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常陸の名門 結城氏はなぜ滅んだのか

目次

結城合戦はなぜ起こったのかの概要

 永享の乱によって、4代鎌倉公方持氏は死に、鎌倉府は一時滅亡しました。
 永享11年(1439)2月に、幕府軍と管領軍の両方に攻められた結果です。持氏の死で、初代基氏(正平4年(1349・貞和5))から、90年続いた鎌倉府が一時途絶えたのです。そして、この鎌倉府滅亡こそ、結城合戦の原因です。

公方持氏の死と鎌倉府の滅亡を憂え、鎌倉府再興を願ったのが結城氏朝ら結城一族でした。これによって結城合戦が起こり、氏朝らは戦死します。

関東八屋形に数えられた常陸の名門、結城氏の滅亡です。

ウィキペディア:足利持氏自害の図
ウィキペディア:結城家家紋

結城氏は滅んだというが、18代結城家当主は、家康の子で秀吉の養子になっていた結城秀康のはず。結城氏は何らかの方法で家を再興できたのか?

儂の疑問は、結城氏朝は鎌倉府を思う「義」によって挙兵したのか、自分の「利」のために挙兵したのかじゃ。

結城氏の歴史

 結城氏の初代は、結城朝光です。下野の豪族小山政光の子でした。一説には、源頼朝の落胤とも言われます。治承4年(1180)の頼朝の挙兵以来の部下として働き、戦功によって下総結城と陸奥白河を与えられました。現在の茨城県結城市にある結城城を居城とし、名を小山から結城に改めました。
南北朝時代は足利尊氏に従い家勢を高め、応永5年(1398)からは関東八屋形の一家と数えられる常陸の名門です。

ウィキペディア:『前賢故実』 結城朝光

結城合戦を引き起こした永享の乱の結果

持氏の遺児を奉じ反幕府の旗揚げをした結城氏朝

  概要で述べたように永享の乱で鎌倉府は滅亡しました。遺児となった持氏の子、安王丸・春王丸・永寿丸たちを奉じ、反幕府の旗揚げをしたのが、結城氏朝です。
 なぜ、氏朝は反幕府の旗揚げをしたのでしょう。

氏朝は、先の永享の乱で持氏側だったため、40数年続いてきた下総守護の職を本家筋の小山持政に奪われていました。つまり結城にすれば、小山氏を討たなければ、失った地位が戻ってこないということです。
 
 氏朝(うじとも)は「義によって鎌倉府再興を願った」とする説もありますが、持氏の遺児を奉じて挙兵した理由を、結城氏の権威回復に求める者もいます。

 なるほど、結城氏朝の幕府への反旗を、義による挙兵とも、利による挙兵とも判断できないわけか。
 いち早く戦国時代の様相を呈している東国では、「利」を考えずに挙兵することはないだろう。論理的に考えれば、「利」のためだろう。
 しかし、尚爺としては、少なからず「義」の心が結城一族を動かしたのだと思いたい。結城が幕府に歯向かうには戦力差があった。そんな戦いをした結城氏朝に日本人の美意識を感じる。

結城合戦は惣領家対庶子家の戦い

  結城合戦では、氏朝勢つまり永享の乱で滅んだ鎌倉府復活を願う軍に、旧持氏党の小山広朝や佐竹義憲もいました。


 これに対し、幕府+管領軍は、上杉清方(管領上杉憲実弟)を大将として、佐竹庶流の山入祐義をはじめ、小山庶流家、宇都宮庶流家など多くの京都御扶持衆が属していました。

つまり、結城合戦は、惣領家 対 庶子家 の戦い だったとも言えるのです。この視点からすると、『東国は、応仁の乱に先駆け、戦国時代の入り口に立っていた』と言えます。

この頃の武将に、「義」のためなどという武将が本当にいたか。例え「義」のために動きたいという本音があったとしても「利」を求めるために、大義名分を整えるのが武将の才。

結城合戦の勝敗

 嘉吉元年(1441)2月、10万の大軍を動員し、幕府軍の勝利で結城合戦は幕を閉じます。この結果、前鎌倉公方持氏の遺児の春王丸、安王丸は斬られてしまいます。

しかし、もう一人の遺児永寿丸だけは生き残ることができます。

結城合戦後の佐竹氏

 結城合戦に敗れた結城氏朝の残党(氏朝遺児の七郎など)は、佐竹義憲の太田城に入城しました。これに対し、室町幕府は、佐竹庶流の山入祐義らに太田城攻撃を命じました。

嘉吉の乱に救われた佐竹氏

  山入祐義らが太田城を攻めていた嘉吉元年(1441)6月、京で大きな出来事が起こります。将軍義教が、赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。

 将軍義教の死で、太田城攻撃はうやむやのうちに終わります。運命の悪戯か、絶体絶命の佐竹本家は間一髪命脈を保つことができました。

結城合戦後の関東

 結城合戦後、関東の情勢は混迷します。抑えとしての鎌倉府が無いことで、板東の豪族それぞれが勝手に鎌首を伸ばす蛇穴のような状態です。

関東の抑え、山内上杉家の動揺

 永享の乱の後、結城合戦の少し前の永享11年(1439)には、管領上杉憲実が弟の清方に管領職を譲り政界を引退していました。しかし、その清方も結城合戦を戦い終えると間も無く文安元年(1444)前後に死亡します。30代の若さでした。

山入上杉の跡を継いだのは、憲実の長子憲忠でした。憲忠は、出家していたのですが還俗しての管領職就任です。関東の政界の中心である、トップが誰になるか山内上杉家もこのように揺れ動いている状態でした。

鎌倉府の再興

 一人生き残った持氏の遺児永寿丸は、信濃に逃れていました。幕府は、結城合戦からほぼ10年後の宝徳元年(1449)に鎌倉公方に任命します。永寿丸は足利成氏と名乗り鎌倉府が再興されました。

しかし、新鎌倉公方を支える関東管領は足利憲忠です。成氏にすれば憲忠は親の仇の上杉憲実の息子ですから、鎌倉府は再興された時点から火種を抱えている状態です。そしてこの火種が、やがて享徳の乱を引き起こすことになります。

佐竹宗家と庶家の争いと上杉禅秀の乱が永享の乱を起こし、永享の乱が結城合戦を起こし、結城合戦がやがては享徳の乱へとつながる。

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