明治23年~26年にかけ、富太郎には連続して不幸・苦難が訪れる。
「らんまん」の万太郎と寿衛さんはお互いを支え合っているが、史実の富太郎先生は、いささか常識を逸している。
明治23年(1890年)、矢田部教授による大学への出入り禁止
矢田部良吉教授から、東京大学への出入りを禁じられる。
2年前の明治21年(1888年)に刊行を開始した日本植物志図編は、明治23年の1月に第一巻の第五集、続いて3月には、第六集が刊行されていた。
矢田部教授から、大学への出入り禁止となったのは、その「日本植物志図編」が原因だった。
矢田部教授も、大学から同じ趣旨の本を出版することにしていたので、富太郎はライバルになってしまう。
その富太郎に、大学の書物や史料を使わせるわけにはいかなくなったのだった。
大学の史料を仕えなくなり、研究が断ち行かなくなってしまった富太郎は、失意にくれる。
この後3年間、富太郎は大学へ出入りできない期間が続いた。
明治24年(1891年)、頼りのマキシモヴィッチ博士の死
何とか研究を続けたいと考えた富太郎は、マキシモヴィッチ博士の下で働きながら研究を続けたいと考えた。
行動力の塊のような富太郎は、すぐさま当時日本ロシア正教の拠点だった駿河台にあるニコライ堂の主教を尋ねた。
主教は、富太郎の意向に沿い「ロシア行きと、博士の下で働きながら学びたい」旨の手紙を、マキシモヴィッチ博士へ届けてくれた。
史実の牧野富太郎は、「らんまん」の万太郎とはちょっとちがう
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「らんまん」の万太郎は、ロシア行きには、寿衛さんや園子も連れて行くという設定で描かれていた。
寿衛さんと万太郎は、ロシア行きに当たって3つの約束を交わす。
その願いの中で寿衛は「私たちを、離さないで」と万太郎に願う。
万太郎は、「絶対に離さない」と答えている。
だが、史実は残酷だ。
マキシモヴィッチ博士に手紙を書くに当たり、ニコライ堂の主教から、富太郎に家族構成について質問があった。
富太郎は何と答えたか。
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家族は、郷里の高知に妻がひとり。子はいない。
寿衛や園子については、伝えなかった。
他にも「らんまん」と違う点がある。史実だとこの時点で高知の猶さんは、まだ富太郎の妻のままだったことだ。
さらに残酷な相違点がもう一つ。富太郎は単身ロシアに渡るつもりだった。
このような史実では、テレビドラマにならない。
どうも史実の牧野富太郎博士は、一般常識の枠の中に収まらない。
悪気を感じていないようなので、一言で「嫌なやつ」とも言えないが、相当な人だ。
「涙は涸れないわ、明日へとつながるわ」
寿衛さんも、猶さんも口ずさんでいたかも。
明治24年、ロシア行き実現せず
明治23年内は、ロシア行きを画策していたがマキシモヴィッチ博士からの返事は無く、その年は暮れた。
明くる明治24年(1891)、ロシアのマキシモヴィッチ博士の奥様から手紙が届いた。
だが、その内容は、何とマキシモヴィッチ博士の死を伝えるものだった。
こうして富太郎のロシア行きの夢は、かなうことなく消え去った。
明治25年(1892年)岸屋人手に渡る
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明治24年の9月、富太郎は実家を売るために佐川へ帰郷した。
富太郎の借金が膨らみ、どうしようも無くなり、ついに岸屋を人手に渡すことになったのだ。
岸屋の命運がとうとう尽きた。
「らんまん」では、綾が新しい酒づくりに取り組んだことが、峰屋を潰す一因のように描かれている。
これは、かわいそうだ。
綾(猶)に、落ち度など無い。
原因は、富太郎の常識を逸した金の使い方にある。
この史実も、「らんまん」というテレビドラマにはなりにくい点ではある。
岸屋が人手に渡ることを機に、富太郎は猶を離縁した。
この後、猶と和之助(綾と竹雄)は、富太郎の勧めもあって結婚する。
岸屋の後始末が終わった後、猶と和之助は静岡に移住したという。
明治26年(1893年)、長女園子が亡くなる
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富太郎は佐川の実家を精算した後も、そのまま高知の高級宿屋に留まっていた。
実家を精算したときに、猶から幾ばくかの金をもらったのだろう。
それにしても、高級宿屋に長逗留する経済感覚は、常人では無い。
その宿に、東京の寿衛から手紙が来たのは、明治26年の正月だった。
手紙には、長女の園子が病気だと書いてある。
この時点で、富太郎は1年以上も家を空けている。
このとき東京には、寿衛や園子、第二子の香代子もいる。
その3人をほったらかしにしたまま、一年以上好き勝手をして郷里で過ごしていたのだ。
しかし、さすがの富太郎も、「園子病気」の手紙には気がせいた。
すぐに、船に乗り東京へ戻った。
だが、戻ったとき既に園子は死んでいた。
このとき、富太郎は、寿衛に
「園子を死なせおって」
と、怒鳴ったという。
・・・・・・・・・。
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この時、松村教授から、東京大学の助手として働く話が舞い込んでいた。
約3年ぶりの東京大学復帰がかなう。
寿衛と富太郎に、微かな光がともる。
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