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牧野富太郎の真実の人生【朝井まかでさん作の評伝小説『ボタニカ』から】

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自由党からの脱退

明治15年(1882)、佐川の村中のほとんどが自由党員になっていた。

老いも若きも、男も女も皆が皆自由党員という熱の広がりようだ。

三つとせ、民権自由の世の中に、まだ目の覚めない人がある。この哀れさよ。
七つとせ、なにゆえお前が賢くて、私らなんどはバカである。このわかりゃあせぬ。

猶も、自由党員だった。

富太郎は、自由党員の集会で演説をし、大いに気勢を上げていた。

人間は皆、等しく自由であり、平等の権利をもつべきじゃ。その仕儀の元に日本政府も自由を尊重する政府でなければいかん。しかし、今の政府は、因循姑息極まりない。藩閥政治に明け暮れて、おのれらの権益争いに血道を上げ、都合の悪い民権をたたく。これは、旧幕時代よりも遙かに厳しい圧政じゃき。かような政府など、無用の長物。我々土佐は今こそ一致団結せねばならん。自由を掌中に収めるまでは、断固戦い抜く。わしは、決死の覚悟で臨んじょります。

だが、東京から帰ってから自由党員としての自分の行動に引っかかりを覚える。
牧野先生の自伝には、

「私は、政治で身を立てるわけでは無いから、学問に専心し国に報ずるのが私の使命であると考え、自由党から退くことになった。」

と、あっさりと表記されている。
牧野先生自身の言葉だろうが、どうも納得できない。
この部分は創作かもしれないが、ボタニカの記述の方が実際に近いのではないかと思える。

夜更けに火をともし、田中先生と小野先生に手紙を書いている最中のことだ。
博物局は役所であり、先生らも政治家では無く役人だ。

政と官の区別が、富太郎には曖昧模糊として全く別に思えたり、不可分では無いかと思うこともある。今の政府の力が有ってこそ、あれほどの博覧会が国の事業とし開けたのだ。

故にどうしても、田中や小野の顔が浮かぶ。

もし、今の政府が転覆して、また政情が不安になれば、~小学校の壁に掛かる植物図が剥ぎ取られるかもしれない。

そこまで考えると、世が変わっても博物学や植学の道を貫いてきた人らの、何と強靱なことかと思う。

ボタニカより

この部分は、「らんまん」中で祖母タキが、獄中から万太郎を連れ帰る際に、導入で語った言葉につながる。

何かを選ぶことは、何かを捨てることだ。

富太郎は、政治運動を捨て、学の道に専念することを選ぶ。

芝居じみた決別宣言

富太郎は、政治への決別、自由党からの脱退を決意した。
脱退に当たっては、党員を率いる者たちへのけじめ、挨拶が必要となる。

当然ながら、脱退を宣言する富太郎たちに対する批判が激しくなる
だが富太郎は、それらの批判に屈することなく、芝居じみた演出が施された脱退セレモニーを実行した。

隣村に越知村という村があった。仁淀という川が流れていて、その河原が美しく、広々としている。この河原で自由党の大懇親会が開かれた。

富太郎たち、党を脱退する者たちは15、6人。
この日のために、魑魅魍魎が火に焼かれて逃げて行く絵が描かれた大旗を用意していた。

会場では、各村々の弁士達が入替り立替り、熱弁を揮っている。
盛り上がっているその最中、富太郎がサッと、くだんの旗をさっと差し上げる。
同時に、大音響で脱退の意を表し、さらには大声で歌をうたいながら会場を堂々と脱したのだった。

これで、脱退が許された。
明治初期にしては、なんだか、おおらかな党の脱退風景だ。
これも牧野先生の人柄によったのだろうか。

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