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牧野富太郎の真実の人生【朝井まかでさん作の評伝小説『ボタニカ』から】

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上京

五松学舎の講義にほとんど出なかったので、富太郎は下宿させてもらっていた塾の離れから追い出されてしまった。仕方なく、富太郎は市中の別の場所に下宿を移す。

夏になった。
この夏、とんでもない病が流行する。
コレラだ。

この頃、コレラに対応する治療法は見つかっていなかった。唯一の予防策として、「流行している土地から離れる」、と言うことだけ。

富太郎も、これに従い佐川の実家に戻ることになる。

岸屋はすでに小間物屋をやめ、造り酒屋も他人に貸して利益の一部を得る方式に変わっていた。

このあたりの史実は、「らんまん」とは大違い。

造り酒屋の岸屋を他人に貸すことになったのは、それまで酒造りを任せていた番頭の竹蔵(佐枝竹蔵・さえだたけぞう)が引退したためだった。
竹蔵とは、「らんまん」中の小松利昌さん演じる市蔵、つまり志尊淳さんが演じる竹雄の父のモデルとなった人だ。

富太郎の実家「岸屋」は、造り酒屋をしなくても、他人に貸すことで生計が成り立つ富豪だったのだ。

ところで、実際の牧野富太郎の実家で、新しい 番頭になった人物は、井上和之助といった。
言わずとしれた「らんまん」中の、志尊淳さん演じる竹雄のモデル。

造り酒屋は人に貸しても、経理などで番頭が必要だったようだ。

わし、東京に行ってくるき

明治14年(1881)、富太郎は数え20歳になった。

あるとき、富太郎は、ばあさまの浪子に言う。

「わし東京に行ってくるき」

上野で、内国勧業博覧会が開かれる。
この博覧会は、全部で3回開かれるが、富太郎が行こうとしているのは、その2回目。

高知時代に知ったシーボルトの弟子、伊藤圭介先生が博覧会の審査官として名を連ねていることを知った。
伊藤圭介先生の名を見つけてしまっては、たとえ遠く離れた東京へでも行かなければならない。

「東京へ行く」
といった、富太郎の言葉に、浪子は、即座に
「行っておいで」
と、答える。

このあたりが、富豪の牧野家らしい。

4月の半ば、富太郎は東京へ旅立つ。お伴には、岸屋の奉公人熊吉と五助が付いた。
熊吉というのは、前の番頭だった佐枝竹蔵の息子。

「らんまん」では、お伴は竹雄一人だった。
こう考えると、竹雄のモデルは、「和之助」だけでなく、この「熊吉」もモデルだったのかもしれない。

和之助と熊吉の両方をモデルとしていたかも、だ。

ともかく、3人で歩いて高知に出て、浦戸から蒸気船に乗り、神戸港に入った。
神戸から京都までは、陸蒸気に乗った。

京都からは歩いて鈴鹿峠を越え、四日市に出た。
そこからは、また蒸気船に乗った。

甲板から富士山を見て感激しながら横浜港に着き、そこからまた陸蒸気に乗って東京に入った。

小野 職愨(おの もとよし)先生、田中芳男先生との出会い

富太郎が東京に来た目的は、伊藤 圭介先生と小野 職愨先生の二人に会うためだった。

富太郎は、内国勧業博覧会を主催する博物局に、小野 職愨(もとよし)先生を訪ねた。
小野先生は、富太郎が小学校時代退屈な授業中、唯一夢中になった『博物図』の編者だ。

富太郎は幸運に恵まれていた。
小野先生は、快く富太郎に会ってくれたのだ。

小野 職愨先生と面会したとき、隣に田中芳男先生もいらっしゃった。
田中先生も、富太郎に深い影響を及ぼした翻訳本の執筆者であった。

田中先生が翻訳した本とは、『垤甘度爾列氏植物自然分科表』 (ド・カンドルレシ ショクブツ シゼン ブンカヒョウ)という。

富太郎は、この本によって植物の分類を学んでいた。その翻訳本の執筆者が目の前にいる。
舞い上がったことだろう。

伊藤圭介先生との出会い

富太郎は、さらに幸運に恵まれる。

田中先生が言う。
「君が会いたがっている伊藤圭介先生は、僕の師だよ。」

シーボルトの弟子、伊藤圭介先生は、なんと田中芳男先生の師だったのだ。
田中先生の計らいで、富太郎は伊藤先生の自宅を訪ねることができた。

小野職愨先生、田中芳男先生、そして伊藤圭介先生との出会いは、富太郎の大きな財産となっていく。

富太郎は、人生の氏たちとの出会いを果たし郷里佐川に帰った。
これからは、独学では無い。

採取をしていて、名やファミリーが分からないものは、先生方に質問の書状を送ることが出来た。
先生方からは、ちゃんと返事が来る。
何と言う幸せか。

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