
「常人からはかけ離れたナイフの切先のような危うさ」–これこそが、天才詩人・中原中也の本質だった。
40年近く前に書かれながら「中原中也のイメージにマッチする俳優がいない」として封印されていた脚本が、ついに映画化。
その鍵を握ったのは、新進気鋭の俳優・木戸大聖でした。
彼は狂気と繊細さが同居する稀有な詩人の魂を、どのように体現したのでしょうか?
大正から昭和初期の京都と東京を舞台に、長谷川泰子(広瀬すず)、中原中也(木戸大聖)、小林秀雄(岡田将生)という三者の愛と芸術の軌跡が描かれます。
公開後、映画.comのアクセスランキングは64位から5位に急上昇するほどの話題作となりました。
この記事のポイント
- 40年近く映画化されなかった「幻の脚本」が実現した背景
- 木戸大聖が体現した中原中也の詩的世界観
- 複雑な三角関係と映画表現の融合
- SNSでも話題の衝撃的な演技の魅力
中原中也という謎めいた天才の実像

『ゆきてかへらぬ』の脚本は『ツィゴイネルワイゼン』や『セーラー服と機関銃』の田中陽造が40年以上前に書いたものです。
「中原中也のイメージにマッチする俳優がいない」という理由で多くの監督が熱望しながらも実現できませんでした。
山口の医師の家に生まれた特権と反逆
詩人・中原中也は1907年、山口県に医師の息子として生まれました。
木戸大聖は役作りについて「すごく良い家庭で生まれて大事にされていて、神童と呼ばれていた。そんな家庭で生きていく中での反発精神から、家を飛び出した。そういうところが、彼が詩をつかまえようとした原動力なんだなって分かりました」と語っています。
中也の詩にはその葛藤が色濃く表れています。
特権的な環境と満たされない心の空洞。この複雑な背景が、独自の詩的感性を形作ったのです。
幼き日の喪失体験と詩人としての姿
中也の生涯に大きな影を落としたのが、幼い頃の弟の死でした。
この喪失体験が詩的世界観の根底にあります。
役作りのため、木戸は山口県にある中原中也記念館を訪れ、「劇中に出てこない詩など、まず中也を知るところから始めました」と徹底した準備を行いました。
「特に今回は、実際にいた方で、かつ中也のことが今でも好きで応援していたり、詩を読んでいたりする人がたくさん周りにいて、より一層これまでの役作り以上に知識として彼のことを情報として入れていきました」と木戸は語っています。
肖像写真に刻まれた中原中也の風貌
中原中也といえば、山高帽をかぶり真っ直ぐに見つめる独特の肖像写真が特徴的です。
映画評論家のレビューによれば、木戸大聖はこの外見的特徴を再現しただけでなく、「常人からはかけ離れたナイフの切先のような危うさを思わせ、狂気を感じさせるまでに頭の切れる中原が確かにそこにいた」と評価されています11。
木戸大聖の演技に宿る「ナイフの切先のような危うさ」

本作で特に話題となっているのが、木戸大聖の中原中也演技です。根岸監督は「First Love 初恋」を見て木戸に白羽の矢を立てたと言われています3。
SNSでは「予告だけで鳥肌が立った」「木戸の目の演技だけで泣ける」という反応が相次ぎ14、映画.comのレビューでは「文化の百花繚乱の様相を呈した大正から昭和初期を舞台に…木戸が”狂気”と”無邪気”が同居する天才詩人を演じている」と評されています10。
H3 中原中也を演じるために行った木戸の準備

木戸自身は役について「現代人である自分が、大正を生きた詩人、しかも天才である中也を理解するには、ほど遠いところにいた」と語り、詩の朗読法から歩き方、話し方まで徹底的に研究したことを明かしています。
彼の演技は単なる模倣ではなく、「初々しく瑞々しい求心力で、誰も見たことがない”新たな中原中也像”を鮮烈に体現」するものでした。
これこそが40年間も映画化されなかった理由を解消する出来栄えだったのです。
天才の内面を表現する演技術
木戸は映画パンフレットのインタビューで「大事にしていたのは、相手の年齢に関係なく、泰子にも小林にもぶつかっていく中也です。僕にとっては大きな挑戦となる大役でしたので、お芝居の上でも(広瀬)すずちゃんや(岡田)将生さんにぶつかっていくような気持ちでやっていました」と述べています。
スタジオジブリの鈴木敏夫が「いい映画は女優で決まる。広瀬すず、最高♡」と評する中、木戸の演技も確かな存在感を示しています。
三角関係のダイナミズムにおける中原中也の位置

映画『ゆきてかへらぬ』の魅力は、単なる三角関係ではない複雑な人間模様にあります。
根岸監督は「男性二人が女性一人を取り合うといった単純なものではない」と語っています。
複雑に絡み合う三者の関係
インタビューで根岸監督は「才能のある男たちの間で揺れ動く女性なんて、どこにでもいるじゃないですか。だからこの映画を見るのに、文学史的な知識はまったくなくてもいいと思いますよ」と述べています。
映画では「三者の才気と情熱が危ういほどに迸る青春」が描かれ、「青々しい熱情を迸らせる中也」と「時に冷静に時に情熱的に泰子と中也に惹かれる小林」という対比が注目されています。
「くんずほぐれつの関係性」と木戸の表現力
映画批評では「この映画の中心にいるのは泰子であり、泰子もまた一筋縄ではいかない。小林もまた、わからない」と評され、「癖の強い三人の奇妙な関係性」が物語の根幹となっています。
木戸大聖はこの複雑な関係性の中で、中也の「嫉妬、執着、諦念、そして詩人としてのプライド」が交錯する姿を繊細に表現しています。
「男性二人が女性一人を取り合うといった単純なもの」ではない深みが、物語の魅力となっているのです。
詩的言語と映像表現の共鳴
文筆家・蒼井ブルーは「映像の美しさに冒頭から引き込まれる」と評し、「全シーンがフォトジェニック」という表現も見られます。
根岸監督の映像美と中原中也の詩的世界観の融合が見事です。
映画に織り込まれた中原中也の詩

タイトルの「ゆきてかへらぬ」自体が中原中也の詩のタイトルです。
また、根岸監督は「中也が切実に詩を書きたいと願っていた背景はとても重要だから、映画の中にいくつか詩を挿入した」と語っています。
特に中也の詩作の転機となった『朝の歌』が作中で重要な役割を担っています。
これは泰子が去って間もない1926年の作品で、『山羊の歌』に収められた一篇です。
他にも『サーカス』や『汚れつちまつた悲しみに……』といった代表作が映画に彩りを添えています。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
映像と詩の融合を生み出す撮影手法
根岸監督の「少し長めのカットで役者に芝居させ、贅沢な構図で撮って繋ぎ合わせる。そして、光と音に拘りながら、男女の愛想の見えないところを探っていく」という手法が、詩的表現を引き立てています。
劇作家の野田秀樹は「根岸吉太郎監督の映像が、のっけから終わりまで、ひたすらいとおしいほど美しかった。だがその美しさの背後にあったのは、この映画で描かれた、私たち昭和の文学青年が愛した中原中也の『汚れちまった悲しみ』だった」と評しています。
現代に蘇った中原中也と今後への影響

本作は日本の文学史・映画史において重要な意味を持ちます。
公開後すぐに映画.comのアクセスランキングで5位に急上昇し、書店では中原中也の詩集が売り切れになる現象も起きています。
中原中也研究への新たな視点
「夭折の天才詩人」として知られる中原中也ですが、根岸監督は「僕は中也に狂気を感じないんです。強いこだわりがあったり、枠に収まらなかったり、場の空気を読めなかったりする破天荒なところがあったとは思うけど、一方で非常に冷静に、生きることの悲しみを受け止めて、詩に昇華した人ですよね」と新たな視点を提示しています。
映画を通して「切実に詩を志し、女性に対して真摯に向き合って生きた、若い中也」の姿が浮かび上がり、従来の研究に新たな光を当てることが期待されています。
木戸大聖のキャリアと日本映画への影響
木戸大聖にとって「この作品で新しい木戸大聖を見てもらえる」と語るように、中原中也役は大きな転機となりました。
「初めて実在する人を演じるからこそ念入りにやった」
この経験は、今後の日本映画界における実在の文化人を描く作品にも影響を与えるでしょう。
この映画により、40年間も「中原中也のイメージにマッチする俳優がいない」と言われてきた壁が打ち破られました。
木戸大聖の演技が文学ファンの心を揺さぶり、中原中也という天才詩人が現代に蘇ったのです。
映画評論家たちからは「木戸大聖、天才詩人・中原中也の”早熟な魅力”を巧みに表現」と高く評価され、「この映画における中原中也像の方が正確なのかもしれない」という驚きの声も上がっています。
あなたも劇場で木戸大聖の中原中也像から何を発見するか、ぜひ確かめてみてください。
そして映画の後には、中原中也の詩集『山羊の歌』や『在りし日の歌』を手に取ってみることもおすすめします。
映画と詩が共鳴することで、新たな文学体験が待っているはずです。
