で史実で朝倉と闘う朽木に対し、同盟を申し出る者があった。史実では朝倉と闘うはずの織田信長だ。
織田は、近畿で一色と六角が手を結ぶことになると困る。そこで先を見越して朽木と手を結ぶ算段から、基綱に同盟を申し入れた。

朽木基綱にとっても願ってもない同盟だ。
基綱と信長は似ている。
同盟を結ぶに当たり、周りの者からはそう見られている。

転生者の基綱は、信長の生き様を知り模倣する部分も多いのだから当然だ。
関を排し、座を排し、商人を保護している。

旧武田家 家臣の受け入れ

さらに、武田の旧家臣という人物たちも基綱を頼って仕官してきた。
その中には真田幸隆(ゆきたか:幸村【ゆきむら】のおじいちゃん)もいた。信玄が史実より早く死んだことで、武田に見切りをつけた。

面白いのは、後年「幸綱」を名乗っている。朽木家の通字「綱」を遣っているのが面白い。

比叡山焼き討ち

近江で力を付けようとすれば、叡山との戦いは避けられない。
だが史実では、浅井も六角もそれを避け、信長がそれを実施した。
「淡海乃海」では、朽木基綱がそれを行う。

木ノ芽峠の戦い

朽木基綱は越前木ノ芽峠で一向一揆軍と向き合っていた。
一向一揆軍は、朽木軍の約3倍の兵力。
基綱は、夜襲を行って圧倒的に不利な状態から一向一揆軍の制圧に成功する。
一向一揆軍に勝った基綱は、次に叡山を攻めることを家臣に宣言する。

比叡山攻略

越前から戻った基綱は、叡山が朽木に兵を向けるよう仕向けた。
まんまと策にはまった叡山は、朽木に対して兵を動かす。

叡山が動くと、基綱は兵を急進させ、あっという間に叡山軍打ち破る。
叡山の兵は山に逃げ帰る。
おどろいた叡山は、全面降伏を申し出る。
だが、基綱は叡山の降伏の申し出を受け入れない。

「(淫乱・金銀をたくわえることだけにふける)叡山は、天下に害なす無用の長物、我れ、これを天に変わりて滅せん。」

と叫び、叡山を破却する。
「淡海乃海」では永禄8年(1565年)のこと。
この後、滋賀を手中に収めた基綱に、織田信長から「感服した」という手紙が届く。

史実の信長の比叡山焼き討ちは元亀2年(1571年)。
史実より6年も早かった。

【以上、「淡海乃海 水面が揺れる時の1・2巻を読んで」】令和5年4月4日

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