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笠置シヅ子と穎右の母「吉本せい」との関係:死因・葬儀から考える

笠置シヅ子が愛した吉本穎右(えいすけ)は、娘の顔を見ること無くこの世を去ってしまった。穎右の死は、穎右を愛した二人の女性の心をズタズタに引き裂く。一人は、穎右と結婚できなかった笠置シヅ子の心。そして、もう一人は、息子を死なせてしまい、その願いをかなえてやれなかった穎右の母吉本せいの心だった。

穎右の死のわずか3年後、吉本せいもこの世を去ってしまう。
せいの死の原因は何だったのか。
笠置シヅ子と、せい残されたわずか3年の間に、二人は和解することが出来たのか。せいの葬儀に笠置と穎右の忘れ形見ヱイ子は参列することができたのか。

このブログでは、笠置せいの仲が、最後の3年間の間に回復できたのかどうかについて追究する。

目次

穎右の母・吉本せいとは、どんな人物か

吉本せい(1889年~1950年)は、現在の吉本興業を築き上げた人物。
兵庫県明石市生まれ。旧姓は、林せい

せいの実家林家の祖先は、明石藩松平家の下級藩士だった。
15歳から、家の外へ奉公に出たが、20歳のときに、高級料亭に箸を納める老舗荒物問屋の若旦那吉本吉兵衛 (本名吉次郎 通称泰三)に嫁いだ。
(実際には、18歳ごろから結婚生活を始めていたという話もある。)


明治の終わりごろ(明治45年・1912年)、北区天満にあった寄席第二文芸館を買収し、
『花と咲くか 月と陰るか すべてを賭けて」という思いから、この文芸館を『花月』と命名する。

従来は落語が中心だった寄席『花月』で、大革命を巻き起こす。
花月には、物真似、音曲、曲芸といった諸芸を取り入れ、全く新しい笑芸、漫才文化を築き上げたのだった。
今、『売れっ子の芸人さん』と言えば、立派なステータス。
吉本せいは、その元を築いた人。

吉本せいの生き様について、山崎豊子が小説「花のれん」を書いている。
この作品は、昭和33年(1958年)の第39回直木賞を受賞した作品。
翌年には東宝で、主演に淡島千景 吉兵衛役は森繁久弥で映画化もされている。

また、平成29年後期のNHKテレビ小説「わろてんか」で、吉本せいをモデルに、ヒロイン「藤岡てん」が、女性特有の豊かな感性で、「笑い」をビジネスとして成功させていくという、オリジナルストーリーとして描かれた。

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せいの子どもたち

せい吉兵衛には、二男六女がうまれている。
だが、長男以下5人の子供が次々と夭折。

ブギウギのスズ子も、最愛の人が次々と無くなっている。
また、前期の「らんまん」でも、万太郎の子どもたちが次々と無くなっていた。
この時代は、「子を失い、親を失う」ということが今よりずっと日常的なことだった。

笑いの女王、吉本せいも一皮むけば、身内の死が頻発する悲しい生活を送っていたのだ。

せいの子どもたちは、何歳まで生きたか

せいと吉兵衛の8人の子どもたちは、何歳まで生きたのだろうか。

長女の吉本喜代子は、明治43年(1910年)11月6日 に生まれ、大正9年(1920年)、または大正10年(1921年)ごろになくなっている。亡くなった年齢は 10~11歳だったことになる。

次女の吉本千代子は、 明治44年(1911年)11月17日に生まれ、 生まれて間もない明治44年(1911年)11月27日に亡くなっている。

三女の吉本峰子は、大正3年(1914年)1月14日 に生まれ、 没年不明。
後に吉本恵津子と改名。せいの没後、吉本興業の株を相続しているので、少なくともせいが亡くなった1950年までは生きていたことになる。36歳時点では生存している。

四女の吉本吉子は、大正5年(1915年)4月12日に生まれ、 大正6年(1916年)に亡くなっている。死亡時の年齢は1歳。

長男の吉本泰之助は、 大正6年(1916年)12月1日に生まれ、 大正8年(1918年)に亡くなっている。死亡時の年齢は2歳。

五女の吉本幸子は、大正9年(1920年)9月3日にうまれてている。 没年は不明。

六女の吉本邦子 は、大正11年(1922年)7月6日に生まれている。 没年は不明。

次男の吉本泰典は、大正12年(1923年)10月26日 に生まれ、昭和22年(1947年)5月19日に没している。
後に吉本頴右と改名。没後に笠置シヅ子との間に唯一の実子・亀井ヱイ子が誕生。ヱイ子は吉本家には入っていないため、吉本姓を名乗っていない。
穎右の死により、吉本家(頴右)の家系は男系としては断絶した。

吉本せいの親族

実弟に10歳年下の弟、林正之助と、18歳年下で東京吉本社長も務めた林弘高がいた。
穎右が生まれた翌年に当たる1924年に、夫・吉兵衛と死別してしまったが、吉兵衛との間には吉本穎右ら2男6女を設けたとされる。
だが、せい自身の話によると、さらに2人ほど流産ないし死産している子がいたという。

せいの孫

せいの次男の穎右(1947年、24歳没)ほか、多くは早世してしまったが、穎右の死没直後に生まれた孫として、女児(亀井ヱイ子)がいる。

だがこの子は吉本家には席を入れず、笠置シヅ子が私生児として女手一つで育てあげた。

せいの直系の女性の孫がもう一人いる。
吉本圭比子さん。

この方は、どなたのお子さんなのかはよく分かっていない。
だが、吉本家で確実に成人された三女吉本恵津子さん、または没年不明の五女吉本幸子さん・六女吉本邦子さんのいずれかの子であろう。

このお二人以外にも、もしかしたらせいの孫がいるかもしれないが、明らかにされていない。

せいの死後、吉本の実権はだれに移ったのか

株の多くは、三女吉本恵津子さんに引き継がれている。だがせいの死後の吉本の実権は、せいの10歳年下の弟、林正之助氏、またその弟で、初代東京吉本の社長に就任した林弘高氏らに一時移っている。

吉本の実権は、男系が途絶えた吉本宗家から、弟たちの林家に移った。

吉本せいの死

せいにとって、穎右は実質的な一人息子。一代で吉本王国を築いた女傑、女太閤と言われた彼女だったが、穎右の死は応えたろう。

笠置も同じように、穎右の死に大きなショックを受けていた。だが、笠置にはヱイ子がいる。穎右の忘れ形見のヱイ子を育てるため、再びステージに立つ。そして、東京ブギウギをひっさげ、ブギの女王として一躍スターの座に上り詰めていった。

だが、せいの方は、穎右と同じ病に冒され日に日に弱っていった。
ブギウギの劇中とは違い笠置が初めてせいに会ったのは、穎右が亡くなってから4か月後の1947年9月のことだった。

このころ、既に病を得ていたせいは、西宮の甲子園にほど近い吉本家で療養生活を送っていた。

さらに翌年、穎右の一周忌の折にも笠置ヱイ子を伴い吉本邸を訪れている。そして、穎右の墓のある服部墓地にもお参りした。

せいがもし、健康でヱイ子を貢献できるほどの体力が残っていたら、笠置ヱイ子の運命は変わっていたのかもしれない。

だがせいは、回復することなく1950年3月14日、帰らぬ人となった。
享年60歳。

笠置シヅ子と穎右の母「吉本せい」との関係

せいの告別式は、1950年3月27日、大阪・四天王寺で行われた。葬儀には笠置もヱイ子を伴って参列している。

笠置せいに直に会ったのは、穎右が亡くなった後。

笠置と穎右との出会いは、1943年ごろ。翌年には、二人の間で結婚の約束が出来ていた。
このときは、確かにせいは二人の結婚に猛反対した。
穎右はまだ学生で、笠置は9歳も年上。

さらに、せいにとって笠置は「歌手」という商品であり、「嫁」として考えられる存在ではなかった。

二人の恋愛初期の段階では、せいにすれば穎右の若げの至り、笠置の身勝手さによる恋愛と映っただろう。

だが、せいはいつまでもかたくなに反対していたわけでは無い。
せいの心も徐々に軟化してきていた。
とくに笠置の妊娠が分かってからは、二人の仲は周囲からも公認となっていた。

せいの実弟で吉本興業の常務・東京支社長の林弘高を通して、せいも二人の仲を認めていることを伝えていたようだ。

せいにとっても孫の誕生は、楽しみだったのだ。

この点について服部良一もその自伝で、『事態は好転していた』と書いている。
笠置も、出産後は歌手を引退し家庭に入ることを決めていた。

ブギウギの腹ぼてのカルメン、日劇で行われた『ジャズカルメン』は、笠置にとって引退公演となるはずだった。

しかし、穎右の死によって、笠置の引退はなくなる。
そして、笠置とせいは、穎右を失った共通の悲しみを抱える同志となった。

だが、程なくせいも穎右と同じ病に冒されてしまう。
同士である笠置は、当然せいを見舞う。

そして、せいの死。
笠置は、またしても愛すべき人を失う。
葬儀の時、ヱイ子をともなった笠置の胸中に、どのような思いが浮かんだだろうか。

ヱイ子は、何があっても私が無事に、そして立派に育て上げます。
どうか、穎右さんとともに天国から観ていてください。

そういう決意を、改めてもったのではないだろうか。

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