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満仲の3男の頼信は、なぜ常陸平氏と縁を深めることができたのか

本稿のポイント
  • 佐竹氏の祖となる源義光は、常陸平氏と深く縁を結ぶことができた。その遠因はおじいちゃんである源頼信の活躍にあった。
  • 満仲の3人の子らは、どうやって源氏の力を高めていったのか。
目次

満仲の後を継ぐ、長兄源頼光

 源満仲には3人の男子がいました。長男は頼光、次男が頼親、三男が頼信です。
 頼光は、大江山でおとぎ話でも有名なある人物と共に鬼退治をした話が伝わっています。誰でしょうか。あの金太郎です。金太郎のモデルは、坂田公時と言い源頼光の家来でした。
 どこかの携帯電話のCMに三太郎がでてきます。金太郎・桃太郎・浦島太郎ですが、このうち金太郎だけは、坂田公時というはっきりとしたモデルがいたわけです。

頼光も父の満仲と同じように 藤原摂関家に従って官職・財力を得た

 源頼光も、父の満仲と同じように藤原摂関家の臣下として働き、官職を得ることで財力を蓄えていきました。
 おとぎ話では、勇ましい鬼退治の話がありますが、藤原道長が主催した競馬に参加したという記録があるなど、頼光は中流貴族として都に留まり貴族的な生活を送っていたようです。
 ただ、頼光四天王と呼ばれる家来とともに、摂津大江山へ夷賊退治に行ったという話が実話と伝承され残っています。しかし、この話も真偽が疑わしいとされています。(京都府宮津市成相(なりあい)寺記録より)

大物貴族などの従臣となることを望んだ中流貴族たち

 摂関政治が頂点を極めるのは、望月の歌で有名な藤原道長のころです。そして頼光は、藤原兼家、道長親子の家司(けいし)でした。
 それでは、なぜ中流貴族たちは、上流貴族の家司になりたがったのでしょうか。
 家司になることができれば、地方の国の国司などになることができます。領国を受けもち(受領となり)、そこから税を集める権利を得ます。受領となった中流貴族は、セッセと蓄財し、そのうちの一部を、一部といっても相当に莫大な財を主家に貢ぎます。そうすると、主家の覚えがめでたくなり、さらに別の国の受領にもなれるという仕組みです。
 つまり、中流貴族にとっては、上流貴族の家司となること=出世の糸口でした。頼光は、藤原摂関家の家司となることで但馬国、伊予国、摂津国などの受領を歴任して蓄財に成功し、摂津源氏の祖となります。

大和源氏の祖、次男頼親

 次男、頼親(よりちか)も、藤原道長など摂関家の家司でした。大和の国など数カ国の国司を歴任し、大和源氏の祖となりました。頼親は、弟の頼信とともに武勇の人として有名でした。
 もしかすると父満仲も、長兄頼光以上に武勇に優れた次男頼親の方に、根拠地摂津を任せたかったのかもしれません。しかし、周りの上級貴族が源氏があまりにも力を持ちすぎることを恐れたようです。幾度か、摂津国の国司になる機会がありましたが実現しませんでした。
 結果的に都に近い大和の国の国司を3度も務め、その地に基盤を作っていきました。

河内源氏の祖 源頼信

 満仲の三男、源頼信は河内源氏の祖となります。兄頼光や頼親と同じように藤原摂関家の兼家や道長に仕えました。頼信も次兄の頼親とともに武勇の人として有名でした。

頼信と常陸の関係

  頼信も在京の京官でしたが、上総の介や、常陸の介と国司を兼任するなど、板東とかかわりの深い人物でした。
 頼信は、藤原兼家の死後暫く道兼の家司となっていましたが、道兼の死後に道長の家司となり、運が開けました。
 実際に、板東の上総や常陸に赴任したことで板東武士との関係も生まれ、武士としての実力を高めていきます。

常陸風土記に現れる古代常陸の様子

 当時、霞ヶ浦周辺は大湿地帯であり大森林地帯でした。『常陸の国は、堺はこれ広く、地もまたはろやかにして、土壌潤い、原肥えてひらきたる処山海の利ありて、人々豊かに家々賑わえる』 『常陸は日高見のなまり』だという。
 このように、東国は、非常に豊かな土地だったのです。

板東とは

 板東とは、足柄山と碓氷峠より東を指します。ただし、一般的には、相模(神奈川)・武蔵(埼玉・東京・神奈川)・上総、下総、安房(千葉)・常陸(茨城)・上野(群馬)、下野(栃木)の8か国を指します。

板東の動乱

 8世紀に多賀城を築かれ本格的に朝廷による陸奥・出羽の蝦夷と呼ばれる人々に対する猛東征が始まりました。この東征によって、多くの人々が大和朝廷(律令政府)に下りました。このような人々は俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、陸奥・出羽だけでなく大勢が板東にも移住させられ土着していきます。
 俘囚の人たちは、朝廷に降伏した後も、幾度となく乱を起こしました。このように乱続きの板東では、土着の武士集団が必然的に育っていったのです。
 このようにして育った武力集団のある一派が、朝廷の役所である国衙の勢力と争うことも起こり始めました。こんな中で起こったのが、東国の独立を図った平将門の乱でした。

平忠常の乱

 長元3年(1028)、平将門の乱から約90年後、平忠常が安房の国衙を襲撃するという事件が起きました。忠常は、安房の国の印と国倉の鍵を奪い取ることに成功しました。これに対して朝廷は、当時武勇の人として有名だった平直方を追討使としました。しかし、直方の追討軍は成果を上げることができず解任されてしまいます。そして、新たに源頼信に忠常追討を命じたのでした。
 頼信は軍勢を整え、いざ忠常討伐に出発しようとした矢先のことです。なんと、忠常本人が、頼信に恐れをなし降伏してきたのです。平忠常の乱のときに、頼信に協力したのが、平維幹(これもと)でした。維幹は、将門の乱の時に将門を討った国香の子、貞盛・繁盛兄弟の弟繁盛の方の次男でした。維幹は後に兄貞盛の養子となり、常陸平氏の長である大掾氏となります。
 この平忠常の乱のときの主従関係を縁として、頼信流源氏と常陸平氏の縁が深まったわけです。
 常陸平氏と縁を深めた頼信は、義家や義光の2代前、つまり2人のおじいちゃんでした。
 頼信は、戦わずして強者平忠常を降伏させてしまったのですから、武勇の人としての評価がより高まったことは言うまでもありません。

平忠常の乱により平維幹は、常陸大掾の地位を築いた

 維幹の家系は、常陸国筑波郡多気という場所で多気権大夫と称したことから始まったとされます。「権」とは「仮の」という意味で、「大夫」とは、「五位の貴族」を指します。つまり、「権の大夫」というのは、「仮の正五位」ということでしょうから、本当は五位の位はないけれど、「五位の位に匹敵する素晴らしい人」というような意味でそう呼ばれたのだと思います。
 さて、実際に多気の地に定着するのは、維幹から見ると曾孫に当たる致幹(むねもと)の時代だという説もあります。
 そして、この致幹の娘は、奥州に向かう頼信の子頼義と一夜のちぎりを結び、娘を設けたと言われています。そして、このときに生まれた娘が奥州後三年の役のきっかけになったと言われています。
 ちょっと年代が合わない気がしますが・・。


 また、致幹の代に常陸平氏の諸氏が形成されます。特に、平清幹から始まる吉田氏と、佐竹氏は深い関係で結ばれていくことになるのでした。

ウィキペディア:大掾氏系図

 


 

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