朱子学と言えば、江戸時代の「平和維持のための教え」とか、「林羅山に始まる教え」というイメージが強い。
しかし、実際に朱子学が広まったのは、江戸時代も後期に入ってから。
また、朱子学者として影響を与えた学者が山崎闇斎であったことは、あまり知られていない。
闇斎の朱子学は、会津の教えや、水戸学にも強い影響を与えている。
江戸時代前期の儒学
江戸時代になるまで、朱子学は禅宗の寺院で学ばれていた。
つまり江戸時代以前は、朱子学は臨済宗の教えの一つと思われていたのかもしれない。
江戸時代前、朱子学はようやく禅宗寺院から独立する。
そして、藤原惺窩の門人、林羅山が徳川幕府の政治顧問となったことで、林家の子孫により広まっていく。
林家の子孫は大学頭として儒学を統括する職務を得て、その職を世襲するようになることは良く知られている。
朱子学が、江戸幕府の基本思想として定着したのは、江戸時代の後半
『朱子学』と言えば「江戸幕府」
私たちの頭の中には、そういう概念が既に出来上がってしまっている。
しかし、徳川幕藩体制を支える思想が『最初から朱子学』だったわけではない。
朱子学が江戸幕府下の、平和の時代に生きる武士たちの間に浸透していくのは、江戸時代も後半になってからのことだった。
(近年の通説による。)
日本朱子学の代表者、林羅山の先生は藤原惺窩。
惺窩の思想は、実は朱子学というよりは、他の道学諸流派や陽明学の要素が色濃かった。
そのため、江戸幕府開府当初の林家の朱子学は、足下が固まっていたとは言えない。
江戸時代、チャキチャキの朱子学者 山崎闇斎
『俺は、間違いなく朱子学者だ』
と、自覚し『朱子学者』を名乗ったのは、山崎闇斎。
闇斎は、『吾こそ朱子学者。朱子学とは、このような学問。』と、
その朱子学を広めることに強い使命感を抱いていた。
山崎闇斎の闇斎という号は、朱熹の号である「晦庵・かいあん」と同じ意味。
『闇』とは、『やみ』とか、『暗い』とか『隠れる』とかの意味。
『斎』は、『書などを読む空間』『勉強部屋』とかの意味。
『晦庵』の『晦』も『闇』と同義だし、
『庵』も、『斎』と同義。
つまり『闇斎』も、『晦庵』も、『隠れた、粗末な、暗い、書斎』、『とるに足らない学者』と言うほどの意味になるだろうか。
山崎闇斎の垂下神道
闇斎は、「神儒一致」を説く。
日本の八百万の神々と、儒教は一致している、と。
『神儒一致』の『垂加神道』を理論化した人物が闇斎だった。
闇斎は、朱子学=儒教の、最も正しい学問
朱子学=日本の神道
と、捉えている。
これにより、闇斎は、仏教を批判することになる。
日本古来の神道を貶めたのは、仏教である。
古来の日本の神道に帰れ、
それこそ垂下神道である。
それまで、臨済宗の一つの教えとして学ばれてきた朱子学だったが、
闇斎以後、朱子学は、日本古来の神道と結びつくことになった。
山崎闇斎の朱子学と 会津の保科正之や水戸の徳川光圀
闇斎の住まいは京都にあった。
しかし、その影響力は大きく、全国に朱子学の信奉者を生んでいく。
「林家の朱子学」に影響を与えたことはもちろん、
幕府中枢の人間であった会津藩主保科正之(将軍家光の異母弟)にも、大きな影響を与えた。
闇斎の朱子学は「ならぬものは、ならぬものです」という会津の教えにも影響を与えた。
また、御三家の一つ水戸徳川家の二代藩主光圀にも影響を与えた。
水戸学の根本となる国体論も、闇斎朱子学の環境から生まれている。
幕府の御三家の一つの水戸家が、
将軍より天皇を重視したのは、
このためか。
光圀が江戸藩邸に築いた後楽園の命名は、朱子学の先駆者范仲淹(はんちゅうえん)の名言『先憂後楽』にちなんでいる。
この庭園に名前を付けたのは、明から亡命学し光圀の朱子学の師となった朱舜水。
水戸の「水戸学」、会津の「什の掟」
この2藩の教えは、闇斎の朱子学が強く影響していたわけだ。
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