
あなたが知る「神道」は、実は明治時代の創作かもしれない。
神社参拝や初詣、七五三などの習慣を「神道的な行事」と何気なく思っている方も多いでしょう。
しかし「神道」という言葉自体が、時代によって全く異なる意味を持っていたことをご存知でしょうか。
歴史学者の津田左右吉は、「神道」という言葉の用法を歴史文献から丹念に調査し、
六つの異なる意味に分類しました。
この記事では、津田の「神道の語義六分類」を通して、日本人の宗教観がどのように変遷してきたのか、
専門的な内容をわかりやすく解説します。
私たちが当たり前のように考えている「神道」の概念が、どのように形成されてきたのかを一緒に探っていきましょう。
この記事を読むと以下のことがわかります:
- 「神道」という言葉が歴史的に持っていた6つの異なる意味を理解できる
- 津田左右吉の研究から日本人の宗教観がどのように変遷してきたかを学べる
- 現代の「神道」概念がいつ、どのように形成されたのかを知ることができる
- 神仏習合と神道の歴史的関係性を体系的に理解できる
- 両部神道、伊勢神道などの主要な神道流派の特徴と違いを把握できる
- 私たちが当たり前に考えている「神道」の概念が実は歴史的に構築されたものだと認識できる
- 神道研究における学説の対立点を理解し、より批判的な視点を持てるようになる

津田左右吉による神道の語義六分類

「神道」という言葉は、もともと漢語からの借用であり、日本の文献では『日本書紀』に初めて登場します。
歴史学者・思想史家の津田左右吉は「神道」の意味として次の六つを挙げています:
- 古くから伝えられてきた日本の民族的風習としての宗教(呪術も含む)
- 神の権威、力、はたらき、神としての地位など
- 民族的風習としての宗教に思想的解釈を加えたもの(吉田神道、垂加神道など)
- 特定の神社で宣伝されているもの(伊勢神道、山王神道など)
- 日本特殊の政治・道徳の規範としての意義
- 宗派神道(天理教、金光教など)
津田によれば、古代における意味は1と2のみで、
それ以外は中世以降に現れたものです。
『日本書紀』における「神道」の用例としては「天皇仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用明即位前紀)などがありますが、
この時代の「神道」は今日我々が理解する「日本の民族宗教」という意味ではなかった可能性が高いです。
基本構造
津田左右吉は『日本の神道』で「神道」という語の歴史的意味を六つに分類しました。
第一の意味は「古くから伝えられてきた日本の民族的風習としての宗教(呪術を含む)的信仰」、
第二は「神の権威、力、はたらき、神としての地位など」、
第三は「神代説話に思想的解釈を加えたもの(両部神道・唯一神道など)」、
第四は「特定神社中心の宣伝(伊勢神道など)」、
第五は「政治・道徳規範としての意義」、
第六は「宗派神道(天理教など)」です。
津田はこれらのうち古代における意味は第一・第二のみで、他は中世以降現れたと指摘しています。
学説の対立点
黒田俊雄は津田の六分類が歴史的発展に「基本的に一致する」としながらも、
重要な修正を提示しました。
特に第一の意味(民族的風習としての宗教)については
「本来「神道」にはなく」と指摘し、
中世までは「自律性を持たない土俗信仰」に過ぎず
仏教に包摂されていたと主張。
「民族的宗教」への志向は伊勢神道から吉田神道に至る過程で現れ、
「日本の民族宗教としての呼称」が確立したのは
近世の儒家神道の段階だとしています。
この見解は近代神道理解に大きな影響を与えました。
神仏習合と神道の展開

神仏習合の成立
神仏習合とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰が融合し、
一つの信仰体系として再構成された宗教現象です。
日本へ仏教が伝来した6世紀ごろから、
日本の人々によって「神」と「仏」は同じものとして信仰されていました。
その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり、
戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになりました。
両部神道の成立

両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想です。
「両部習合神道」ともいいます。
密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとされます。
それは大日如来を中心にした金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅の儀規として表現されています。
この金剛界と胎蔵界の両部の曼陀羅に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々をその垂迹として解釈しました。
たとえば、伊勢内宮の祭神である天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王であり、
日天子であるとし、
一方、伊勢外宮の豊受大神は金剛界の大日如来であり、
尸棄大梵天王であり、月天子であるとしていました。
伊勢神道の展開

鎌倉時代後期に、それまでの両部神道や山王神道などの本地垂迹説とは逆に、
反本地垂迹説(神本仏迹説)が勃興するようになり、
その影響で、伊勢神宮の外宮の神官である度会行忠や度会家行によって、伊勢神道が唱えられました。
伊勢神道の特徴的な思想は、まず祭神論にあります。
外宮の祭神である豊受大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神や国常立尊と同一視して、
内宮の祭神である天照大神をしのぐ普遍的神格(絶対神)としました。
神道五部書
神道五部書(しんとうごうぶしょ)とは、
伊勢神道(度会神道)の根本経典で、以下の5つの経典の総称です:
- 『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
- 『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
- 『豊受皇太神御鎮座本紀』(御鎮座本記)
- 『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
- 『倭姫命世記』
いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっていますが、
実際には鎌倉時代に度会行忠ら外宮祀官が執筆したものとみられています。
鎌倉仏教と神道の関係

鎌倉時代に登場した新しい仏教諸宗派は、
本地垂迹説をどのように受け入れたのでしょうか。
法然・親鸞と神祇信仰
法然(1133-1212)は、易行の称名念仏の浄土門のみを時機相応の教行として専修すべきと唱え、
その他の仏教修行(難行道・聖道門・雑行)を否定しました。
神祇あるいは本地垂迹の信仰も、雑行のひとつと見なされたのは当然の態度でした。
親鸞(1173-1262)は『教行信証』などで、
はっきりと神祇信仰を否定していますが、
一方、一般門徒に向けた「和讃」などでは仏法を守護する諸天善神、
善鬼神の価値を認め、神々を侮ることを戒めています。
真宗の神祇観
親鸞の曽孫の覚如(1270-1351)がつくった『親鸞伝絵』では、
親鸞が箱根山で箱根権現の帰依を受けたとか、
常陸国で弟子に熊野信仰を勧めた(熊野本宮の本地は阿弥陀如来)といった逸話を載せ、
いわばなし崩し的に本地垂迹信仰を受け入れています。
さらに、その子存覚(1290-1373)は『諸神本懐集』を著し、
本地垂迹説を理論的に導入しました。
そのなかで、存覚は「権社ノ霊神」と「実社ノ邪神」に分かち、
権社は仏菩薩の垂迹なる神、
実社は本地を持たない生霊・死霊・畜類の類で
崇りを恐れるがゆえに神として祀られている存在と規定し、
権社神の信仰を認め、実社神を否定しました。
禅宗と中世神道

日本臨済宗は栄西(1141-1215)以来、台・密・禅兼修を基本としており、
神祇信仰を受け入れる余地が十分にありました。
道元(どうげん)に始まる日本曹洞宗は、
道元自身についていえば護法善神としての神祇信仰の存在は認めつつも、
積極的に接近することはありませんでした。
しかし、道元の後継者たちは神祇信仰へ傾斜していきました。
法華神道
日蓮宗は、宗祖の日蓮自身にしてからが神祇の取り込みに積極的でした。
彼は他宗への激烈な批判攻撃(「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」)を行う一方で、
正法(『法華経』に基づく教え)を擁護する神々の中心に天照大神・八幡大菩薩を置きました。
日蓮没後には、三十番神信仰が導入され、
日蓮宗風の護法善神思想が確立します。
これは30の諸神が1ヶ月30日の間、交替で法華経護持にあたるという信仰です。
神観念の中世的変容

権神・実神・法性神
平安後期以降、本地垂迹説はほぼ全国に及びましたが、
あらゆる神々が仏菩薩の垂迹・化身と見なされたわけではありませんでした。
朝廷や官衙と関わりの深い畿内および地方の有力社は本地仏を持つ一方、
中小の地方神や鬼神の類の多くは旧来通りの神身離脱を求める一衆生とされたのです。
鎌倉時代には神々を「権神(権化垂迹)」と「実神(実類鬼神)」とに弁別していました。
存覚の『諸神本懐集』は一般門徒の唱導教化のために作られた談義本で、
そのなかで神々を「権社ノ霊神」「実社ノ邪神」とに分かち、
後者を「生霊・死霊等ノ神」で
「如来ノ垂迹ニモアラズ、モシハ人類ニテモアレ、モシバ畜類ニテモアレ、タタリヲナシ、ナヤマスコトアレバ、コレヲナダメンガタメニ神トアガメタルタグヒ」
と定めました。
また権神・実神に加えて法性神(本覚神)を置く三区分法も行われました。
本覚神は「本来清浄の理性、常住不変の妙体」と定義され、真理そのものの神と位置づけられました。
和光同塵

中世において仏菩薩が神として垂迹することを、一般に「和光同塵」と表現します。
この語は『老子』第四章を原拠としますが、直接には智顗『摩詞止観』巻六下に基づきます。
仏の化身としての神は、より人間に近しい存在と捉えられます。
『神道集』第三十四話「上野国児持山之事」では、
「諸仏菩薩が我が国に遊行なさるときは、必ず人の胎を借りて衆生の身と成りつつ、その身に苦悩を受け、善悪を試した後に神明となって、この悪世の衆生をお救いになるのです」と記しています。
新しい神々の登場

御霊信仰
御霊信仰とは、政治的闘争の中で敗れて処刑された者の霊が、疫病などの崇りをなすと信じ、
その霊を慰めようとする信仰のことで、怨霊信仰の一種です。
初めて御霊化(怨霊化)が意識されたのは、長屋王(684-729)であったと考えられます。
長屋王は、聖武天皇の初期に左大臣として権勢を振るったが、
天平元年、国を傾けんとしたとの密告を受け、その邸宅を囲まれ、
妻子を伴って自死を遂げました(長屋王の変)。
御霊信仰が一挙に広がるのは、奈良時代末期から平安初期の光仁・桓武天皇の時代です。
このとき怨霊となったのが、井上内親王(717-775)と早良親王です。
人神信仰

人を神として祀る風習には、怨霊・御霊化とは別に、
家門や職業の祖とされる人物を神格化する場合もあります。
その代表が藤原氏の始祖鎌足(614-669)への信仰で、
彼を祀るのが奈良県にある談山神社です。
多武峯(とうのみね)を有名にしたのは、なんといっても鎌足の墓山の鳴動と尊像破裂の信仰です。
古くから世に変事あるときは、必ず鎌足を葬った墓山が鳴動し、
さらに多武峯寺院内に安置されていた鎌足の尊像に亀裂が走るといわれました。
近世の人神信仰への可能性を開いたのは、室町後期に登場した吉田神道です。
吉田兼倶(1435-1511)が始めたのが、遺骸の上に社殿を建て、神と祀る風習です。
この人神信仰は近代日本において量産され、国家・天皇に忠節を尽くしたと判断される歴史上の人物や、
戦役で亡くなった軍人・兵士たちを神として祀る「英霊」信仰につながりました。
日本の国土観と神話

神国と粟散辺土観
「神国」の語の初見は、『日本書紀』神功皇后紀の三韓出兵に関する記事です。
日本が攻めて来ることを知った新羅国王は「私は東方に〈日本〉という神の国があると聞いている。またそこには〈天皇〉という神聖なる王がいる」と言って降参したとされています。
しかし一方で、仏教の世界観からは「粟散辺土(ぞくさんへんど)」観も存在しました。
仏教において世界の中心はあくまで釈迦牟尼が法を説いたインドであり、日本ははるか辺境にあります。
無住の『沙石集』巻一第三話には次のようにあります:
「我国ハ粟散辺地也。剛強ノ衆生因果ヲシラズ、仏法ヲ信ゼヌ類ニハ、同体無縁ノ慈悲ニヨリテ、等流ノ応用ヲタレ、悪鬼邪神ノ形ヲ現ジ、毒蛇猛獣ノ身ト成シ、暴悪ノ者共ヲ調伏シテ、仏道ニ入レ給フ。」
我が国は粟散辺地(ぞくさんへんち)である。剛強(ごうごう)なる衆生は(世の真理たる)因果を知らない。このように仏法を信ぜぬ類(たぐい)に対して、仏は「同体無縁の慈悲」(自らを衆生と一体となろうとする慈悲)の心で、等流法身(とうるほうしん)(仏菩薩以外の姿)として悪鬼邪神と現じ、あるいは毒蛇猛獣の身となって、暴悪の者どもを調伏して、仏道に入れなさるのである
無住は「和光同塵」の思想を展開しています。
「和光同塵」とは「すぐれた才能を隠して俗世間に交わること」を意味し、
仏教ではそれを「仏が、仏教の教化を受け入れることのできない人を救済するため、
本来の智慧の力をやわらげ、人々の受け入れやすい姿をとって現れること」
という意味で使うようになりました
粟散辺地としての日本観
無住は日本を「粟散辺地」と認識していました。
これは「辺境にある小さな国のこと。粟の粒が散らばっているかのように、世界の果てにある小さな国」
を意味します。
この認識は謙虚さを示すと同時に、だからこそ仏菩薩が神として現れる必要があったという理解につながります。
無住によれば、日本という辺境の地には「因果を知らない剛強なる衆生」が住んでおり、
そのような人々を導くためには、仏菩薩が神の姿をとって現れる必要があったとしたのです。
中世神話の形成

鎌倉期に入ると、卜部氏を中心とした『日本書紀』研究の機運が起こってきます。
特にト部兼文は、文永十一年(1274)から翌年にかけて、
一条実経等に『書紀』を講じ、
その子兼方はその折の問答と、かつての日本紀講の博士たちの記録等に基づき『釈日本紀』を編纂しました。
中世神話の世界は、中世宗教(仏教・神道)や中世文芸と結びついて多彩な展開を遂げました。
しかし実際には、古代神話と全く無関係に、放将なるイマジネーションを飛翔させていたのではなく、
古代からの神話の型に大きく拘束され、それに中世的要素を加えて再編成されたものです。
まとめ
神道は単なる日本固有の宗教ではなく、
仏教との長い交流の中で形成され、変容を遂げてきた複合的な宗教体系です。
特に中世における神仏習合と本地垂迹説の展開は、日本の宗教文化に独特の深みをもたらしました。
津田左右吉も指摘するように、「神道」の概念自体が時代によって変化しており、
現代我々が理解する「神道」の姿は、歴史的な変遷の結果として形成されたものなのです。
この複雑な歴史を理解することは、日本文化の深層を理解することにつながるでしょう。
この記事のまとめ
- 津田左右吉の六分類により「神道」という言葉は時代によって全く異なる意味を持ち、古代では単に「神の力」や「民族的風習」を指すに過ぎなかった
- 「日本の民族宗教」としての神道概念は中世以降に形成され、近世の儒家神道の段階で確立した
- 神仏習合の流れの中で本地垂迹説などの理論が発展し、神と仏の関係性を説明する様々な思想が生まれた
- 両部神道は密教の立場から神々を解釈し、伊勢神道は逆に神本仏迹説の立場から独自の理論を構築した
- 神道五部書などの「古代からの経典」とされるものは実際には中世の創作であることが多い
- 鎌倉新仏教と神道は複雑な関係を持ち、当初は対立しながらも次第に習合的理解が進んだ
- 明治以降の神仏分離政策によって現代の「神道」概念が形成されたが、その理解にはこうした歴史的背景の知識が不可欠である
