他者から見ると傲慢な田邊教授を、心から尊敬し決して前に出ることなく支え続ける若き妻「聡子」さん。田邊教授と聡子さんの夫婦の在り方に、インターネット上には「この夫婦、推しです」とのコメント多数。では、聡子さんのモデルは誰だったのだろうか。
「らんまん」田邊彰久教授の若き妻:「聡子」のモデルは「柳田順」さん
女子ゴルフ観るなら<U-NEXT>田邊彰久教授の妻「聡子」のモデルは、「柳田順」
「らんまん」で、中田青渚さん演じる「聡子」さんのモデルは、「柳田順」さんと言った。
順さんの出身は、現・信州飯田市。
お父さんは、大審院判事だった柳田直平さんと言う。
順さんは、明治2年(1869年)生まれの長女だった。
二人の結婚は、明治20年(1887)12月。
このとき、順さんは18歳。
矢田部良吉教授は、35歳。
二人の年の差は、18歳のダブルスコアだった。
順さんは、「らんまん」で描かれているとおり、教授の教え子。
東京高等女学校(現・お茶の水女子大学)に務め、同校の学生だった順さんと結婚したことになる。
媒酌人は、このとき東京専門学校(現・早稲田大学)に奉職し、政治家となった鳩山和夫・春子夫妻。
あの、鳩山由紀夫氏の曾祖父である。
媒酌人をたてての結婚なので、やましいことはないのだが、この時代の「先生と生徒の結婚」「年の差18歳の結婚」は、後にスキャンダルを生む。
順さんには、「孝」さんという妹がいた。この妹と結婚し柳田家を継いだのが「柳田國男」だった。
つまり、柳田國男は、順さんの義理の弟になる。
矢田部教授の前妻
矢田部教授には、順さんの前に前妻がいた。
金沢録子さん。
父親は勝海舟の主治医を務めた医師で、金沢良斎(永孝)と言った。
前妻と結婚したのは、明治11年(1878年)。
矢田部教授の生まれは、江戸末期の1851年(嘉永4年)、前妻録子さんは、1858年(安政5年)で、7歳差。
ところが、録子さん29歳の時、病気で亡くなってしまった
録子さんが亡くなったのは明治20年(1887)の10月。
その年の、12月には、順さんと再婚している。
あまりにも、早い再婚で、このあたりも後のスキャンダルの一因になったのだろう。
矢田部良吉教授の子ども
矢田部良吉教授には、少なくとも5人の子がいたとされる。
前妻との間には、男子が2人。(「らんまん」では女の子二人と描かれている)
順さんとの間にも、3人の男子が生まれている。
三男、矢田部俊二さん
四男、矢田部達郎さん(心理学者)
五男、矢田部勁吉(けいきち)さん(音楽家・国立音楽大学の創始者の一人)
矢田部教授夫妻に降りかかる、スキャンダル疑惑
当時、改進新聞という新聞があった。
自由民権運動を推進する有力政党に、自由党と〈立憲改進党〉があった。
改進新聞は、その立憲改進党系の新聞だった。
この新聞に、須藤南翠(すどうなんすい)という人が書いた「濁世(じょくせ)」という小説が掲載された。
この小説は、東京貴婦人学校という架空の学校の校長、刑部甞一(おさかべじょういち)が、女学生の柳ヶ瀬順子(やながせ じゅんこ)と禁断の恋に落ちというスキャンダラス小説。
これを読んだ当時の人々は、単に矢田部夫婦を批判するだけでなく、どういうわけか「女子教育は悪いモノ」という批判をし、その風潮が広まってしまう。
これが、矢田部教授失脚の一因となったことは間違いない。
矢田部氏、改進新聞を名誉毀損で訴える
これに対し、矢田部氏は、改進新聞の発行元を名誉毀損で訴えた。
それは、そうでしょう。
今も、昔も「一部メディアの横暴」は、目に余るものがある。
また矢田部氏は、東京高等女学校で「夫婦は対等」「女性の人権と、教育の大切さ」を主張する講演を行い、夫婦や、女子教育批判に対する世間の風潮に一石を投じた。
須藤南翠のモデルは、堀井 丈之助なのか
矢田部教授と順夫妻をおとしめる小説「濁世(じょくせ)」を書いた須藤南翠のモデルは、だれか。
「らんまん」で万太郎が暮らす十徳長屋の住人、山脇 辰哉さん演じる堀井 丈之助(ほりい じょうのすけ)がモデルなのか、とも思ったが違うようだ。
堀井 丈之助のモデルは、正式な表明はないが、どうやらシェイクスピア作品を翻訳した坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)のようだ。
「らんまん」ファンとしては、万太郎の仲間の堀井さんが、この小説の作者でなくて良かった。
聡子さん、田邊教授に死亡フラグを立てる
「らんまん」の田邊彰久教授は、苦境に立っていた。
後ろ盾の森有礼文部大臣の暗殺が大きかった。
森文部大臣の暗殺は、もちろん史実。
また、田邊教授のモデル矢田部良吉教授の失脚も、「らんまん」で描かれているとおり史実。
このころ、田邊教授(矢田部)には、次から次と苦境が訪れる。
東京大学教授の「非職(休職)」命令、やがて「免職」。
教授は、大学を追い出される。
「らんまん」と史実の時期の差こそあれ、ほぼ史実通りの出来事が起こっている。
劇中では、苦境にある田邊教授を、妻の『聡子』さんが、けなげに支える。
その姿、聡子さんの言動に、ネットには共感のコメントが多数寄せられている。
「一日、あなたをいただけませんか。子どもたちと海に行きたい。」
新種「キレンゲショウマ」の発見
「らんまん」では、大学教授職の「非職」命令を受け、失意にある田邊教授が、自ら野外に出て採取してきた植物から、新種「キレンゲショウマ」を発見するエピソードが描かれている。
実際の矢田部教授は、明治24(1891)年3月31日に非職となっている。
「キレンゲショウマ」を発見したのは、その1年前の明治23年(1890)。
「キレンゲショウマ」の学名は『Kirengeshoma palmata Yatabe』
この発見は、矢田部教授の学者としての最後の業績となった。
大学を追い出された矢田部は、自らが大学から追い出した富太郎(「らんまん」の万太郎)と同じように、大学の資料・書籍を使用できなくなり、結果的に研究を断念せざるを得なくなる。
「人を呪わば、穴二つ」
この後は、教育者の道を進むこととなった。
大学を非職になって8年後の、明治32年(1899年)、47歳の時に海で溺死する。
問題は、「らんまん」では、教授の死亡フラグワード「海」を言い出したのが、教授の妻「聡子」さんという設定だ。
…悲しい。
これでは、聡子さんが立ち直れなくなるのでは…。
らんまんでは、この部分をスルーしている。
明るく爽やかに、教授から託された辞書を寿衛さんと万太郎に渡して終わり。
まあ、爽やかさを演出している番組なので、聡子の後悔を深掘りしないのだろう。
寿恵さん、出番です
ということで、話は突然万太郎の借金問題にシフト。
寿恵さんは、借金を少しでも減らすために叔母のところで働き出す。
そして、そこで、万太郎の借金を肩代わりしてくれる最初の支援者、岩崎さんと出会う。
まとめ:
・田邊教授の妻、聡子さのモデルは「柳田順」さん
・矢田部教授には、死別した前妻「金沢録子」さんがいた。
・教授と前妻の間には、女子ではなく2人の男子がいた。
・順さんと教授の年齢差は18歳。
・二人が結婚したとき、教授35歳・順さん18歳
・二人の再婚は、前妻が亡くなってからわずか2か月後だった。
・二人の結婚を元に、スキャンダル小説「濁世(じょくせ)」が書かれた。
・「濁世」は、改進新聞に掲載された。
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