-
「え!?」草薙剣とは別の剣を三種の神器としたって本当
「昼御座(ひのおまし)の剣」を宝剣の代用、寿永2年(1183年)に伊勢神宮の祭主大中臣親俊(おおなかとみのちかとし)が後白河に贈った剣を宝剣としたのでした。この剣は「神宮御剣」 -
水戸の攘夷論は『方便』、なんと日本で一番最初に開国を主張したのは徳川斉昭だった!
【水戸学の中心人物 斉昭は、本当に攘夷派だったのか】 水戸学は、「良いものは良いとして取り入れ、悪いところは排除して取り入れない」という根本思想を持っていたはずです。 そのような水戸学が、「技術的に進んでいる西洋の技術や学問を、安易に批... -
深作安文は「水戸学」を『皇室中心の国民道徳論』と捉えた
『「水戸学」は科学という意味ではない。』 深作氏は、このように指摘します。 水戸学は、歴史学などの「社会科学ではない」ということでしょうか。それは無いと思いますので、 水戸学は、単純な社会科学という枠には収まらないという意味だと理解しました。 -
慶喜は天狗党を裏切ったのか
【30年前の中学生の選択社会の実践より 】 下のスライドは、平成10年代前半の中学3年生の選択教科の実践です。 選択教科社会で、自分たちが気になる課題を設定して追究する実践でした。 追究の出口は、秋の文化祭での発表としました。ただし全員が全... -
維新の源流としての水戸学NO10(弘道館記述義について)
弘道館記は、491文字の簡素な文章でしたので、斉昭は、「これを詳しく解説せよ」と藤田東湖に命じました。東湖は、再三辞退しましたが最終的に承諾し、十年の年月をかけ「弘道館記述義」を完成させます。 -
維新の源流としての水戸学NO9(弘道館記を書いたのは誰か)
弘道館は、一番最初に出来た藩校ということでも、藩校の中で一番大きかったと言うわけでもありません。 弘道館は、水戸学の中心だったという理由で全国で有名になった藩校です。 -
維新の源流としての水戸学NO8(会沢正志斎の新論)
新論は1825年に書かれています。出来上がった当時は、藩主斉脩(なりのぶ)によって、公刊を差し止められていました。 -
維新の源流としての水戸学NO7(藤田幽谷と東湖)
東湖は、幽谷の子であり後期水戸学を代表する、政治家にして詩人、そして思想家であるとともに行動家でありました 父、幽谷に負けず劣らずの秀才です。そして有言実行の人です。 -
維新の源流としての水戸学NO6『水戸学にとっての、立原翠軒と藤田幽谷』
1740年代から1800年の少し前ごろまで水戸学は衰退期に入っていました。再び水戸学に火をともし全国に名を知らしめたのが藤田幽谷でした。 -
維新の源流としての水戸学NO5『中期水戸学とは』
1740年頃~1790年代頃まで『大日本史』の編纂は停滞期に入ります。この停滞期を中期水戸学期と呼ぶ学者もいます。