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上杉禅秀の乱と佐竹一族 山入氏の反乱

目次

山入氏の反乱

 13代の義盛の時代は、佐竹の安定期でした。

しかし、佐竹家存亡の危機が訪れます。応永14年(1407)、13代義盛が43歳の時に嫡子がいないまま亡くなってしまったのです。
 当然、跡目を巡って、一族のみならず国人層も交えて紛争が起こります。

佐竹守護代派の推す 上杉義憲(竜保丸)

 佐竹守護代派(難台山合戦で活躍した小野崎通綱たち)は、関東管領 上杉憲定(山内上杉)の次男竜保丸(8歳)を、義盛の娘に入婿させ、佐竹14代、義憲(よしのり)としました。
 管領の子を入り婿させることで、佐竹と管領の関係をより強固にしようという作戦です。武家は、天皇家のような男系継承ということではなく、「家」が残ること「力」をつけることこそが大切です。

佐竹氏略系図
佐竹氏系図

男系継承を主張する山入一族

 これに対して、他家から継承者を迎えるのはおかしいとする一派がありました。佐竹の庶流山入与義(ともよし・佐竹与義・山入を名乗らず佐竹与義と名乗っていたと思われるが、便宜上山入と表記)、額田義亮(よしあき)らです。彼らの一派は、「佐竹一族が庶流にいるのに、他姓の上杉氏から養嗣子を佐竹に入れるのはおかしいだろう。」という主張です。

実力行使に出た山入一族派 迎え撃つ佐竹守護代派

 山入派は、一族の長倉義景の長倉城(御前山村)に挙兵し、竜保丸の入国阻止を図りました。
 これに対し、管領上杉の血を佐竹に入れたいと考える公方満兼は、佐竹守護代派のために山入派討伐軍を常陸に送りました。公方軍の討伐を受け、留保丸の養嗣子反対をしていた勢力は降伏します。応永15年(1408)6月のことでした。

上杉禅秀の乱と佐竹一族

 14代義憲が常陸太田城に入城して8年後のこと、応永23年(1416)に上杉禅秀の乱が起こります。この乱は、結果的に佐竹家内部の争い、佐竹宗家と佐竹山入家との争いとなり、佐竹家内部の争いがまるで室町幕府と鎌倉府の約100年に及ぶ代理戦争のようになっていきます。

関東管領上杉家系図
関東管領上杉家系図

上杉禅秀の乱

関東管領上杉憲定の子竜保丸を、佐竹の14代当主佐竹義憲として据えた翌年の応永16年(1409)、3代鎌倉公方満兼は、32歳の若さで世をさりました。満兼の後の鎌倉公方は、満兼長男の持氏が継ぎ、4代鎌倉公方となります。

満兼の後の持氏の代も、関東管領はしばらくの間、上杉憲定(山内上杉家)が勤めていました。憲定は、鎌倉公方と足利幕府将軍が対立しないように努めていましたが、応永17年(1410)に、持氏の叔父の足利満隆が謀反を起こし、それが原因で、応永18年(1411)に失脚してしまいました。

公方持氏は、 憲定の後の管領を山内上杉家と対立関係にある犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)に任せました。
氏憲(禅秀)は、憲定を追い落とすきっかけをつくった足利満隆などと結び付きます。しかし、応永22年(1415)の評定の場で、氏憲と持氏が対立し、氏憲は管領職を更迭されてしまいます。

持氏は、氏憲の後の管領として再度山内上杉家の上杉憲基(前管領憲定の子)を就任させました。

追い落とされた氏憲(禅秀)は、持氏に対して謀反を起こします。応永23年(1416)のことです。持氏・憲基らは、一時鎌倉を追われ、駿河に追放されます。しかし、翌応永24年(1417)幕命によって越後の上杉房方・駿河今川範政らによって謀反は鎮圧され、氏憲(禅秀)らは自害に追い込まれ、持氏たちは鎌倉に帰ってきました。

ここで、一つ強調しておきたいことがあります。『上杉禅秀の乱は、単に関東管領氏憲(禅秀)と鎌倉公方持氏の戦いと簡単に表現できるような根の浅い戦いではない』という点です。

・管領家内の権力争い   犬懸上杉 対 山内上杉 の権力争い
・公方家内の権力争い   4代公方持氏 と 2代公方氏満の子、足利満隆 などの権力争い
・将軍家内の権力争い   4代将軍義持 と 弟義嗣(禅秀方)の 権力争い

京都と鎌倉を結ぶ、広範囲の謀反同盟対 それに対抗する広範囲の鎌倉府権力維持勢力 の戦いだったのです。

佐竹氏と上杉禅秀の乱

では、上杉禅秀の乱は、佐竹氏にはどのような影響を及ぼしたでしょうか。
 現将軍義持を追い落とし、自分が将軍になりたい将軍の弟の義嗣、公方になりたい足利満隆、管領になりたい氏憲(禅秀)たちは、板東や奥州諸国の武将たちに、「自分達の仲間になれ」という書状を送っています。
 犬懸上杉一門・一族、下総の千葉兼胤、上野の岩松満純、下野の那須資之、甲斐の武田信満、常陸の大掾満幹・小田持家、そして、佐竹庶流の山入与義(ともよし)・依上宗義(与義弟・山入一族)
 さらに奥州の武将たちにも送りました。

ここで、すごいのは、氏憲(禅秀)とその一派の婚姻政策、姻戚関係網の緻密さです。

・千葉兼胤・岩松満純・那須資之は、3人とも氏憲(禅秀)の娘婿
 ・甲斐の武田信満の娘は、氏憲(禅宗)の妻
 ・常陸の大掾満幹の妻は、禅秀派の山入佐竹与義の妹
 ・小田持家の母は、禅秀派の山入佐竹与義の妹

山入与義らは なぜ許されたのか

 これだけの血のつながりと目的意識を持った謀反軍は、先に示したように一時持氏や憲基を鎌倉から追いおとすことに成功しました。しかし、結果的には鎮圧され、首謀者の満隆や氏憲(禅秀)は自刀しました。

しかし、山入与義(ともよし)大掾満幹武田信満などは降伏して許されています。
 なぜでしょうか。
彼らは、京都御扶持衆だったから、公方も強く彼らを罰することが出来なかったのです。このために、命は助けられました。しかし、強く罰することができない公方持氏と、鎌倉に睨みをきかせたい幕府将軍の間には、諍いの根が残りました。

幕府と鎌倉府の代理戦争、佐竹本流と佐竹庶流山入氏で、常陸を半分ずつに分ける

佐竹与義(ともよし・山入氏)は、京都御扶持衆ということで、京都幕府将軍の指示で降伏が許され命を救われました。バックに鎌倉幕府将軍がついているので、鎌倉公方持氏に負けたとはいえ、宗家14代となった義憲(上杉家からの養嗣子)に対して、抵抗を続けます。

義憲に抵抗する、ということは、つまり、鎌倉公方持氏への敵対です。

山入一族 再び佐竹宗家に反旗を翻す

山入城跡
山入城跡

 上杉禅秀の乱(前関東管領犬懸上杉の氏憲の反乱)の翌年、応永25年(1418)の春、禅秀の乱で山入氏に味方した永倉義景などと図り、山入与義(ともよし)の居城山入城を中心として、佐竹宗家の城、太田城を取り囲みました。

この時、佐竹14代義憲は、鎌倉府の侍所頭人(侍所の長官)となっていました。その侍所頭人に対し、公方持氏は、「山入余党討伐」の命を下します。

奥州の岩城氏や、岩崎などの諸氏も「佐竹凶徒討伐」という持氏からの御教書を受け取り、北から兵を動かしました。佐竹本家軍(公方軍)が南北から攻め、山入一派を攻め立て、稲城城を落としますが、山入与義の動きは止まりません。

山入与義の強気は、「自分の背後には、鎌倉幕府がついている」という点にあります。

4代将軍義持の介入

応永28年(1421)2月、幕府将軍義持は鎌倉の持氏に対し、山入与義を常陸守護に任命するように命じてきました。

守護の任命権は確かに幕府にあります。しかし、常陸守護職は佐竹本家を継いだ佐竹義憲です。幕府による佐竹家への内政干渉とも言える命令です。

 この機を逃さず、山入与義は、同じ京都御扶持衆である額田城主の額田義亮や、小栗城の小栗満重に反義憲の旗を上げさせました。

額田城本丸跡
額田城本丸跡

将軍義持や山入氏に対する公方持氏の動き

 一度は許した命ですが、山入与義がここまでやるのであれば、持氏としても今度は見逃せません。応永29年(1422)10月、持氏は鎌倉の与義の屋敷を襲い、与義を自害に追い込みました。

  こうなると、公方持氏の行動は、反幕府の行動ということになります。佐竹一族のお家騒動が、幕府対鎌倉府の争いにまで、目に見える形で拡大してきました。

腹を据えた鎌倉公方持氏の行動、さらに持氏に対する将軍義持の行動

幕府から、常陸の守護に任命するように命じられていた山入与義を滅ぼし、あからさまに反幕府の意思を示した鎌倉公方4代持氏は、応永30年(1423)に、京都御扶持衆山入祐義(山入与義の嫡男)、大掾満幹小栗満重討伐のため、自ら出陣しました。

 公方持氏の行動を見た将軍義持は、幕府要職にある関東の諸将を集め、持氏と戦うことを命じます。
 さらに、公方を通さず、山入祐義(すけよし・与義の嫡男)を常陸守護職に任じてしまいました。

この結果、常陸には、佐竹本家の佐竹義憲、と庶家の山入祐義(すけよし)の二人の守護がいることになってしまいました。

公方持氏 ひよる

 将軍の強硬な態度に、公方持氏は驚いたようです。

応永31年(1424)、関東管領上杉憲実の献言で将軍への忠誠を誓い、幕府と鎌倉府は和睦となりました。

しかし、将軍によって任命された山入氏の常陸守護と、公方を支える佐竹本家の常陸守護どちらも解任するわけには行かないので、二人の守護が、常陸を半国ずつ守護するということになり、鎌倉府には、二人とも出仕することになりました。

高度な政治的決着で一応は落ち着いた状態ですが、このような緊張状態が早々長持ちするでしょうか。この後将軍と公方、佐竹本家と山入氏はどうなっていくでしょう。


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