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「ブギウギ」鈴子の東京進出:母の涙「根性なし」でまとまる家族の絆

ブギウギの鈴子は家族に「東京へ行きたい」と話す。父と弟六郎は大賛成。だが、母ツヤは声を荒げて反対する。母の反応に、鈴子は内心「母が本当の家族では無いから反対している」と感じてしまう。そんな鈴子に、弟の六郎が声をかけた。「ほんまの家族や。ほんまの家族屋から、お母ちゃんめちゃめちゃ淋しいんや。」
実際の静子は、家族とどんな別れをして、東京で誰と出会うのだろうか。

史実では、松竹の新戦略「宝塚との差別化政策」によって、笠置シヅ子は東京に進出することになる。SGDの立ち上げであった。1938年、日本が暗黒の時代へと突き進む最中のこと。この上京で、笠置の生涯の師となる服部良一(ブギウギの『羽鳥善一』・「草彅 剛」)と出会う。また、SGDの構成・演出の担当者の益田貞信(ブギウギの『松永大星』)は、笠置が淡い恋心を抱いた人物であった。

目次

梅田駅での母の見送り

ブギウギでは鈴子の上京に、「ツヤ」は大反対

「自分は、亀井梅吉とツヤの実の子では無い」
という事実に、悩み続けた数年間を過ごしていた鈴子。

そんな自分を変えようとして、東京行きを決意し家族に話した。すると、父も六郎も大賛成をしてくれる。

だが、一人ツヤだけは、
「東京に行く必要はない。ずっとここにいればいい。」
「あかんもんは、あかん!」
と、鈴子の東京行きに反対をする。

それでも、ツヤを説得しようとする鈴子に対し、声を荒げツヤは席を立ってしまう。

六郎と二人っきりになった鈴子。

「このまま家を出たら、家族の縁が切れてしまいそうで怖い。」

と、六郎に話しかけた。

鈴子は、『自分がツヤの本当の娘ではないので、自分の上京に反対するのだ。やっまり、ツヤと私は本当の家族では無い』と、思っている節がある。

六郎は、そんな鈴子に
「ほんまの家族や。ほんまの家族やから、きっとお母ちゃん、めちゃめちゃさびいしいんや。」
と語る。

六郎君が、いい味を出している。
思わず泣けた。

母の決意

ブギウギでは、鈴子の上京に反対するツヤ。
だが、ツヤの思いとしては、「鈴子が、自分の本当の子では無いことを知ったから、自分たちから離れるために上京したいと言い出した」
と感じていた。

ツヤの心の中では、実母のキヌ(中越典子)から鈴子を奪って、『自分一人の子にしてしまいたい』という気持ちがあった。
ツヤは当然、その心が人として会ってはならない心だと知っていた。
だが、その心はどうしようもなかった。

そんな自分の心の弱さ浅ましさを認め、夫梅吉に自分の心の浅ましさ、弱さを話す。
すると、音吉は、『自分もツヤと同じで、心の弱いしあさましい人間だ』と話す。

ツヤに寄り添う音吉の配慮によって、ツヤは自分の心に折り合いを付け、鈴子の東京行きを認めることが出来るようになった。

鈴子の東京行きを認めるとき、ツヤは鈴子に「もし、つらくなったらすぐに大阪に、そしてこの家に帰ってこい。」と告げる。
鈴子は、『分かっている。何かあったらすぐにお母ちゃんを頼る。』と言う意味で、「こう見えても、ワテは根性なしや」という。
すると、音吉が「ワイも根性なしや。(さすがに親子だ、似てるな。)」
六郎も続く。「ワイも根性なしや。」
大阪らしい、涙と笑いが半々で、家族がもう一度一つになった場面が描かれた。

だが、史実では、見せ場となる「梅田駅」での家族や知人たちの見せ場は描かれないのだろうか。

史実の、笠置の見送り場面

笠置の上京のとき、東京進出をする笠置を家族は盛大に見送っている。
養母のうめ(ブギウギのツヤ)は、黒紋付きの羽織を着て見送りに集まった人々に挨拶をしたという。ブギウギで描かれたように、うめは内心は複雑だっただろう。
「手放したくない」という思い、葛藤もあっただろう。
それでも、娘の晴れの門出の場に、羽織袴を着て着ている。
そして、集まった人々に対し、きちっと挨拶をしたのだった。

ブギウギでも、この史実が忠実に描かれるとしたら、涙を誘う名場面となることだろうに。

うめは、静子を見送りながら、静子の実母谷口鳴尾に対して、『責任の一端を果たした』という思いも持てたのだと思う。
養父の音吉(ブギウギの梅吉)は、このとき挨拶の大役を妻に奪われてしまう。
感動の涙の中の、ちょっと笑える場面として描いて欲しいのだが…。

宝塚との差別化を図る松竹の戦略

趣里さん演じる福来スズ子・NHK

1930年代の後半、松竹はライバル宝塚歌劇団に対して、いかに差別化を図るかについて考えていた。
宝塚は、徹底して少女趣味であり、レビュー独立興行、そして男子禁制を貫いていた。

それに対し松竹は、宝塚と同じ形式の少女歌劇を運営するだけではなく、「大人向けのレビュー」「男子を含むレビュー」、さらに、レビュー単独ではなく、「映画との抱き合わせ」と言う戦略で取り組むことを決定する。
そして誕生したのが、松竹楽劇団(SGD)だった。

SGD帝国劇場での旗揚げ公演

松竹SGDの実現は、1938年4月に帝国劇場で上演されたスヰング・アルバムから。
SGDのメンバーは、松竹の東西レビュー団から選抜され、大阪から笠置シヅ子らが選出され、専属メンバーとなっている。

このとき、笠置は23歳。
1927年に12歳で大阪松竹少女歌劇団に入ってから、11年後の大きな転機だった。

松竹が、SGD創設にかける意欲

松竹は、文字通り勝負をかけた。
資金面でも、この時代であるにもかかわらず多くの予算を投じている。

そして、スタッフも話題性もある一流の人物を集めている。
SGDの総指揮者としては、松竹の創業者の一人大谷竹次郎の婿養子、大谷博が当たっている。

SGDの構成・演出担当としては、三井財閥益田次郎冠者こと益田貞信が就任。
貞信は、三井財閥の創業者益田孝の孫。
貞信の父は、創業者孝の息子で、益田太郎益田太郎冠者
貞信は、その5男。

当時の新聞は、三井財閥の孫が、SGDに入ったことを大きく報じたという。
さて、この貞信は眉目秀麗の36歳。
笠置は、ほのかに恋心を抱いていたという。
このあたり「ブギウギ」では、どう描くだろうか。

運命の師、服部良一との出会い

このときの総指揮者としては、日本初の本格的ジャズプレイヤーであり指揮者として名高かった紙恭輔が就任した。
そして、副指揮者だったのが、服部良一

笠置と服部のこのときの出会いが、昭和歌謡史に残る名コンビを生むきっかけとなった。

初めての二人の出会い

笠置と服部が初めて出会ったときの印象について、服部は自伝の中で次のように語っている。

服部の、笠置に対する第一印象は、『トラホーム病みのようなショボショボの目をした小柄な女性で、まるで裏町の子守か出前持ちのよう』
というものだった。

だが、ひとたび化粧をして舞台稽古に上がってきた笠置を見てびっくりする。
3㎝もある長いつけまつげを付け、烈しく唄い踊る。
そのテンポの良さ、リズム感、スイングする調和感、そして迫力。
『なるほど、これが世間で騒いでいる歌姫か』
と、服部は納得せざるをえなかったという。

この後、笠置と服部の師弟コンビは、レコート(SP盤)を約40枚、曲数60枚を世に出すことになる。
二人の関係を笠置は、『人形遣いと人形、浄瑠璃の義太夫と三味線
と表現している。
二人の、切っても切れない関係は、生涯にわたって続いた。

スイングの女王からブギの女王へ

戦中の笠置と服部コンビは、「ラッパ娘」「センチメンタルダイナ」などの曲によって『スイングの女王』と称され、評判となった。

戦後になると、服部が笠置を「婚約者の死の悲しみ」から助け出すために書いた「東京ブギウギ」など、一連のブギの曲によって、『ブギの女王』と称されるようになる。

笠置と服部良一は、恋人関係だったのか

戦前の帝国時代、二人について男女関係が確かに噂されたことがある。
ある雑誌で「笠置は服部の愛人だった」と、評論家に指摘されたこともあった。

だが、笠置は、
『あの人はワテの先生やがな、しょうもない。すぐ噂を立てられてしまう~」と、
噂を否定している。

二人は、あくまで師弟関係。

笠置と服部の生い立ちが、似たもの同士の師弟関係

服部は、大阪本庄の生まれ。
五歳の頃に、谷町に居を移している。
新居は、ごみごみと建ち並んだいわゆる棟割長屋のうちの一軒。
服部は、そういう場所で幼少期を過ごしていた。(自伝より)

この幼少期の体験は、笠置とほぼ同じ。
笠置も、恩田加島という場所の八軒続きの棟割長屋の内の一軒で育っている。
この幼少期の生活体験は、二人の人格の奥底で共通感覚を育んでいたようだ。

服部の家族構成は、姉が二人。妹が二人。男は良一のみの、五人兄弟。
当時の服部家は、父、そして祖父ともに土人形師を営む家だった。

良一の音楽センスは、どうやら母に大きな影響を受けたらしい。
母は、河内出身で河内音頭が十八番の働き者の女性だったという。

良一自身の音楽デビューは、小学校の頃、近所の教会の日曜学校で合唱隊に入って賛美歌を歌ったこと。
この経験が、服部少年と西洋音楽の出会いとなった。

長じて、道頓堀のうなぎ料亭の主人がつくった「出雲屋少年音楽隊」に入いいている。
うなぎ屋が音楽隊をつくるというと、多少の違和感があるが…。

1926年、19歳で大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団した。
これが、服部良一の職業としての音楽家のデビューであった。

そして、1933年、良一26歳の時に夢を描いて上京。
良一が、笠置と初めて会ったのは、それから5年後の1938年のことだった。
そして、その後二人は、切っても切れない師弟関係となってゆく。

まとめ:笠置シヅ子の東京進出を「紋付き袴」の正装で送り出す義母の思い

〇史実の義母亀井うめは、笠置を梅田の駅で見送る。そのときの服装は「紋付き袴の正装」。そして、集まった人々に対し、挨拶をしている。自分の手を離れ、独り立ちする娘に対する心からのエールだったのだろう。
〇この時の、義母の決断が昭和の歌姫、ブギの女王笠置シヅ子を世に出すことになる。

・1937年・SGD立ち上げの時に、笠置と服部は出会う。
・服部の笠置に対する第一印象は最悪。だが、ひとたびステージに上がった笠置を見て、ファンになる。
・その後、生涯にわたり笠置と服部の師弟コンビは続く。
・レコード約40枚(曲数約60曲)をコンビで世に出した。
・笠置と服部はあくまで師弟コンビであり、男女関係はなかった。
・SGD立ち上げの時当初、若い笠置は、構成・演出を担当する益田次郎冠者こと益田貞信にひそかに恋心をいだいた。だが、恋心以上に発展はない。(笠置の子の父親は、吉本の御曹司)

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