笠置シヅ子の芸能界での輝かしいキャリアの裏には、二人の名伯楽(人を見抜く力のある人物)の力が存在していました。一人は音楽の名手「服部良一」。もう一人は喜劇の巨星「榎本健一(通称エノケン)」です。本記事では、これらの二人が笠置に与えた影響と、彼女がなぜ「ブギの女王」と同時に「女エノケン」と呼ばれるようになったのかを探ります。
笠置とエノケンの出会い
戦後間もない1946年2月下旬、笠置はエノケンに初めて出会いました。舞台は日比谷・有楽座の稽古場。有楽座の「舞台は廻る」という演劇でエノケンと共演することになったのでした。
「エノケンがなぜ笠置を相方に選んだのかについては、詳しいいきさつは分からない」という事が公式見解のようです。
この「わからない」という部分が、ブギウギでも絶妙なタッチで描かれていましたね。ただし、選んだのはエノケンであることだけは間違いないわけです。
芝居の素人である笠置に対し、エノケンは次のように言ったと言います。
「君は、歌手で役者ではないので芝居のツボがずれている。
エノケンさん、なかなか厳しい…。
しかし、それが(芝居のずれが)また面白い効果を出しているので、改める必要はない。僕がどんなにツボを外しても、どこからでも受けてやるから、どこからでも外したまま突っ込んでこい。
エノケン、かっこいいではないですか。
笠置は、エノケンのこの言葉を終生忘れなかったと言います。
エノケンは、笠置の味わい深い大阪弁と、独特の反応と表情、一言で言えな「素」の魅力を見抜いていました。よい意味で、本能的な野暮さが芸人にとって最も重要なファクターであり、笠置にはその「素」の魅力があることを見抜いたのだと思います。
強烈な個性がぶつかる有楽座の舞台
笠置とエノケンの舞台は連日満員。その強烈な個性が注目を浴び、舞台は連日大盛況。
こうして二人は、舞台から映画に進出。芸能ジャーナルも、笠置とエノケンの活躍を書き立てるほどでした。
二人の生涯の師、服部良一と榎本健一の評価
笠置とエノケンの演技を見て、服部良一は、次のように述べています。
「かねがね僕は、日本のボードビリアンとしての男性では榎本健一、女性では笠置シヅ子を一男だと思っている。」
芸能評論家の、旗一兵も次のように評しています。
「エノケンさんと太刀打ちできる強烈な雰囲気を持っている女性ボードビリアンは、笠置をおいていない。」
さらに、演劇評論家の伊藤寿二は、
「
「エノケンだけでも面白いし、笠置シヅ子一人で歌っても楽しい。まして、この二人が一緒に出れば、余計面白いに決まっている。終戦後、とかくとんがりがちな人の心が、エノケンの映画と芝居や笠置のブギウギの歌のおかげで、どんなに和らいだかわからない。」
エノケンも、笠置も個性的。この二人が共演したステージは、相当に面白かったでしょうね。戦争で暗かった世の中に、強烈な光を灯したことでしょう。
服部良一はエノケン・笠置コンビを絶賛し、「日本のボードビリアンとしての男性では榎本健一、女性では笠置シヅ子を一番だと思っている」と述べている。芸能評論家や演劇評論家も彼らを高く評価しており、その存在感に触れています。
ブギの女王笠置シヅ子は、同時に女エノケン
二人の出会いは、終戦から半年後でした。
つまり、笠置が「東京ブギウギ」を歌い、ブギの女王と呼ばれる1年前のことでした。つまり笠置は、ブギの女王と呼ばれる前に、女エノケンと呼ばれるようになっていたのでした。
笠置は戦前に音楽の名伯楽、服部良一と出会い、歌手としての才能を見出してもらいました。
そして、戦後は演技指導の名伯楽、榎本健一に役者としての才能を見出されました。
この二人の名伯楽を得て、彼女は「ブギの女王」としてだけでなく、「女エノケン」としても呼ばれるようになったのでした。
結論
笠置シヅ子の芸能界での成功は、二人の名伯楽(人の才能を見抜く天才)服部良一と榎本健一に支えられた結果であると言えます。彼女の個性と彼らの影響が交わり、昭和史に残る名コンビが誕生したのでした。
人間というのは、本人の力だけで成功できませんね。自分の才能を見出してくれる人との出会い。人生でこの出会いを持っている人こそ、真の才能を発揮できる人になれる、そう感じました。
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